誘因の甘露③

 広い鉄柵の門の前に、レナートの運転する黒い車が滑り込むように停止する。

 見えている建物は白い城のような豪奢なホテルだった。大きな窓からは、キラキラと輝かしい光が溢れて神聖な雰囲気を出している。

 絵画やテレビなどで見ることはあっても、実際に見るのは初めてあるリディは瞳を輝かせて様子を窺った。


「お上りさんみたいなことはやめろ」

「初めてなんですから、いいじゃないですか」

「……潜入で挙動不審なんぞ許さねぇからな」

「……ロレンさんに任せます」

「目がなかったら連れてくるのを考えるレベルのことを言うな。既に反省会が必要か」

「モチベーションを上げてやろうという気は少しもないんですか?」

「自分の機嫌くらい自分で取れるようになれ」

「……ロレンさんに言われたくないんですけど」

「俺は仕事では万全だ」

「日頃もちょっとは気にしてくれてもいいと思います」

「どうしてお前にそんな態度を見せないといけないんだ」

「関わってるからですよ!」

「はいはい。そのくらいにしてくれよ。これから二人はパートナーなんだからな? せっかくいい格好をしているんだから、色っぽい雰囲気を出してくれないと困るぞ」


 後部座席で諍いを始めた二人を、レナートが手を叩いて仲裁する。


「……待機頼む」

「緊急事態がなければ終了時間頃に来るからな。リディちゃん、あんまり気負わずに頑張ってね」

「はい。行ってきます!」


 改めて送り出されるころになって、リディは今頃緊張感が高ぶってきた。それを察したのか。車から出る直前、ロレンの手のひらが緩くがっつりと開いているリディの背を叩いた。そのまま降りていくと、手が差し出される。

 一度、事務所から車までエスコートしてもらったのはよかったのかもしれない。リディは多少気持ちを落ち着けて、そっと手のひらを重ねた。

 車を出ると、ロレンが腕を出してエスコートの形を変える。リディはその腕に腕を絡みつけて寄り添った。胸がロレンの腕に当たりそうになるのが気になり僅かに距離を開けたが、ロレンがそれを睥睨してくる。

 繕えないならば帰ってもいいぞ。

 そう言うかのように先鋭な瞳に、リディは隙間なくロレンにくっついた。いっそ歩きづらいのではなかろうかという意気込みで近付いたが、ロレンは何も言わない。リディがドギマギしているのもお構いなしのようだ。

 とはいえ、離れてしまってもリディ一人で色気のある雰囲気など出せる気はしない。そこは忌避してきた部分だ。いくら毎日のように淫らな夢を見せられるようになったといえども、それでリディの色気が増すわけではない。

 ロレンが導くやり方に従う他に道はなかった。


「リリィ」


 決めてあった偽名を耳元に吹き込まれて、リディは肩を揺らす。日頃から名前を呼ばれていないので、近しい偽名であっても驚きが隠せない。ハスキーな声は、びりびりと耳朶を擽った。


「悪いようにはしねぇから、任せとけ」


 ここ一番で励ませるのが、すこぶるずるいロレンの性質だ。

 こくんと頷いたリディに、ロレンが満足げに頬を持ち上げて笑う。一際整えられた笑みは妖艶で、リディは言葉なく寄り添っていることしかできなかった。

 リディは偽名を用意したが、ロレンは本名を使っている。これは、表向き普通のパーティーに招待されるために堕落の魔探偵の名が必要だったためだ。レナートが招待状を入手してくる時点で、それは動かせなかったらしい。

 そのため、ロレンの招待状でリリィをパートナーとして会場へ入場する。

 ラウンジを抜けた会場は、煌びやかな光に溢れていた。

 大きなシャンデリアが会場の中心に吊されている。立食式の会場は、壁際に豪華絢爛な食事やデザート、グラスが並べられていた。配置された丸テーブルには、白いテーブルクロスが敷かれ、周囲に集まっている招待客のお皿が載っている。

