見習い夢魔⑤
かつかつと踵を鳴らして事務所から飛び出たリディは、そのまま街の高台まで一息に進んだ。坂の街であるサロギは、高台に辿り着けば街を眺望することができる。リディはそこに仁王立ちをして、ギラギラとした瞳で街を見下ろした。
体内に蠢いている魔力に意識を集中させる。渡されたままの写真をじっと眺めて、子犬の姿を網膜に焼き付けた。それから、特殊魔術が発動される魔力の集まる適正部位に殊更に意識を集中させる。
リディの適正部位は瞳だ。
視力強化。
魔力を巡らせたその瞳は、事細かな場所を視界に収めた。どんなに小さなものでも見逃すこともなく、建物に阻まれることもなく、街中を視察していく。
ロレンの言う通り、リディ・ブランジェにとってペット探しなど、桁外れに簡単な作業だ。
実際、こうして街を見下ろすだけで、リディは子犬の姿をすぐさま捕捉した。細い裏路地をうろつく子犬。それは写真に収まっている姿で間違いない。リディがぶつかった子犬とも同じだ。
そうして子犬を発見したリディは、事務所を後にした勢いを胸に抱いたまま、コロンの元へと飛び出した。
それから一時間以上。リディはただひたすらに駆け回り続けた。息も絶え絶えで、街中を駆け回ったのだ。それから、どうにかエラン魔探偵事務所へ戻ってきた。
頭に葉っぱをくっつけて、ジャージを汚した状態で扉を開く。
すると、ちょうど扉を開いたところにロレンがいて目を見開いていた。何をそんなに驚いているのか。リディのほうも僅かに怯む。
しかし、今はへっぴり腰になっている場合ではない。リディは腕に抱えた子犬を掲げるように前方へ押し出して、自慢げな顔で笑った。
「やりましたよ!」
ボロボロの格好で張る胸がたゆんと揺れる。ロレンはそれを見届けながら、目を眇めた。
「……シャワー、行ってこい」
「へ?」
降って湧いたような提案に、リディはきょとんとする。
その間に、ロレンはリディの腕の中からコロンを抱き上げ、首輪をつけて散歩紐をテーブルの端に巻き付けた。コロンを撫でておとなしくさせるのも手慣れている。
予想外に動物に優しい態度に、リディの呆然とした態度は長引いた。
ロレンが動物を虐待するような極悪な性格をしているとまでは、リディとて思っていない。しかし、粗雑な印象がほんの数時間の間にこびりついてしまっていた。丁寧な手つきには、意外性しか感じない。
「おい。インターン。シャワーに行ってこいと言ってる。制服も乾いてるだろうから着替えてこい。依頼人の元へ連れて行く準備をしろ」
リディに対するロレンの態度は一貫して傲慢だ。命令口調は高圧的で、リディに反駁を抱かせる。しかし、人権を無視するような命令をされているわけではない。乱暴ではあるが、業務上の指示の範疇だ。
リディは香にも勧められる形で、本日二度目のシャワールームへと突入した。
まさか、日に二度も事務所のシャワーにお世話になるとは思っていない。二度目であっても、リディの抱く躊躇いは拭えなかった。
しかし、見苦しいのも依頼人には申し訳が立たない。整える必要性があることは、リディとて理解している。ロレンでさえ、依頼人の前では取り繕うのだ。
それでも、リディはゆっくりとシャワーを浴びる気にはなれなかった。急かすようなロレンの言葉を思うと、時間をかけていられない。リディの長い髪の毛は乾かすのに時間がかかる。
軽く顔を洗って、髪から葉っぱを落とした。手首につけたままにしてあったヘアゴムを取り出すと、ひとつに結んでぼさぼさなことを誤魔化す。後はジャージを脱いで、乾いていた制服に袖を通せば、人前に出ても問題はないはずだ。
特急でジャージを脱いだリディは、ほんの少しの時間も惜しむように制服のシャツを羽織る。ここで裸のロレンとバッティングをしたのだと思うと、下着姿でいることが心許なくて気が焦った。
そんなリディの手を止めたのは、応接間から聞こえてきた激しい物音だ。何かがぶつかる音と、書類か本か。倒壊する物音が聞こえる。
「ロレンくん!」
香の高い音に、リディは手早くスカートを穿いてコルセットベストをつけないままに、シャワールームを飛び出した。
そうして目にした光景は、テーブルに繋がれていたはずのコロンが紐から放れ、牙を剥いてロレンたちを威嚇しているものだった。子犬だったコロンの図体は一回りほど大きくなっており、黒色のくりりとしていた瞳が血のように赤い色を放っている。
