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見習い夢魔①

 突き抜けるような空色が街を覆っている。坂の多いサロギの街は、今日もまた陽に照らされて、レンガ造りの街並みを輝かせていた。

 リディはそのレンガ造りの歩道を、真新しいローファーを響かせて歩く。魔探偵養成学園の高等部に進級したリディは、本日よりインターンに向かうことになっていた。

 ローファーだけでなく、制服まで新品だ。

 ぱりっと真っ白なワイシャツに赤のリボンタイ。黒いコルセットベストに包まれる身体の芯は、ピンと伸び上がっていた。膝丈の緑色のプリーツスカートが風に揺れる。ウェーブがかった深紅の髪も同じように風に揺れ、リディの周囲を取り巻いた。インターンに向けた気概が紫苑の瞳に宿っている。

 ピカピカの高等部一年生。リディはスキップでもし始めそうな軽い歩調で、目的地に向かって一直線に進んでいく。上機嫌な緩やかさは、周囲への注意力を低下させていた。


「きゃっ」


 細く入り組んだ住宅街の路地裏から突如として現れたのは、茶色の毛をした子犬だ。

 完全に不意を突かれたリディは、足元に絡むように飛び出してきた生物に足元をばたつかせて、脇に避けた。子犬は止まることなく、素早く駆け抜けていく。

 動物を傷つけずに済んだことに気を抜いたことがよくなかったのだろう。リディは踏みしめようとした足先に地面がないことに気がつかなかった。がくんと腰が抜けるように踏み外して、初めて心臓を飛び跳ねさせる。

 悲鳴を上げることもできない。

 かくんと落っこちた先は、用水路だ。昨日まで降り注いでいた雨によって、用水路には大量の水が流れていた。

 ばしゃんと豪快な音と水飛沫が弾ける。太陽にキラキラと輝く水滴に、リディはぐっしょりと下半身を濡らした。




 ブザー音が鳴り響く。木製の重厚な扉の中央には、エラン魔探偵事務所と素っ気ないプレートがかかっていた。

 ブザー音から数十秒の間を置いて、内側から扉が開く。


「いらっしゃいませ」


 そう鈴の音のような声で応えたのは、小さな女の子だった。

 黒髪をお団子にまとめ、サテン生地でスリットの入ったワンピースに、黒いレギンスを合わせている。足元は黒い布靴を履いて、扉を開くために小さく背伸びをしていた。

 リディはこちらを見上げてくる青色の瞳を見下ろして瞬きをする。


「すみません。私、魔探偵養成学園からインターンでやってきました。リディ・ブランジェです。本日より、お世話になります。このような格好で申し訳ありません」


 挨拶をするリディは、かろうじて上っ面を装えてはいただろう。しかし、見た目はじっとりと濡れた状態だ。申し訳のなさに肩身が狭くなる。

 そして、混乱もしていた。

 出迎えてくれた女の子は、少女だ。何の変哲もなく対応してくれているが、ここはリディのインターン先の魔探偵事務所である。つまり、会社だ。十歳ほどに見える少女がアテンドしてくるとはどういうことなのか。リディの当惑は強かった。

 しかし、リディは今、他人のことをどうこう言えた格好ではない。

 彼女のほうこそ、リディの格好に当惑していることだろう。お互いに顔を見合わせて、扉先で膠着してしまった。先に冷静さを取り戻したのは、彼女のほうだ。


「お話は聞いてます。こちらこそ、よろしくお願い致します。香・エランです。……とりあえず、入られてください。どうされたんですか?」


 扉を押さえた香に中へと導かれたリディは、身を縮こませながら事務所の敷居を跨いだ。

 室内は、書類と本の山ができあがっていた。

 二人掛けのソファが一つと一人掛けのソファが二つ。テーブルを挟んで並んでいる。その周辺だけは綺麗に片付けられているが、それも気持ち程度のものだ。奥に見えるキッチンの完璧な片付き方が目に入ってしまうと、こちら側の雑然さは殊更に目につく。

 その雑さに、リディは内心で怯んだ。

 仕事場。事務所。ここはエラン魔探偵事務所に間違いないはずだ。つまり、ここでお客様を出迎えている。インターン生として関係者以外立ち入り禁止の場所へ誘い込まれたわけではなかった。

 このさまはなかなかにひどい。

 リディはそう思ったが、口に出すことはできなかった。何より、自分の状態が引っかかる。

 リディは用水路に落ちて濡れたまま、ここまでやってきてしまっていた。

 普通ならば……これが、依頼を持ち込む客であるのならば、出直せばよかっただろう。しかし、リディはインターン生として出勤している。今から学園の寮へ戻って着替えてくるなんてことをしていれば、遅刻は決定的だ。

 そして、現状リディは事務所と連絡を取る手段を持っていなかった。

 インターン先は提携を結んでいる数ある事務所の中から学校側が決める。連絡先も、インターン先へ出勤してから受け取る手順だ。

 学校からインターン先に連絡してもらう手段があるが、学校側へ連絡するにも外では手段がない。リディは苦悩の末、濡れたまま事務所を訪ねることにしたのだ。

 しかし、やはり間違いだったかもしれないと、居たたまれない心地に苛まれている。

 できるかぎり水分を絞ってはいるが、乾ききってはいない。特に濡れているのがスカートなものだから、下手に動き回ることもできずに、リディは入った先で立ち竦むことになってしまった。