 招待客の衣装もランクが高い。特に女性は、装飾品の数々がシャンデリアの光を反射してきらめきを追加している。眩しいほどに着飾った女性の隣に並ぶ男性は、どうやらお金持ちらしい。スーツの袖口に光るカフスボタンや腕時計から、その気配が滲んでいた。

 アクセサリーの価値を見極める審美眼など持ち得ていないリディでさえも分かるほどに、明々としている。

 学生の身分で入場するような場所ではない。及び腰になるリディを、ロレンの腕は許さなかった。その腕に導かれるように、会場へ入る。

 入ると同時に、ロレンにノンアルコールのシャンパングラスを渡された。アルコールを口にしないように、絡まれないように。予防策でそうすると、会議中に擦り合わせていた。その通りの動きをしてくれたことで、リディは多少気を落ち着けた。

 とはいえ、それはあくまでも多少でしかない。

 挨拶を受けるたびに、ドキドキと心臓を高鳴らせながら応対した。半分以上はロレンが担い、リディは紹介された際に二・三言、言葉を交わすだけだ。

 世慣れてない相手役として、尻込みした態度で居続ければいい。リディは意図せずその指示に従うことになっていた。

 それを繰り返すこと数十回。

 大抵、するりと離れていくばかりの人が多い中で、一人の男に掴まった。

 紫色のロングヘアを三つ編みにして金色の髪留めをしている。グレーのスーツはツーピースで、柄のあるネクタイが若々しい感性を醸し出していた。


「素敵なお嬢さんですね」

「ええ、俺にはもったいないくらいですよ」

「ご謙遜を。大層お似合いですよ」

「恐れ入ります。リリィ、ご挨拶を」

「リリィ・エランと申します。よろしくお願い致します」

「おや? 奥様でしたか。お嬢様とは大変な失礼を致しました」

「いえ」

「初々しいでしょう? 可愛いやつなんですよ」


 柔らかく微笑んで話すロレンに、リディは戦慄した。演技だと分かりきっていても、思わず勘違いしてしまいそうになるような声音だ。こんなことができるとは恐ろしい。

 そう思いこそすれ、態度に出すわけにはいかない。リディはロレンと同じように微笑みを貼り付けて、続いていく二人の会話を黙って聞いていた。

 どうにも粘着質な男だ。甘いテノールの声は聞き心地が良いが、探るような気配がある。ロレンが上手く話を逸らしているが、魔探偵としての活動の話題から離れようとしない。

 それともこれは、目の前の男が裏取引への案内人だと分かっているがゆえに感じ取れるものだろうか。

 男は会話でもしつこかったが、スキンシップも取ってきた。ロレンはそちらもいなしているが、笑顔の下でどれほど鬱陶しく思っているのか。それを考えるとリディすらも煩わしく思う。

 そして、その手は時折リディにも迫った。

 ロレンは自分には触れさせることもあったが、リディのほうはすべてを躱し続けている。その手腕はどうすれば身につくのか。感服しながら、リディのほうでも隙を見せないように意識して男の手を逃れた。

 しかし、そうして眼前のことだけに集中していると、他への注意力が散漫になる。死角を無視するほどの視覚を有しているリディだが、特殊魔術は常に展開されているものではない。意図して魔力を流して初めて、意識的に発動できるものだ。

 そして、リディとて常に発動しているわけではないし、そうでなければ他人と視覚に変化はない。

 ドリンクを運ぶボーイに気がついたのは、既に擦れ違おうとするほどの近距離に達してからのことだった。避けられないほどではなかったが、ギリギリの距離感ではある。

 そのうえ、今日のリディは慣れないハイヒールを履いている。素早く避けようとした結果、バランスを崩した。前方には男が控えている。その腕がリディを受け止めるような形に構えていた。

 ざっと血の気が引く。

 触れられてはならない厳密な理由などはない。だが、男の正体の掴めない気持ち悪さと反比例するかのような爽やかさは、不気味だ。ロレンが逃れるように仕向けたこともあるが、リディとてできれば触れたくはないという心情が働いた。

 現実を拒否するかのように、ぎゅっと瞳を閉じて衝撃に備える。リディにとってはまったく無意味な行動だ。しかし、身体は傾ぎきることはなく、強い力に引き寄せられた。

 リディが開いた目の前には、ロレンのネクタイがある。リディはロレンの胸板にしだれかかるように抱きしめられていた。


「リリィ、大丈夫か?」


 耳元に注ぎ込まれる艶のある声に、腰が震える。そのことが気恥ずかしくて、リディは咄嗟に目の前の胸板に顔を埋めた。

 違う! 違うのに!

