誘因の甘露②
「お前は、日頃からそうしてれば女が放っておかないだろうになぁ」
いつもは瞳にかかるほどに垂れている前髪を後ろへ撫でつけ、伸びっぱなしの後ろ髪もリボンで縛られていた。
スリーピースの黒いスーツは、身の引き締まった身体にフィットして、スタイルのよさが際立つ。胸ポケットに差し込まれた白いハンカチと、金色のカフスがアクセントになっていた。ストレートネクタイに、銀色のネクタイピンが光る。磨かれた革靴がいつもよりも鮮やかな足音を鳴らした。
「別に求めてない」
「いい男なのになぁ。もったいねぇ」
「お前に言われても痛くも痒くもない」
いつだってルックスから香水までに意識を回してレナートに言われたところで、まともに受け取ることもない。ロレンは自分の外見に無頓着だ。
そんな言い合いが広げられているとも知らず、香の部屋の扉が開く。先に出てきたのは、得意げな香だ。辣腕を振るったことがよく分かる表情だった。
しかし、その後ろから部屋を出るはずだったリディは続くことができない。根が張ってしまったかのように、扉の影に立ち止まってしまっていた。
「リディさん。どうかされましたか?」
あまりにも登場しなかったからか。香が扉の向こう側から覗き込んでくる。顔の半分。ほとんど目だけを出したリディは、もごもごと口の中で音を転がした。
恥ずかしいとばかりの素振りに、香もレナートも微笑ましいものを見る顔をする。しかし、そうした機微を無視するのがロレンだ。手間取ることは、たとえどんなことでも徹底して面倒くさがる。
「インターン」
「はい!」
もじもじしていたリディは、条件反射のように返事をして扉から飛び出した。
赤いロングヘアーは細かく編み込まれて、頭の下のほうでお団子のようにひとつにまとめられている。その真っ赤な髪と、黒いドレスの間にあるガラス細工のように繊細な首筋が眩い。
黒いイブニングドレスは、リディの豊満なプロポーションを映えさせる。鎖骨辺りのレースから胸の谷間が強調されていた。
黒いハイヒールが大人っぽさを助長させている。銀色にさりげないサファイアのついたネックレスと水晶の光るイヤリング。透明度の高い黒いショールが華奢な肩を守っていた。
気恥ずかしげに身を縮めているのが、大層もったいない。
その減点を加味してもびくともしない美しさに、レナートが口笛を鳴らした。香が自信満々な理由も分かるというものだ。
「メイクは? ちょっとだけ?」
「はい。リディさんはお肌綺麗ですしね、気持ちだけ。睫毛も自前でぱっちりですし、唇だけはぷるっぷるに仕上げました。どうですか?」
「キスしたくなる唇だ」
リディは更に身を縮めて、頬を染める。
パーティースタイルだから、豪勢だとか上品だとかになるだろうとは、リディも予測はできていた。
しかし、ここまでピカピカに磨かれてしまうと、面映ゆくてならない。ただでさえ穴があったら入りたいというのを性的に褒められて、返す言葉がなかった。
「初心なところがまたそそるってやつかもな」
「セクハラはその辺にしろ。作戦会議するぞ。こっちに来い、インターン」
今ばかりは、大振りに動くわけにもいかない。ロレンはソファに規則正しく腰を下ろし、リディを呼びつけた。
別段、褒めもしない。レナートのように意識を刺激してくることもない。リディにとってはいつも通りであることが救いで、これ幸いとばかりに飛びついた。
「もうちょっと落ち着いて動け」
「はい」
「パートナーだからな。大体俺に合わせろ。色々とシミュレーションしていることはあるが、とにかくお前は視ればいい」
「何の潜入捜査ですか?」
「この前、薬の話があっただろ」
「現場を押さえるんですか?」
「確認するだけだ」
「それで潜入がいるんですか?」
「裏取引になる。目がいる」
「それで私なんですね」
納得したリディに、ロレンが肯定する。そこから、二人は想定できる現場での動きを、淡々と相談し始めた。
主にロレンが指示を与えるための時間ではあるが、リディもときに意見を出す。建設的な時間だ。リディの真面目さが発揮された結果だった。
おかげさまで無駄のない会議に、ロレンはかなり機嫌がいい。
しかし、それは要らぬ合いの手によって壊される。
