堕落の魔探偵③

 その現象を理解していたのは、発動したリディを除けばロレンだけだ。そして、一切の躊躇なく動き出していた。

 二人の男の横を瞬歩のようにすり抜けたロレンは、主犯格の男の首に手を伸ばす。どうにか身を捩った男に舌打ちを繰り出したロレンは足を引っかけた。そのまま腕を捻り上げて、リディのそばから引き剥がして地面にぶん投げる。すぐさま殴りかかってきた二人の男にも掌底を食らわせて距離を取った。

 そうして、主犯格が触れることのできなかったリディへと手を伸ばす。その指は、今度は空振りされることもなく、リディの頭へと届いた。

 先ほど主犯格の手を逃れたのは、ずっと訓練していた幻惑だった。

 サキュバスの力と視力強化を上手く併用できれば、幻視させることもできる。それはロレンに指摘された。リディは向き合うと決めたからには手を抜かない。

 今はまだ、ほんの数センチ。自分の存在認識をずらす程度のことしかできない。実戦で使うには心許ない成果しか手に入れていなかった。しかし、その僅かを効果的に使えたことに、リディは胸を撫で下ろした。

 まだ油断などできるわけもない。そう分かっていても、ロレンの口から上等という褒め言葉が出てきたことによる安堵は計り知れなかった。

 ロレンの指が雑にリディのアイマスクを外す。

 外の景色が視えていたことに変わりはない。それでも、光が直接瞳に注ぎ込むのと込まないのとでは、刺激が違う。リディの能力は強化でしかない。塞がれているのといないのとでは、クリアさが違った。

 そして、そのクリアになった視界の中心に居座るロレンの様子に、はっと息を呑む。ぶつかってくる魔力の濃度に、気が遠のきそうになった。


「ロレンさん……」


 唖然とするリディを横目に、ロレンはリディの足と腕を解放する。結び目を解くなどという時間を用いることはせず、ロープだけを鮮やかに消滅させた。


「……気分は?」

「万全ではありません」

「耐性があってよかったな」

「……耐性?」

「お前の血は元々媚薬みたいなもんだ」

「そんなことはっ」


 サキュバスのことを指摘しているのだろうが、あまりの言い草にリディが声を跳ね上げる。まるでいつも軽口をたたき合うときのようにそうしていた。


「俺を誑かしといてよくいうな、小娘」


 煽るように言い切ったロレンが薄く笑う。そうして、リディの肩を引き寄せた。それはリディを手の内に囲うようでありながら、その実思った以上に体重をかけられる。リディは驚いてロレンを見上げた。

 その頬に刻まれたシニカルな笑みが剥がれることはない。だが、それが我慢の上に成り立っていることが、リディには届いた。

 ぐっと拳を握り締めて、表面上縋って見えるように背中に手を添えてロレンの体重を支える。リディ一人では、支えられる限界はそう遠くないうちにやってくるはずだ。その間、決して離してはならない。

 リディは元来もっと効果が出ているはずの媚薬の効果がないことを、ようやく素直に喜べたような気がした。

 自分の特殊体質が、今まさに役に立っている。誰でもないロレンを助けるという形で。


「それで、どうするつもりだ?」


 人質を奪い返された。それでも、転ばされた地面から起き上がった主犯格が問いを投げる。倒された男二人も起き上がってきて、三人がリディたちの前に立ちはだかった。

 侵入よりも脱出のほうが難しいのは、何においても同じだ。

 ただでさえそうであるのに、現状ロレンは相当な消耗をしている。リディは逃走に向いた魔術の持ち主ではない。正直に言えば、どうするつもりなのかと過ってしまったのはリディとて同じことだった。

 一方で、レナートの存在が頭の片隅にある。ロレンがそうした面倒くさそうなあれこれを後回しにしてくるほど迂闊でないだろうことは信じられた。


「奪還は帰還して初めて成功だろ?」

「そう簡単に脱走を許すと思うのか?」


 主犯格が手のひらをこちらに翳してくる。多くの魔術師、魔探偵が、魔術を発動するのにそうしたポーズを取った。主犯格もまた、それに倣っているのだろう。

 しかしながら、男の腕から何かが発動することはなかった。

 男たちにしてみれば、何も起こらない不自然な隙間時間だったはずだ。

 リディには主犯格の腕から飛び出そうとする魔力が、その寸秒の間にロレンの魔力に絡め取られるのが視えている。その尋常ならざる技術に、リディは本日何度目になるか分からない感服に気圧されていた。

