堕落の魔探偵④

 ロレンが何をしようとしているのか。リディは直感的に察知していた。

 レナートがその話をしたこともあっただろう。その翳された手のひらに男たちが触れたが最後。その身は分解されかねない。

 ロレンは平静を保っていた。もしかすると、かつてやったことがあるのかもしれない。リディはそれも考えなかったわけではなかった。だが、それでも、リディはロレンに手など下して欲しくはなかったのだ。

 ましてや、自分が発端となったような事件で。

 どうすればいい。

 リディは頭を巡らせる。しかし、どんなに必死になっても……必死になればなるほど、思考はから回って上滑りした。

 突き飛ばされたのさえも、ロレンの策だったのではないか。このままでは手も届かない。飛び込めばいいのか。しかし、誤爆される可能性があると思うと、足が竦む。

 こんなときに!

 こんなときに動けなくて、何が万全を尽くすというのか。

 リディは奥歯をすり潰し、引きそうになる腰を据えて駆け出そうとした。無謀だろうと何だろうと。これ以上の無理をロレンにさせてはならないと。それだけのために動こうとしていた。

 その瞬間。ぐわりと足元が揺れる。リディはバランスを崩して床に手を突いた。視界を土煙が覆う。リディは自分がいつの間にか、ロレンしか視ていなかったことに気がついた。

 一極集中していたものが途切れて、視覚とともに聴覚も戻ってくる。がらがらと瓦礫が崩れ落ちる音が、辺りに充満していた。

 派手な破壊行為。それが行われたのだと遅れて気がついたのは、リディだけではなかった。豪快な闖入者に、誰もが動きを止める。

 緊迫した空気。けぶる土煙の中に、薄らと人影が浮かび上がる。僅かでも身動ぎすれば、予想外の出来事に巻き込まれるのではないか。奇っ怪なまでに静まり返った空間に、そのシルエットはゆったりと影を揺らした。

 そうして、晴れやかな足取りでそのシルエットが輪郭を浮かび上がらせる。

 飄然とした態度を取るのは、エラン魔探偵事務所の特徴なのか。現れたのは、いつも通りに爽やかな笑みを浮かべたレナートだった。


「間に合ったかな?」


 腕をぶん回しながら瓦礫を掻き分けて進んでくる。こなれた作業を終えたかのようなレナートは、そのままロレンの元へ駆けつけた。


「よくやるよな、お前は。本当に」


 男たちはレナートの殴り込みで吹っ飛ばされている。何事をやらかしたのか。腕を回していたことから、殴り込みをかけたのは分かるが、それにしては威力が桁違いだ。腕に関わる特殊魔術を持っているようだった。

 そんなレナートの軽口は、事務所で話しているときと変わらない。緊急事態にはえらく間抜けだ。だが、その平常がリディの気持ちをいくらか楽にしたのも事実だった。

 レナートは万全だ。どこも消耗しているようには見えないし、男たちに引けを取るようにも見えない。これでロレンが無理をする必要もない。後始末はいるだろうが、ひとまずこの場が収まるはずだとリディはすっかり脱力してしまった。


「間に合ってよかったよな、本当に」


 噛み締めるように繰り返したレナートは、拳を握り締めてロレンの腹にそれを沈める。


「ロレンさんっ」


 リディは驚愕に悲鳴を上げて飛び出していた。呻き声を上げて地へとひれ伏すロレンをどうにか支えて崩れ落ちる。抱きとめることはできなかったが、地面に頽れさせることはなかった。


「レナートさん、何を……」

「このままじゃ、そいつにこの場をめちゃくちゃにされておしまいだった」

「だからって!」

「そいつには暴走した前科がある」


 レナートは冷静に見下ろして零す。その翡翠の瞳は石のように冷たかった。

 ロレンを止めるのに間に合った。まるで味方でないようなことを冷然と零すレナートに、リディは言葉をなくす。

 一度落ち着き始めていた切迫感が、再び競り上がってリディの感情を取り乱させた。どごどごと嫌な音が体内でがなり立てる。口内が一気に干上がって、からからになった。

 レナートはロレンが身動きしないのを目視した上で、耳に手を当てる。もうすっかり視力強化を切っていたリディは、そのときになってようやくレナートの耳にイヤホンが嵌まっていることに気がついた。


「突入してくれ」


 無慈悲にも聞こえる指示に、リディが身を固くする。レナートが助けを求める相手に心当たりがない。エラン魔探偵事務所にリディの知らない社員はいないのだ。突入を求める戦闘員などいない。

 ぴりっと意識を尖らせたリディを横目に、どっと人員が突入してくる。五人の魔探偵らしきものたちは、犯人を瞬く間に確保していった。何のことはない。リディたちに被害が及ぶことはまるでなかった。

 レナートは周囲を監督している。


「第一級危険魔術師が無条件に魔探偵事務所を経営できると思うかい? リディちゃん。監視役はついて当然だ。俺はエラン魔探偵事務所への派遣社員なんだよ」


 にこりと笑ったレナートは、リディにロレンの暴露話をしたときと同じだ。何を考えているのか分からない軽やかさ。不気味にも取れる曖昧な態度は、つまり事務所の人間でない距離感だったのだろう。

 リディはこの正体不明さが明らかになったことに、小さく胸を撫で下ろした。続きを聞くまで油断などできないだろうが、それでも現状。レナートが敵対しているわけではないということだけは理解できる。


「中央所属だ。魔探偵局特殊監察官レナート・スポルトーレ。以後、よろしく……するかは分からないか」


 レナートは消耗しボロボロでリディに支えられるようなロレンを見下ろして肩を竦めた。先日話したことが、リディの脳裏に蘇る。

 申請すればいいのだ、とレナートは言った。

 誘拐される危険に遭った挙げ句、主は多量の消耗で第一級危険魔術師としての危険性を見せつける。リディが申請を出せば、それはあっけなく通るだろう。そして、レナートはリディがそれをすると信じて疑っていないようだった。

