誘惑の一手③

 エラン魔探偵事務所に戻る足取りは、鉛のように重かった。

 あれから三十分以上が経過していたが、あれだけの情報量をそう簡単に咀嚼しきることはできない。リディは未だに身体中を渦巻く感情に揺さぶられながら、事務所の扉を潜った。

 応接間にはロレンが出てきていて、ソファに座っている。香は出かけているようだ。

 リディは部屋に入るや否や、思わず立ち止まってしまった。ロレンがいることは当然分かっていたが、実際に間もなく対面すると動揺が広がる。

 ロレンはちらと目をやって、止まっているリディに眉を顰めた。


「なんだ。そんなところに立ち止まって」

「いえ」


 そう言って首を左右に振るのが、リディの精いっぱいだった。ロレンは表情を険しくする。


「レナートに何かされたか?」


 なかなかひどい当てずっぽうだ。

 しかし、ロレンにしてみれば、レナートと仕事に出向いてへこんで帰ってきたのだから、そうした予想にもなる。リディは苦笑を浮かべた。


「大丈夫ですよ。心配されるようなことはありませんでした」

「そうかよ」


 聞いておきながら素っ気ないのはロレンらしい。

 リディはそっと息を吐き出して、定位置であるソファに腰を下ろした。しかし、下ろしただけで、どうにも身動きが取れない。いつもなら、辺りにある書類を適当に手を取って読み漁る。時間の潰し方は身についていた。

 しかし、今日は何をしたらいいのか分からない。

 ロレンは、くだんの報告書だろう。それを読み直しているようだ。リディがそれを盗み見したことを知る由もないのだから、疚しい態度は毛ほどもない。いや、仮にリディが知ったと気づいたとしても、ロレンは悪びれはしないだろうけれど。

 リディは静かにその様子を窺っていた。レナートに話された内容と昨日の内容。折り合いのつかない任務の方向性。そうしたものが頭の中を回転し続けている。カフェでは多少なりとも落ち着く気配があったものが、ぶり返しているような気がした。

 やはり、帰ってくるのは早かったのかもしれない。レナートの心遣いをもう少し上手く使うべきだっただろうか。

 だが、いくら時間に余裕が生まれたといっても、勤務中に変わりはない。レナートから許可が下りたとはいえ、長時間席を空けられるほどリディは図太くはなかった。その感情に負けて帰ってきたようなものだ。

 だからこそ、いつものように振る舞わなければ、という気負いまで生まれて、胸中はてんやわんやしている。

 ロレンはマイペースだ。自分に影響がなければ無関心でいられるのか。仕事に集中しているのか。どちらにしても、リディの様子に気を配ることはない。適当な態度に救われることがあるとは思わなかった、とリディは僅かにほっとしていた。

 一方で、こんなにも無関心でいられるものかと思う気持ちもどこかにある。それは、リディの抱えている悩みのすべてがロレン絡みであるがゆえの八つ当たりかもしれない。

 そうこうしているうちに、居心地の悪さに限界がやってきたのはリディのほうだった。真面目なタイプと適当なタイプで我慢比べをすれば、リディの負け筋は確定的だ。圧倒的に分が悪い。


「あの」


 意を決して声を発したリディに、ロレンは目顔で応える。

 一見取っつきにくいかのような反応をするのはロレンの常だ。日頃なら受け流せたのだろうが、今のリディには緊張感を高めるばかりのものであった。口内がからからに乾いて、続けようとした言葉が吸い取られる。


「……なんだ?」


 リディがあまりにだんまりを決め込むものだから、ロレンは声で反応した。聞いているという姿勢を見せてくれる姿に、リディの緊張感は加速する。

 渋る姿を目に留め続けたロレンは、はぁと深く息を吐き出した。面倒くささに文句をつけられるのでは、とリディは肩を揺らす。過剰な反応になっているのは分かっていたが、それを抑え込むことはできなかった。


「……昨日のことなら、悪かった。忘れろ」


 リディの渋る理由を、ロレンは自己解釈したらしい。互いに持っている情報に差があるのだから、ロレンがリディ関連で気に留めることはそれ以外に存在しなかった。それを呟く姿は、良心の呵責を抱えている。

 ロレンは基本的に面倒くさがりだ。それはある種で、理性的であるとも言える。衝動で動くことは稀有だった。それを実行に移してしまった落ち度に、後ろめたさを抱かないほどには横暴ではない。

 一方で、リディが煩悶していたのは、インターン先としてのエラン魔探偵事務所の存在だ。昨日のことを少しも考えていなかったわけではないが、まさかそのことをロレンから切り出されるとは思っておらず、目を瞬いた。

 あからさまにきょとん顔になったリディに、ロレンの顔つきが一息に渋くなる。


「違うのならいい」


 ロレンは並外れて不機嫌に零した。リディは慌てて首を左右に振る。そこにイエスやノーなどの意味合いはなく、ただただリアクションをしなければという勢いだけのものだった。