 リディに抱きついたつもりはない。しかし、外側から見ればそう見えるだろう。それに気がついて、内心では挙措を失っていた。だが、ロレンの腕は確実にリディを抱きとめている。多少身を離すことはできただろうが、逃げ出すことはできそうになかった。


「酔ったんじゃないか? 空気を吸いに外に出ようか?」

「はい。ごめんなさい」

「気にすることはないよ。おいで、リリィ」


 優しい声音と言葉遣い。普段と違うロレンの調子は、リディをしおらしくするのに抜群の効果をもたらした。脆弱で、儚い。そういった面が強く打ち出される。

 ロレンはリディの腰を引き、もう一方の手で前髪を整えた。とろりとした笑みを向けられたリディは呆気に取られる。跳ね返った心臓が、どくどくと反動を鳴らした。


「すみません。そういうことですので、失礼させていただきます」


 ロレンはそつなく男に挨拶をすると、返事も聞きかずにリディを導く。


「つらいなら凭れてていいぞ」


 手厚い言葉は、その実らしく見せろという命令だろう。リディはロレンの肩口に頭を乗せて、緩い足取りでテラスへと向かった。

 元々、空気を吸いに出ようという声かけは、引き上げの合図に指定されていた。なので、その言葉が発せられたのは想定の範囲内だ。

 しかし、よもやこれほどまでにラブラブな姿を偽るとは思わず、リディは内心で動転せずにはいられなかった。

 そのままテラスの柵にまで進んで、室内に背を向けて佇む。

 見下ろす中庭は庭園になっていた。噴水がライトアップされていて、水滴が輝く。室内から漏れる光で作られる陰影によって、情緒のある情景が広がっていた。

 腰に回っていたロレンの腕が肩に回されて、頭を引き寄せられる。柔らかい指先が、髪型を崩さない程度に頭を撫でて距離を縮めた。

 会場から抜け出して、食事や他人の匂いが消えたからか。やたらとロレンの香水が鼻についた。爽やかな中にほんの少し甘い香りが混ざっている。


「気分はどうだ?」

「良くはないですね」

「俺の奥様じゃ不満か?」


 勝ち気に笑う顔を向けられて、リディは緩く目を伏せた。らしく見えるように、ロレンの肩にすり寄る。


「それよりも、ロレンさんがベタベタ触れられてるほうがずっと気分はよくありません」

「可愛いこと言うじゃん」

「ロレンさんだって、いい思いはしてなかったでしょう?」

「リリィにまで触れようとしていたからな」


 言いながら、ロレンは何の躊躇もなくリディに触れていた。少し垂らしていた横髪をさらさらと梳く。


「嫉妬ですか?」

「ああ、不愉快だ」


 そうした装いをしていた。だが、まさか嫉妬をロレンが認めるほどの男を演じるとは思っていない。リディは少々面食らって、そばにある顔を見上げた。

 ロレンは薄い笑みを浮かべて、リディを見下ろしている。ずば抜けていい男だ。貴重な微笑みに腰が引けるリディが間違っているのだろう。


「だから、機嫌を取ってくれよ」

「何がお望みですか?」

「部屋、取ってある」


 ロレンの視線が、仄めかすように会場の上へと流れる。リディは無言で顎を引いた。

 これも作戦のうちだ。

 男相手に何か問題が浮上した場合。引っかかりがある場合。現場を確認するための障壁となる場合。そうした場合には、本拠地となるべく場所を確保する。部屋はレナートが用意してあった。

 リディの返答はひとつしかない。端から分かっている。ロレンも端からそのつもりで、リディの返事を聞くや否や踵を返した。

 一直線に会場を通り抜け、べったりとくっついた状態を解消せずにエレベーターに乗り込んだ。

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