堕落の魔探偵②

 その衝撃は、およその前触れがなかった。

 リディがその気配に我に返ったときには、もう扉が開いていたのだ。何の被害もなかったような静けさで、開かれた扉の前に立っていたのはロレンだった。

 いつも通りに気怠げな態度で、しかし眼鏡をかけていないロレンからは魔力が漏れ出ている。それも尋常な量の魔力ではない。リディの目で確認しなくても、その異常な空気を体感することができるほどだった。

 ゆらりと揺れる頭を叩き起こしたリディは、視力強化を広げる。警備している男は頽れていた。外傷は見当たらないし、結界は既に消滅している。直接攻撃を与えることなく分解することで、正面突破してきたらしい。

 皮肉な笑みを浮かべたロレンは余裕たっぷりであったが、改めて視つめたリディは、その魔力の蠢きにぞっとした。恐怖心が急上昇して、どくんどくんと心臓が不吉な音を打つ。

 何が起こっているのか。どうやってここを見つけたのか。ロレンの現状はどうなっているのか。疑問だらけのリディを前に、ロレンはいつも通りの歩調で部屋へと入ってくる。


「どうやって入ってきた」


 三人の男たちがリディの前に立ちはだかった。人質であるリディを奪い取られれば、男たちは交渉材料を失う。当然の行動だ。ロレンも予測済みだったのか。まったく意に介さずに歩を進めてきた。

 そうして、男たちの前に凜然と立ち塞がる。


「正面からに決まってんだろ?」


 余裕綽々。まるで当然という言い草は、とんでもなく異様に写った。リディにすらそう写るのだから、犯人側からすると不気味過ぎることだろう。

 しかし、リディの不気味さは、犯人たちが感じているものとは違った。ロレンの魔力消費量は、飄々とした態度を取り繕っていられるような状態ではない。リディにはそれが視えている。どんな精神力でその場に自然体で立っているのか。

 リディはロレンの精神力を畏怖していた。


「さぁ、うちのを返してもらおうか」

「交換条件だったはずだ」

「乗り込んできた相手がそんな上等な態度でないことは明白だろ?」

「人質がいることを忘れているんじゃないか?」

「それが目的だ」


 ロレンは迷いなど見せない。隙などありはしない。怠惰と呼ばれるその態度を崩さずに、男たちの眼前にまで飄々と迫る。


「そう簡単に返すわけがないだろう」


 犯人たちの行動は一定のラインで行き当たりばったりだ。だが、やはり犯行に及ぶだけの度胸というか、開き直り方は持ち得ている。ロレンの姿に動揺を見せはしたが、持ち直すくらいの根性はあるようだ。

 言葉と同時に、リディの視界が歪む。リディにとってみれば、歪むだけだった。しかし、何が起こっているのか分からないほどではない。

 ロレンと男たちの間に、膜のようなものが広がっていた。それが自分たちを取り囲み、ロレンとの空間を隔絶していく。結界か。透明化か。思わず声が出そうになったが、リディが反応をするわけにはいかない。視えているわけにはいかないのだ。

 ロレンがやってきたから、もう油断したっていいわけではない。リディは万全を尽くすのみだ。

 しかし、リディの我慢は無に帰した。リディが反応を示すより先も、男たちが息を呑む音が大袈裟に響く。

 目の前に広がってリディたちを包み込もうとしていた膜が、あっという間に晴れた。その消滅と呼ぶべき分解をこなせる男は、ロレンしかいない。

 リディには犯人たちの魔力が見事に吸い取られ、ロレンの緑色の魔力に塗り替えられていくのが視えていた。ロレンはたったそれだけのことをするのに、かなりの体力を消耗しているらしい。先ほどよりも、よっぽど堕落の魔探偵に相応しいだらしのない姿勢になっていた。

 リディはそのときになってようやく気がついたのだ。

 ロレンのいつものように緩い体勢が、凜と構えてなどいられないほどの余裕のなさであると。そうして、恐怖が増大する。

 レナートは言った。ロレンシオ・エランは、国すら滅ぼせてしまうかもしれないと。

 特殊魔術の理屈で言えば、それは決して間違いではない。しかし、リディは今、確実に思っていた。

 そんなことはできない。

 できるわけがない。

 何をやったかは知らないが、リディの居場所を発見し、結界を消滅させてここまで突き進んできた。そうして放出している魔力の量、体力の消費量。とてもじゃないが、その分量を見ていれば、国を消滅させるまで身体が持たないと分かる。