 そうした雑なアクションは、ロレンに意図を届けることはない。噛み合わないやり取りに、ロレンの表情は渋味を増していった。


「……あれ、何だったんですか?」


 リディは苦し紛れに、問いを投げかける。

 ロレンは忘れろと言っただろう、というような苦い目をしたが、すぐに表情を戻した。

 原因不明にしておくことへの不安に、思うところがあったのだろう。それでも、塩梅の悪さが拭えないのか。ロレンの苦々しさは増していくばかりだった。


「俺の魔術で理解するためには、対象に魔力を注ぐ必要がある。そして、サキュバスの血は魔力に影響を及ぼすものだ。分かるな?」

「はい」


 質問は、気まずさから逃れるための出たとこ勝負のようなものだったが、リディとて理由が分かるのならばそれに越したことはない。さまざまな事柄は脇に置いて、ロレンの解説に真摯に耳を傾けた。


「お互いに相手の魔術に干渉する魔力を有している。それが交じり合った。勿論、条件はまた別のこともあるかもしれないが、結果として性欲を催すことになったということだ」

「……ロレンさん、つらかったんじゃないですか」

「今更、気を遣うのか」


 ロレンは苦笑を浮かべて、リディの思考回路の謎っぷりを指摘する。リディは今更と言われる理由が分からずに首を傾げた。


「毎朝、淫夢を見せようとしてくるだろうが」

「あれは特訓じゃないですか!」

「だからいいという発想もおかしい」


 うっ、とリディは口を閉ざす。


「でも……でも、昨日のは違うじゃないですか。私もコントロールできてませんでした」

「俺が煽ったようなもんだからな。仕方がない」

「ああいうことは、他でもありえますか?」

「ないとは言えないが……そう多くはないだろ。俺もお前も特殊だ」

「ロレンさんほどじゃないと思いますけど」


 思わずつるっと言ってしまったリディに、ロレンは肩を竦めた。

 リディは、レナートに勝手に聞いた内容があるがゆえの反応をしてしまったことに動じる。しかし、ロレンは自分が特殊なことなど、なんとも思っていないらしい。

 堕落の魔探偵という二つ名を持っていることも、第一級危険魔術師であることも、本人が一番実感するものだろう。ロレンとしては、それはそれとして割り切っている部分だ。特殊であることは、ロレンにしてみれば今更だった。

 口にしてしまったリディのほうは、今更でもなんでもない。一方的に知ってしまった後ろ暗さがある。動揺は隠しきれなかった。


「別に気にすることはねぇよ。俺が特殊なのは間違いないからな」


 ふんと吐き捨てたロレンに、リディはますます後ろ暗い感情が募る。やはり、勝手に聞いてしまうべきではなかったのではないか、と。

 ロレンから直々に話を聞くこともできたのではないか。そうした感情が芽生える。

 ロレンは面倒くさがりではあるけれど、こうして尋ねれば答えてくれる人だ。レナートが親切で教えてくれたことは分かっているが、後になってみると恨み言を零してしまいたくなった。

 こんなふうに妙な動揺と後ろめたさに振り回されるくらいならば、知らないままでよかったかもしれない。

 少なくとも、ロレンに直接話を聞いてみたかった。今となっては、聞くことも難しい。リディは知っていることを空惚けられるほど、自分が器用だと過信していなかった。黙っていることしかできない。


「……とにかく、お前は一度サキュバスの血と魔力の状態を調べてもらっておけ」

「おかしいですか?」

「いや、それは流石に分からん。だが、状態を知ることは必要だ。特にインターンはサキュバスの能力に向き合って使うようにしているだろ? それによって、活性化されたなり何かあるなりの可能性もある」

「……活性化」


 リディはサキュバスの血に忌避感があった。だが、それをロレンに指摘されてまともに対峙するようになっている。今でも、まだ心の奥底では微妙な心持ちがあった。折り合いどころを探しているところだ。

 そこにきて、活性化の可能性を突きつけられて、動乱が激しくなる。リディにとっては、歓迎できる事実ではない。


「お前は嫌がるだろうな。だが、取り扱えるようになるのはいいことだし、視力強化との相性もいいだろ? 利用するに越したことはない。そのためには、自分の血液についてきちんと知っておくべきだ。今まで向き合ってこなかったんだから、調べてないだろ?」

「……はい」


 突きつけられた正論に、リディは目を逸らして頷いた。向き合ってきていなかったのは事実で、血液をサキュバスとして検査したこともない。指摘は図星で、旗色が悪かった。


「早めにしとけ」

「明後日、健康診断なので」

「それじゃ、明後日だな。ちゃんと学園で相談してこい」


 ロレンはそれで話は終わりとばかりに回収してしまう。

 肝心な報告書のことは聞けていないし、昨日のことも感情面としては結局不明なまま終了してしまった。これ以上、掘り下げられてもリディも困ったが、尻切れトンボ加減は否めない。

 かといって、リディに掘り返す勇気はなかった。半端な空気は半端なまま。事務所はいつも通り、静かに時間を刻んでいった。

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