「なぁ、お二人さん。もうちょっとなんかないわけ? 互いに」
「何がだ」
おおよそ会議もきりがついたところにレナートから零された指摘に、ロレンが眉を顰めた。リディも問いの意味が分からずに首を傾げる。言いたいことが毛ほども通じていないことに、レナートは呆れた視線を二人に向けた。
「パートナーなんだよな?」
「他の立ち位置は無理だろ」
「そういうことじゃなくて、褒め言葉のひとつも互いになくて、現場でそういう関係を繕えるのかって聞いてるんだよ」
準備は整ったとばかりの顔をしている二人に、レナートは一番の杞憂を唱えた。ロレンはとことんうるさそうに顔を顰める。
「言ったところでしょうがないだろ」
「そこもシミュレーションしておけよ」
「どうしろって?」
「まずはお互いの格好への感想はないの? リディちゃんもだよ」
主にロレンが受け答えをしていた。他人事のようにロレンの隣に座っていたリディにも、課題が投げられる。
二人は互いの姿を改めて検分した。それはまさに検分というほどに、じろじろという観察だ。そこまでしなければ感想もないのかと、レナートは頬を引き攣らせる。
そこまで検分しなくても、褒め言葉のひとつくらいは出てきてもいい。少なくとも、社交辞令くらいすんなりと口にできるだろう。ロレンにはそれくらいの社会経験があるはずだ。
顔を見合わせていた二人は、しばらくして互いに視線を逃がした。そんなところで相性の良さを見せつけられても、とさめざめとした二人の態度にレナートは苦笑しそうになる。
「ロレンさんが決まっているとむず痒いですね」
「インターンの化粧もな」
「かっこいいですけど」
「そっちも美人だろ」
けろっとした顔で感想を交わすリディたちに、ムードというものは存在しない。
感想……それも、好意的な言葉を交わし合っているにもかかわらず、何故ここまでドライなのか。レナートとしては、もう少し照れるなんなりして、パートナーらしき雰囲気のひとつでも出ればいいという思惑であったはずなのに。こんな結末になるとは予想外甚だしかった。
「パートナーらしく、できるだろ? インターン」
「ロレンさんがしてくれるんでしょう? だったら大丈夫です」
「……前みたいに、何があっても動揺するなよ」
「掘り返さないでください! 一度した失敗はしませんよ」
「ならいい」
思わせぶりな会話に、レナートは興味が刺激された。二人に何があったのか。その瞳が問いを投げかけるように光っている。
しかし、そんな態度など突き放すように、ロレンが立ち上がった。
「そろそろだ」
そのままナチュラルにリディに手のひらを差し出したことに驚いたのは、レナートだけではなく香も当のリディもだ。
ぱちくりと手のひらを見つめるリディに、ロレンの目が険しくなる。
「エスコートくらい分かるだろうが」
「一言くらい声をかけてくれてもいいと思うんですけど!」
「はいはい。それじゃあ、お嬢さん」
「パートナーらしくありませんよ、それ」
「ハニーなんて寒いこと言わせたいなら未来のパートナーに夢でも見るんだな」
「ロレンさんには似合いませんね」
「知ってる」
だから、やらないのだ。そう言うかのように、ロレンは投げやりに言い捨てた。そうして、差し出しっぱなしの手を顎でしゃくる。
リディは慌てて手を重ねた。初めてのエスコートは見様見真似だ。正解かどうか分からずに不安であったけれど、ロレンは何も言わなかったので正解だったのだろう。
リディもいい加減、ロレンが何も言わないときは不満なのではなく、不服がないということを察している。そして、慣れてもきた。
「レナート、車を頼む」
「……車あったんですか?」
「下の倉庫にある」
「知りませんでしたよ」
「必要ない限り使わないからな」
レナートの返事を聞くより前に、ロレンはリディをエスコートして出発する。
まったくマイペースなそれに肩を竦めて、レナートは香と目を合わせた。ロレンとリディの調子に、呆れを共有し合う。それでいくらか心の安寧を保ったレナートは、遅れないように後を追った。
遅れればロレンに面倒くさがられて面倒なことになると、レナートはようよう理解している。
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