リディはひゅっと息を吸った。
コロンと睨み合うロレンの瞳が、一瞬だけリディに向けられる。
「リディ・ブランジェ」
「はい!」
短く号令のように呼ばれて、リディは反射で返事をしていた。声が高く跳ねる。その音に反応したのか。コロンが唸り声を上げて、リディに向かって飛び立った。
そのコロンの身体を、ロレンが受け流すように遠ざける。反応速度と身のこなしは、リディを感嘆させた。
実力を見誤っていた、というほどロレンのことを知ったわけでもない。だが、ここまでの気怠げな動きを見ていれば、その実力はきらめいて見えるものだ。
最優秀生という言葉が今になって輪郭を持ってくる。
そんなふうに思い直すリディの前に立つロレンは、コロンから視線を逃がさないままに低く呟いた。
「よく視ろ。毛の一本からどんな微生物であろうと見逃すな」
「はい」
指示の意味。現状の把握。リディの経験のなさでは、それをつぶさに理解することはできなかった。だからといって、説明を求めている場合ではないことは分かる。与えられた役割をこなす以外に道はなかった。
リディは適正部位に集中して、コロンの身体を隅々まで観察する。全身を検分する間、ロレンがコロンの相手を買って出てくれていた。香はキッチンの隅へと避難している。
「右耳の裏に魔生微生物が見えます!」
一般の動物に生息しているものとは違う。魔生微生物とは魔生動物にのみ寄生して悪さをするものだ。その部分のみ、コロンの魔力の流れが変質していた。
発見したものを口に出した瞬間、ロレンの手のひらが持ち上がる。ひやりと空気が凍えたのは、その気迫によるものだっただろうか。
空中に手を翳したロレンは、そのままコロンを見定めて拳を握った。ただ空気を握っただけの仕草の後ろに、からんと硬質な音が響く。
瞬間、コロンがその場にぱたりと倒れた。様変わりしていた容貌がしゅるしゅると元へと戻っていく。ロレンはコロンに近付いて、その身を抱き上げた。
その足元には、小さな氷の塊が転がっている。
その中に魔生微生物が封じ込められていることも、それを封じ込める瞬間のことも、リディにはしっかりと視えていた。その精度には、唖然とするしかない。
ロレンはその実力を鼻にかけることもなく、コロンをソファに寝転がせる。その後、氷の塊を手に取ると、精査するかのように中身を見つめていた。
リディの瞳でようやく見えるものを覗き込んで、はたしてロレンに何か発見があるのか。リディは疑問に思ったが、ロレンはすぐに氷塊を握り締めてすり潰してしまった。
氷塊はさらりと粉と化して空気に溶けていく。その消滅の仕方は、系統魔術の応用なのだろうか。リディは破片も残さないそのやりざまに感銘を受けていた。
そもそも、系統魔術をこうまで使いこなすことが異例だ。
系統魔術は、魔力の属性を示すために割り振られるものであり、それ自体を術として取り扱うには膨大な訓練が必要となる。
そして、多くの場合、系統に関係する自然現象がそばにあって、それを増幅する形で使うものだ。風であれば、空気を流れる自然の風を増幅する。水であれば、空気中の水素を元に水分へと変貌させる。
氷ともなれば、本来はそばに水がなくてはならない。しかし、ロレンは何もない場所から氷塊を作り出した。つまり、本来ならば水系統の領分である、空気中からの水の抽出まで行っているということだ。
系統の中の近しい属性は、相互作用する場合がある。地系統のものが、緑……植物に作用することがあったり、それこそ氷属性が水に作用することがあったりする。そうした関係にあるものを術として操ることは不可能ではなかった。
しかし、多くのものがそんなことはしない。系統魔術はあくまで属性だ。個人能力である特殊魔術を伸ばすものがほとんどで、ロレンのような術師はそういない。
少なくとも、学生であるリディの周りにはまったくいなかった。それだけで、ロレンの実力が分かる。態度によって幻滅していた分、よりよく見える部分もあるだろう。だが、ロレン以外にそうした能力を持つものに出会ったことがないのは事実だ。
尊敬する魔探偵の形を見せられてしまったようで、リディはロレンを凝視してしまう。
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