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誘惑の一手①
本日のエラン魔探偵事務所は、いつもよりもずっと静かな朝を迎えていた。
リディは出勤したが、ロレンを起こしに行っていない。昨日のホテルでのことが脳内に引っかかって、動き出せなかったのだ。心が錆び付いているかのような音を立てている。
リディはロレンの部屋の扉を横目にソファに腰を下ろした。
ロレンにはいつも、ほどほどにしろと叱られている。それに従ったのだ、と今更な理由を盾にして、自身に言い訳をしていた。
言い訳だと分かっていても、そうした理由をくっつけなければ、気持ちが落ち着かない。どちらにしても落ち着かないのだが、心を区切るための理由は欲しかった。
それでもやっぱり落ち着きはなく、いつもは散らばっていてもスルーしている書類を手持ち無沙汰に揃えてみたりする。
大部分は香がファイルにまとめているようだったが、中には放置されているものもあった。どちらかというと、なくしたままになっていたりするものであるようだが、何にしても散らばっていることに間違いない。
リディはぱらぱらと書類を並べる。
比較的、上のほうに重ねられていたもの。新しい紙は、本当に直近の報告書だったようで、リディはその場で手を止めた。そこに連なっている文字は、昨日嫌というほど目にした癖のある悪筆だ。
ロレンが報告書をここまで緻密に書いているのは珍しい。
勿論、エラン魔探偵事務所が収めてる書類にはロレンが残したものが多くある。だが、リディが来てからは主にリディに、そうでなければ香に任されていた。
なので、昨日の報告書をロレンが仕上げるというのは引っかかりがある。リディはその直感に従うように、内容に目を向けた。
薬物の取り引き現場確認。まとめのタイトルは適当極まりない。
取り引きされている薬物は媚薬となっている。それは昨日の現場で見たもので、リディも知っているものだ。その後の内容も、ほぼほぼ共有している。
というよりも、リディが視たはずのものが微に入り細に入り記入されていた。やはり、ロレンにはリディの視界が視えていたらしい。
ロレンの特殊魔術は一体何なのだろうか。
理解力の上昇……超理解と似たようなものか。しかし、理解だけでは、リディと視覚を共有することは難しい。かといって、共有だけであるのならば、結界を消滅させられた理由がつかない。
特殊魔術はそれぞれに名が付くし、一聴では似た名前であってもまったく別の能力を発動することもある。だから、予測はあくまでも予測でしかないが、それすらもなかなか立たない。リディは頭を巡らせながら、昨日視たことの書かれた報告書を流し見していた。
その流れがとある一文で止まる。
『以上、取り引き現場の確認は完了致しましたことをここに報告致します。
地下への入場切符は招待状をなくした旨を報告し、代わりにロッカーの鍵を差し出すこと。その後、ロビーにて改めて声をかけられた際に、本日は出会いを求めてやってきたのですが、と思わしき言葉を伝えることとなります。中にはトラップをかけてくる取り締まりのものもおりますので、ご注意ください。ご武運を』
一度。二度。何度読み直してみても、文章が変化することはない。ロレンの魔術がいくら予測不能であるとしても、文章に謎をしかけるものではないだろう。
リディは思わず報告書を握りつぶしそうになって、我に返った。
取り引き現場の調査としか、リディは聞いていない。
エラン魔探偵事務所が担うかはさておき、差し押さえるためのものであろうと信じていたし、ロレンたちも説明をしなかった。だが、この報告書を見る限り、そうではない。それどころか、これは斡旋するものだ。
リディはそれを認められない。内心に嵐が吹き荒れる。自分がそんなものに手を貸していたのかと思うと、虫唾が走った。
だが、同時に脳内に響く声もある。
正義ではないと。依頼人に答えるものだと。それを言ったのはロレンで、紛れもなく有言実行している。完璧に等しいだろう。
しかし、頭では理解していても、リディにとっては眉を顰めるものだった。せめて一言欲しかったという思いと、受け入れられそうにもない正義感が戦っている。
ロレンにどちらを言ったところで、有益な回答は返ってこないだろう。仕事の詳細は伝えて欲しいと言っても、我が儘を言うなと撥ね除けられる気さえした。ゆえに、確認をすることもできない。
煩わしいことに対して、ロレンには何を言っても無駄だ。これが魔探偵であるというのならば、ロレンは譲らないだろう。何より、エラン魔探偵事務所の方針と言われてしまえば、リディには抵抗の余地がない。
インターン生はあくまでもインターン生で、各事務所の深い部分に関わることは許されなかった。
仮にも探偵事務所だ。取扱注意の個人情報なり、事件情報なりを秘めている。業務上、インターン生にも明かせないものがあった。
事務所主は学生を預かっている身分だ。社員と同じように、危険度の高い仕事を振るわけにはいかない。責任問題に発展する会社が、毎年いくつかはある。
ロレンがそのような面倒な問題を抱え込むような真似をするはずがない。主の判断として、リディに情報が与えられないのであれば、文句は言えなかった。元々、そういったふうに指導を受けている。
リディは報告書をテーブルへと戻して、長いため息を吐いた。深くソファに沈み込むと、その姿勢はここの主によく似ていて、苦笑いになる。
ここ一ヶ月半で、何をするにもロレンの姿がちらつくようになっていた。それは魔探偵としての仕事上のものでもあり、こうした日常の何気ない仕草のものでもある。そう思い至った途端に、昨晩の過ちが蘇り、リディは頭を抱えた。
報告書とともに頭を悩ませる切実な問題だ。
どうしよう。
身体の内側に問題を溜めこんで抑え込む。インターン先の探偵の相談を、インターン先でするわけにもいかない。キスのことともなれば、なおのことだ。
健康診断中に誰かに相談する?