 そんなことをしようとすれば、達成するよりも先にロレンが消滅してしまう。

 眩暈がしそうになったリディは、どうにか踏ん張って椅子に座り続けていた。起こっていることから目を逸らさない。むざむざ捕まったリディには、そうすることでしかロレンの負担を減らすことはできなかった。


「てめぇ」

「何を……っ」


 下っ端の二人が、ついぞ我慢の糸が切れたようにロレンに食いつく。とはいえ、がなるだけであり、下手に手を出すまで短絡的ではなかった。

 もしも触れていたら、その身体から漏れ出る魔力の影響を受けてしまっていたかもしれない。ロレンの魔力は、氷系統であり、特殊魔術には分解が含まれる。それを制御もなく垂れ流しているものに触れれば、何がどうなるのか。判断はとてもつかない。

 犯人たちはそこまでの危険性を理解していなかっただろうが、本能的に嗅ぎ取るものがあったようだった。

 ロレンが腕を前へ突き出そうとした瞬間、男二人は身を逸らす。逸らしながらも、主犯格であるオールバックの男とともにリディの前から退くことはなかった。慣れていることが分かる。そんな場合にもかかわらず、リディは身のこなしには多少の感心をしてしまった。

 そして、何よりも参考にすべきであろうほどに落ち着いた主犯格の男は


「動くな」


 とリディのそばに立つ。

 リディに触れるわけでもない。それでも、その距離感。言いざま。前触れ。そういったもののすべてが、人質を人質として扱うことを確然と漂わせていた。


「取り戻しに来たのなら、五体満足が望ましいだろう?」

「それ以外は失敗と呼ぶ」

「だったら、それ以上無闇に近付くのはやめろ」

「どうするって?」


 ロレンは緩く肩を竦めて問いを投げる。そこには危機感など一片もない。脅しを受けているときですら、主導権を握っているのはロレンに他ならなかった。


「媚薬を飲ませてやっている。そろそろ限界の頃合いだろう」


 その声は下品で、舌なめずりを堪えたような音だった。心臓を撫で上げられたような寒気が走る。貞操の危機を抱くには十分過ぎた。

 そうして、自分がそうした対象になり得ること。性的な関わりと縁が切れないことにも口惜しさが湧く。

 自分でいかようにできることではない。これは犯人の男たちが、リディを貶めようとしているだけのことだ。それでも、悔しさは募る。利用してやろうと。自分のものにしようとしていた力が、自分を貶めるための手段になる。

 ぐっと奥歯を噛み締めて、リディは男を睨み上げた。

 犯人たちには、その視線の動きはただの怯えや確認作業にしか見えなかっただろう。しかし、ロレンはそれを見逃すような男ではない。

 アイマスクに隠された瞳が、ただの勘ではなく、歴然と犯人たちを捉えているとロレンは確信していた。


「そのわりには余裕そうに見えるがな」

「楽観視できるとは、優秀な魔探偵様なことだな」

「……優秀なのは俺じゃないさ」

「捕まったか弱い助手が優秀だって?」


 おとなしく捕まっている助手。リディの立場を、犯人たちが脅威に思うことはひとつとして起こっていない。実際、リディは何もできていなかった。何もかもロレンが一人で解決に殉じている。


「媚薬に犯されて何の役にも立たない助手を褒めて期待してやるなんて、むしろ可哀想というものだろうに」


 犯人はくつくつと喉を鳴らして笑った。自分が優位に立っていると確信を得ているのか。それとも、そうあるように振る舞っているのか。どちらにしても、倉庫内に響く笑い声はいびつさを演出する。

 男は笑いを堪能すると、その指をリディへと伸ばした。ごつい指先は、リディを嬲るために差し出したものだろう。

 しかし、その目的を持った指先が空を切った。


「上等だ」

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