 どう考えても、極限だ。消耗具合は、ロレンの許容範囲を既に超えているのではないかと思うほどのものだった。それだというのに、ロレンは圧倒的なスピードと正確性のある魔術を展開する。どこにそんな余裕があるのかと驚嘆せざる得ない。

 精神力や底力だとでも言うのだろうか。リディはそれを目の当たりにすることで、自分の確信が僅かに揺らぐのを感じた。

 国を消滅させることはできない。それほどの魔術を行使すれば、ロレンのほうが消滅する。そう確信していたものが、揺らいでいく。ともすれば、その身を賭すれば可能なのではあるまいか、と。

 ロレンの魔術の行使はそんな恐怖を抱かせるほどだった。


「貴様、何者だっ!」


 リディが抱いた恐怖は、人を選ばずその場の人間の感情を煽ったようだ。

 声を荒らげた主犯格の男に、ロレンは唇を歪めて笑った。

 まったくもってさまになる。おどろおどろしいほどのそれは、とても正義を振り回す魔探偵の表情とは言えない。むしろ、犯人側だと言われても信じるような顔で気強く笑っていた。


「そちらが連絡をしてきたんだろう? エラン魔探偵事務所所長、ロレンシオ・エラン。堕落の魔探偵と言えば耳馴染みがあるか?」


 低い声で髪を掻き上げる。格好をつけていると言うよりも、気怠さが上回っていた。

 しかし、それこそが堕落の魔探偵、ロレンシオ・エランをロレンシオ・エランたらしめている。


「……何も出てこなかった」

「何も?」

「貴様の情報は秘匿扱いされているだろう」

「ああ」


 自分のことを探られていた。それは看過できるものではない。反目を抱いてもおかしくもない情報だ。しかし、ロレンはひとつも驚きもしなければ、小揺るぎもしなかった。むしろ、納得とばかりに気軽に頷く。


「第一級危険魔術師の情報をその辺の輩が手に入れられるわけがないだろ」


 犯罪者と言っているようなものだ。それも凶悪な。決して、胸を張れる称号ではない。ロレンはそれを何ひとつ恥じることなく、自分を守るに重宝するものとばかりに言い放った。

 犯人たちがひゅっと息を呑む。

 当たり前だ。これを聞かされて動揺せずにいられるわけがない。

 ロレンをよく知るリディでさえも、性格を測りかねたのだ。犯人たちにしてみれば、ロレンの言動がどこに向かうか分からなくなって、輪をかけて恐怖を煽るばかりであっただろう。


「ふざけるなっ」


 そうして、犯人たちが選んだのは愚かな道だった。犯罪者でありながら、魔探偵であることは通常ありえない。矛盾の発生に、犯人たちはもっとも簡潔な判断を下した。

 つまり、くだらない戯れ言だというものだ。

 判断に続いて、男たちは愚かな行動を取った。このままロレンを放置しておくことはできないという判断であったのだろう。煽られた危機感に突き動かされた結果は、ろくなことになるはずもない。だが、そんなことを吟味する時間は残されていなかった。

 犯人たちは余裕を崩していなかったが、実質的にはかなり追い詰められている。人質が自由になった時点で、交渉の道は絶たれた。襲うという判断は、最終段階であったが、定められていた道のでもあったのだ。

 男たちがロレンとリディに向かって突撃してきた瞬間、ロレンはリディを突き飛ばして距離を取った。


「好きに動け」


 どこにそんな力が残っていたのか。疑ってしまいそうになるほどの腕力で突き飛ばされたリディは、半ば床に倒れ込むようにロレンから離れた。

 男たちは、その場から移動しなかったロレンに一斉に群がることになる。ロレンはまったく動く気配がない。リディには、それが限界なのだと理解できてしまった。

 漏れ出していた魔力の量が減少している。それはロレンが制御を取り戻したのではない。そんな楽観視ができるものではなかった。魔力の消費が分水嶺を超えかけている。そう思考するほうが常道だ。


「ロレンさんっ」


 思わず、リディは絹を裂くような悲鳴を上げる。

 その切羽詰まった声がよくなかったのだろうか。男たちはその気になったかのようにロレンに飛びついた。しかし、ロレンは腕を突き出すだけだ。

 リディの危機感はいっかな飛び上がって、甲高い声を続けた。


「ダメです……っ!」

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