インターン生には、数ヶ月単位で健康診断が設定されていた。精神的な診断から魔術の状態までの診断が、学園で主催されている。また、その際に日々の報告書をまとめて上げるようになっていた。
その日一日は魔探偵事務所の業務形態と無関係に、インターン生は学生の身分に戻る。診察は問題がなければ午前には終了するので、その後は休養時間だ。インターン中の短い小休止。同級生と話す時間もあるだろう。
一年生の診断時期は比較的短期間に設定されていて、もうすぐだ。リディは、そのときに相談をしよう、と話を棚上げにすることにした。だからといって、ロレンを起こしに行けるわけではないけれど。
そうこうしているうちに、香が起きてきて、それに追従するようにレナートまでも出勤してきた。レナートは寝不足なのか。欠伸をお供にやってくる。
「おはよう。ロレンは?」
「まだおやすみですよ」
「……最近にしては珍しいな」
そう呟くレナートの瞳が、僅かにリディを見やった。しかし、リディはその視線の意味に気がつかなかったし、レナートも気づかれるようなヘマはしない。
「今日は? 向かわないといけない任務はない?」
「今のところ聞いてません」
「まぁ、昨日の今日だしな。あいつがそう詰め込んだりはしないか」
「ロレンさんですからね」
それはそこにいる全員が一致している納得だ。
しかし、呟いたリディの声には、思いのほか批難めいた調子が含まれた。それは微々たるものだったかもしれない。だが、最近のリディはロレンに慣れきっていた。不満を零すようなことも減っていたので、やたらと鮮明に届く。
レナートに至っては、ロレンに対し小さな文句ではなく、批難混じりの愚痴を聞いたのは初めてだったくらいだ。
その瞬間まで、レナートは昨晩の何か、を艶めいたもの。からかいの対象にできるものだと考えていた。しかし、こう頑なな態度が出てくると、それだけではない何かだったのか、と疑念が噴き出してくる。
浮かない顔をしているリディに、レナートが声をかけてきた。
「じゃあ、リディちゃんも今日の予定はない?」
「えっと、多分ですけど」
「大丈夫だと思いますよ」
「借りてもいい?」
「……セクハラ目的でなければ」
ロレンも散々、レナートをセクハラだと諌めることを繰り返している。幼い香にまでそれを言われるのは、レナートでも反省をすることを考えるくらいはするらしい。苦い顔になった。
「俺だってちゃんと仕事はしてるだろ? 勘弁してくれよ、香ちゃん」
「釘を刺しておくことに越したことはありませんから。リディさんに妙なことをしたら、ボクが許しませんからね」
どれだけ幼い。微笑ましさの残る怒り方だとしても、本気であることは間違いなかった。
レナートは痛いところを指摘されて気まずそうに失笑を零す。
「OK。誓うよ」
「どれだけ言われても軽いんですけどね」
「それは仕方がないだろう? 俺はそういう魔探偵なんだから」
「お仕事に文句はつけませんよ」
「それなら、安心してくれ。捜し物だ。リディちゃんを借りたい」
「……リディさんがよければ」
香はエラン魔探偵事務所の正式な社員だ。住み込みでお手伝いをしているとリディは聞いている。ロレンと同じ名であるのだから、親族か何かなのだろう。
血が繋がっていると思われる香だが、ロレンと違って命令を下すことはなかった。リディの感情を優先させてくれる。
リディは立ち止まらなかったわけではない。レナートだって社員だといえど、ロレンの命令なくして動いていいのものか。そういった判断がつかない。
だが、仕事は仕事だ。捜し物であるというのだから、自分の力は十分に発揮できる。そして、何もせずにいるよりも、今は何かに没頭していたかった。
「私でよければ力添えさせていただきます」
「ありがとう。ロレンへの報告は任せるね、香ちゃん。行ってくる」
さくっと話を取りまとめたレナートは、行動までもさくっと決めてしまう。リディは「行ってきます」と続いて、しゃんと背筋の伸びたレナートの後を追った。
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