「大丈夫ですか?」

「えと、あの……私、濡れてしまっていて」


 事情説明をしようにも、用水路に嵌まったというのは面目ない。リディは奥歯にものが挟まったような物言いをした。香はその言葉に首を傾げながら、改めてリディを観察する。

 しっとりと濡れた赤髪は、艶めいていた。髪も服も拭いて整えてはいる。だが、下半身が重点的に濡れそぼっていた。

 香はぱちくりと目を瞬いて、それから慌てたようにぴゃっと背筋を伸ばす。


「シャワー! シャワーを使ってください」

「いえ、ですけど!」

「構いませんよ。事務所のものですから。これから先も、お仕事の後で使うこともあるでしょうから、自由になさってください。この通り、片付いているとは言い難いので、寛いでくださいとは言いづらいのですが……」


 香が年齢に似つかわしくない苦笑いでリディを慮る。目線で訴える部屋の惨状には、リディも同じように苦笑を浮かべてしまった。


「シャワーはこちらですので、どうぞ使われてください。何か着られそうなものを持ってきますね。さっぱりなさってください」


 どれだけ口で説明されても、リディには遠慮がある。戸惑いは足をその場に縫い付けて、身動きを阻んだ。

 にっちもさっちもいかないような状況を、子ども特有の和やかさで動かしたのは香だった。リディの背に手を伸ばして押す。大人がやれば強引さを感じただろう。だが、小さな香がそうして一生懸命に気を回してくれる姿は、リディの胸をくすぐった。

 香に力はない。リディとは身長差もかなりあるので、押されたところでびくともしなかった。しかし、その幼いがゆえの微笑ましい力というものがリディの背を押す。

 どうぞ、と勧め続けてくる香に、リディは折れた。どうするにしても、このままでは問題があるのだ。ありがたい申し出であるのだから、とリディはそっと振り返る。


「それでは、お借りさせていただきます」

「はい! お洋服はカゴに入れておいてくださいね」


 花が開くように笑った香に、リディは胸がいっぱいになった。可愛い女の子にこんなふうに出迎えられるのは、悪い気はしない。

 リディは香に案内された通りに歩を進める。狭い本の合間を進むのは、大惨事を引き起こしそうでハラハラした。書類を踏みつけないように注意しながら、リディはどうにかシャワールームと伝えられた扉に到達する。

 まさか、インターンに来て最初に達成感を得るのが、こんなくだらないことになろうとはまったく予想していなかった。リディはほっと息を吐きながら、扉を開いて脱衣所へと滑り込む。

 応接室とされていた部屋の雑多さに比べれば、脱衣所に服が積まれていることなんて些細なことだった。リディもそれを自然なことと受け止めて、気に留めることもない。

 というよりも、他のことに気を取られていた。

 初めて訪れる場所だ。そして、インターン先である。裸になるには心のハードルが生まれていた。

 しかし、ぐだぐだと躊躇っていても状況は改善しない。このまま濡れた姿で事務所をうろうろするわけにもいかないのだ。

 よし、と自分に活を入れたリディは、さくっとリボンを外して衣服に手をつけた。するすると脱ぎ捨てて、香の言っていたカゴに服を入れる。下着は自分の服に巻き込んでおいた。脱衣所であろうとも、開けっぴろげに置いておくことは気恥ずかしい。

 リディは裸になって、シャワールームの扉に手をかける。がちゃりと開いたところで、そういえばやけに扉が曇っているなとか、物音がしていたなとかに気がついた。もわりと熱気が溢れてきて、違和感が募る。だが、もう扉を開いている手は止まらないし、視界は遮られない。

 シャワー音と湯気の中に、人の足が見える。リディはぎくりとしながらも、視線を持ち上げるのを止めることはできなかった。

 そこにいたのは、深緑色の髪の毛を濡らした逞しい身体をした男性だ。シャワーを浴びている身体はすべてが肌色で、何ひとつ隠されてなどいない。男の象徴もそこにぶら下がっていた。

 あまりの驚愕に一拍を置いて、身体中の血液が頭に集まってきたリディは沸騰する。


「きゃああああああ」


 状態を理解すると同時に、考える間もなく悲鳴が喉から飛び出した。リディは度を失って自分の身体の前面を隠すが、時すでに遅しだ。リディの瞳は眼前の深い緑色の瞳とがっちりとかち合っていた。

 沸き立つ羞恥心が下降することはない。瞬く間に頂点まで上り詰めたそれを、リディは制御する術を持たなかった。

 驚きに凝り固まっているのは、男のほうも同じだ。忽然と開かれた扉の向こうに現れた全裸の少女。

 深紅の髪に負けないほどの朱色が身体中に差し、手のひらから豊満な乳が零れ落ちていた。きゅっとくびれた腰に、張りのある柔らかい太股。その付け根の部分が、手のひらに心許なく隠されている。

 少女だなんだという年齢を探る思考が、男に持ち上がることはなかった。目の前にあるのは、艶めかしい女の全裸だ。

 そうして固まっている男に、リディは手を突き出す。その手は男をぶん殴ろうとするわけではなかったが、より一層に厄介なポーズではあった。


「まっ……」


 危機を即座に判じた男が上げた声が途切れる。

 リディが突き出した手のひらからは、凄まじい風の塊が吹き荒れていた。魔探偵となるものたちの持つ魔力による攻撃に、男は体勢を崩される。

 通常であれば、避けることもできた。しかし、男にとってもこれは出し抜けだ。耐えきれずよろめいた身体は、そのまま風に押し上げられてシャワールームの壁にぶつかる。打ちどころが悪かったのだろう。男はふらりとその場に崩れ落ちた。

 全裸で昏倒した男に、リディは血の気が引く。


「ひ、ひゃああああ」


 自分のやらかした大惨事に、リディの二度目の悲鳴が木霊した。

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