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堕落の魔探偵①

 リディが声をかけられたのは、エラン魔探偵事務所へ出勤している途中。ごく自然な形でだった。

 魔探偵事務所の場所は、他人に知られていて当然のことだ。そうやって事務所のことを尋ねられて足を止めたところで、見事に誘拐された。

 ひどく手慣れたものだった。

 リディは抵抗する間もなく車に詰め込まれて運ばれる。手足を縛られ、アイマスクをつけられた。アイマスクの理由は明白だ。行く先を見せぬためだろう。しかし、こればかりはリディにとって御の字だったと言えた。アイマスクだけでは、リディの視界は塞げやしない。

 リディには移動距離も移動場所もすべてが視えていた。エラン魔探偵事務所からさほど離れていない倉庫。その一角に、家具を入れてある。コンクリート打ちっぱなしの倉庫の床からは冷たい空気が立ち上ってきていた。

 リディは座り心地の悪い椅子に座らせられて、足首を椅子と繋がれ、背もたれの後ろで手首を結ばれる。アイマスクもされっぱなしだ。犯人の顔を見られないための工作でもあるのだろう。

 今、リディを見張る犯人は三人。そのうちには、取り引き現場で目撃したオールバックの男がいた。だが、仲間の顔は違う。あと一人。建物の外に警備を任されている男がいるようだ。

 全部で四人。エラン魔探偵事務所まではたったの一キロしか離れていない。武器は刃物のみ。銃がないだけマシと見るべきか。特殊魔術が油断できないのか。警備の男が結界を張っているのが視えていた。

 そうして、犯人たちがエラン魔探偵事務所に連絡を取る。ロレンと会話をすることはできたが、リディが伝えられたことは万全を尽くすという遠回しな言葉だけだった。

 リディから視える事務所内では、居場所の推測を行っているらしいことは分かる。視ることだけに特化しているリディには、詳細を知ることは難しい。口元が動いているから、作戦会議中だということは把握した。

 読心術を極めるべきだった、とリディはまたひとつ自分に足りない部分を見つける。今見つかったところで、反省も意気込みもしている時間はない。

 現状、身動きを封じられている以外に、リディに危機的な事態はなかった。

 しかし、気を抜いている余裕は欠片もない。次の瞬間には、生命の危機に陥っていてもおかしくないのだ。視えている分、犯人たちの動きが身体で感じるよりも先に知ることができるとはいえ、それで状況が好転することはない。

 読心術のことはひとまず横に置いて、リディは目の前のことと事務所の状況を同時に視られるように意識を集中させた。焦点の揃わない場所を同時に見つめるのは、視力強化を使いこなすリディにとっても難しい。


「おい、女。リリィといったか?」


 ここにきて初めて話しかけられたリディはビクついてしまった。

 驚きはしたが、おかげで情報源がどのタイミングに収集されたものなのか判明する。リディがリリィと名乗ったのは、パーティー会場だけのことであるし、そのときが初めてのことだ。他の選択肢はないうえに、相手は現場にいたオールバックなのだから、確定的だった。

 男はリディの前へと近付いてくる。思わず身を竦めそうになるが、視えていると勘づかれてはまずいと思うと、警戒すらも慎重になった。気配や足音で感じることはあろうが、その距離感はどれくらいのものか。あまりにも勘がいいと、疑われはしないか。

 こういうときは、嫌になるくらい心配事が次から次へと湧き出てくる。日頃だったならば見落としそうなことすらも、ぽこぽこと顔を出した。危機感が育まれているよい証拠だろうが、それを処理する力が追いついていない。


「これを飲め」


 男はそれだけを告げると、リディの顎を掴んだ。

 今度は考えることもなく、すぐさま首を振って逃れようとした。しかし、男の力は思いのほか強く逃げられない。毎朝ロレンの反撃に遭ってもへっちゃらで逃げ出していたものが、格段に力加減されていたことを今になってしみじみ実感した。


「あの魔探偵の準備ができるまで我慢ができるといいな」


 言いながら、顎を掴まれて頬を押し込まれ、開かされた口に錠剤を放り込まれる。

 言い回し。そして、取引関連の相手という情報から、リディはそれが媚薬であること理解した。

 ぞわりと鳥肌が立つ。

 即効性があるものではなかったはずだ。しかし、異物を飲まされて平然としていられるほど、リディは根性が座っているわけではない。

 それに、それはリディにとって好ましい影響を及ぼすものではないのだ。嫌悪感に臓腑が蠕動する。そして、自分の血液との反応はどうだろうかと思考を巡らせることで、戦々恐々とした。

 昨日受けた血液検査の結果はまだ出ていない。ロレンにはできるだけ早くと言われたが、早くても結果が出るのは今日の午後が限度だった。なので、リディが自分の状態を把握していないことは以前と変わりがない。

 媚薬とサキュバスの血がどういった化学反応を起こすのか、まったく読めなかった。それとも、ロレンにでもなれば想像がつくのだろうか。リディは予期できない状態。そして、回避できなかった状態に悔悟する。

 今になって気を塞いだって仕方がないと思うと、ますます悔しさが募った。万全を尽くすには足りない。自分の力不足が次々に露呈していくようだった。

 それに浸っているわけにもいかない。リディは現状を噛み締めて、最低限をこなすことに意識を回した。何もできないが、何もしないことが先決だ。男たちをこれ以上刺激しないように、じっと身を抑え込む。

 じわじわと胸の内がざわめくような気はした。それが媚薬の効果なのかどうかなのか判断できないあやふやなものであることが、リディを苦しめる。中途半端さが何よりも面倒だ。そうして集中したいはずの意識が削られていく。

 視界が移ろいで、焦点がズレ始めた。視力強化に意識を割けなくなったリディは、項垂れてしまうことしかできなかった。

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