 少なからず、ここまで一緒にやってきたにもかかわらず、このざっくばらんっぷり。リディの胸中はごちゃついている。何よりも、辞めるだの辞めないだのと考えている猶予は一時たりともない。

 支えているロレンから、反応が薄れていく。元より口を出すようなタイプではないが、こんなふうにすべての説明を丸投げするタイプでもない。面倒のないようにそつなくこなすのがロレンだ。

 リディはレナートに答えず、ロレンの様子に視力強化を使った。

 その瞬間だ。


「ロレンくん」

「香さん……!」

「大丈夫ですか? リディさん。もう大丈夫ですからね」


 まさか香が現場にやってくるとは、リディは夢にも思っていなかった。非戦闘員であって、事務所を守っていると。事実、今までそうしてきていた。

 それだというのに、今はロレンの元へやってくる。その足取りは堂々としていて、ちっとも尻込みする様子がなかった。

 確かに、既に犯人たちは確保されている。とはいえ、現場の安全性は確実ではない。これほど無防備な女児が来ていい場所ではないはずだ。リディにはその気持ちが拭えなかった。

 しかし、香はそんなリディの心中など知ることはなく、ロレンを覗き込んでその顔に眼鏡をかける。ロレンをしかと視ていたリディには、眼鏡をかけた瞬間に魔力が収束していくのが分かった。

 魔術具や魔法薬にはさまざまな種類がある。制御装置もそのひとつで、実用性が高いものだ。ロレンの眼鏡がそうであると、リディは今になってようやく知った。

 ロレンの魔力が落ち着いていく。その流れに安堵する気持ちもあった。しかし、心底落ち着くことはできない。身体の中。そして、表層。ロレンの魔力は未だにすべてが収まることはなく不審な動きを続けている。

 それはリディにしか視認できないものだ。見目には、既に落ち着いているように見える。垂れ流し状態の異様なオーラはなりを潜めているのだ。勘の悪いものであれば、まったく異質性を感じ取ることはできないだろう。

 ただし、ロレンの体力が戻らず起き上がってこられないことは、魔力の異常とは別に分かりやすかった。

 そんなロレンに、香がきゅうと抱きつく。


「香……」

「大丈夫ですよ、ロレンくん。問題ありません。リディさんも安全です。怪我ひとつしてませんよ」

「ああ」

「ボクがいるんですから、もう心配はいりません」


 見ている分には、小さな香がロレンを心配して甘えているように見えた。だが、その実、ロレンを包み込んで落ち着かせようとしているのは香だ。

 リディはその光景を呆然と眺めていた。

 それは何も、ロレンにロリコン疑惑を抱いたとか、二人の関係性が謎に包まれているからとか、そういった理由ではない。

 ロレンの表層に漏れ出していた魔力が、収拾していくというよりも一気に消滅したのだ。それは、ロレンの分解によく似た構造でありながら、まったくの無へと帰す現象であった。

 それをなしえたとリディがしかと見届けたところで、ロレンは深いため息を零す。どれだけ魔力が落ち着いたところで、流れ出たものが戻ってきたわけではない。消耗はなくならず、その場から動けないことに変わりはなかった。

 だが、その視線がリディへと持ち上がる。


「香、リディを」

「はい」


 リディには何のことだが一切分からない。二人だけで通じる言語によって、香はロレンに寄り添ったままリディの手をぎゅうと強く握り込んで引き寄せてきた。

 香に引き寄せられて膝立ちになったリディは、そのまますとんと床に腰を落としてしまう。まるで、香を中心にロレンと二人寄り添っているかのような構図になった。

 香はそれでいいとばかりにこちらを見上げてくる。それに視線を合わせた途端、ずわりと何かが持って行かれた。

 それは魔力だっただろうか。だが、リディはその瞬間を視ていなかった。何が起こったのか分からない。

 分かったことは、ずっと腹の底で揺蕩っていた違和感が消えたということだけだ。しかし、同時に消費してしまった何かのせいで、力が入らない。床に腰を下ろしたまま、まるで動けなくなってしまった。

 突如襲ってくる虚脱感は、恐怖心を煽る。香がリディを不能にすることはない。それは信用している。

 しかし、不調には動転していた。その不調は、並大抵のものではない。口を開くのも億劫で、五感が緩やかに衰えていくような気がした。感覚は鈍っていくのに、危機感だけが研ぎ澄まされていく。

 不快感に、不安が一挙に広がって身体中を拘束した。脳内がパニックに陥る。

 その変化に気がついたのは、同じく消耗して香に抱きつかれているロレンだ。その重そうな腕が持ち上がって、リディの背中に回る。香を間に徒党を組んだような抱擁だが、今はそんなことに拘っている余裕がない。

 ロレンの大きな手のひらが、リディの背をゆっくりと撫でる。


「大丈夫だ」


 たった一言だった。

 ロレンだって万全とは言えない。本当に大丈夫か、だなんて確証は誰にもない。現場で意識を手放すのは恐ろしいことだ。

 けれども、たった一言。それ以上、付け足されることもなかったひとつで、リディはすとんと心が元の位置に戻った気がした。……戻ってしまった。

 その深い安堵に釣られるように、すっと意識が遠のく。

 ロレンの腕か。香の全身か。どちらの体温かも判断がつかない。朦朧とした意識の中、誰かの手が自分を抱きとめてくれる。

 リディは温もりに体重を預けて、意識を手放した。

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