堕落の魔探偵⑤
消毒液の匂いが意識の先に引っかかる。
瞼を持ち上げたリディを待っていたのは、白い天井だった。暗がりから這い出た眩しさに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。改めて鼻先が消毒液の匂いを捕まえて、リディは病院の一室にいることを理解した。
顔を動かすと、片側は窓で、もう片方にはカーテンがかかっている。隣に誰かいるのだろうか。静まり返った病室から、何かの気配を感じることはできない。
リディはそっと息を吐き出してから、そろそろと試すように視力強化を発動した。窓の外は真っ暗で、どうやら深夜だ。カーテンの向こうにはロレンが横になっていて、他には誰もいない。
真夜中であるから、香もレナートももう引き上げてしまっているのだろう。まだ、当日中だろうか? まさか二、三日もの間意識を失っていたなんてことはないだろうか。リディはこんな時間に冴え始めた頭でのろのろと思考を巡らせた。
「起きたのか」
一連の出来事を反復しようとした途端に声をかけられて、リディは肩を竦める。目を向けると、ロレンは薄らと瞳を開いてカーテン越しにリディを捉えた。
「……見えてるんですか?」
「気配で分かる」
「もう回復してるんですね」
「万全ではないけどな」
「起きてていいんですか」
「十分眠ってる」
「いつもと同じじゃないですか」
「いつも必要だからな」
リディはもうその理由も知っているし、その現実も目の当たりにした。
怒濤の事件だったように思う。リディは結局何もできていない。そのくせ、さまざまなことが一挙に起こって理解の範疇を超えていた。事情を聞きたいような気もしたが、ロレンはまたすぐに寝てしまうだろうか。
リディに遠慮はあった。しかし、気になって眠れそうにもない。一度目覚めてしまうと、巻き起こったことに乱れていた心がその余波を取り戻してしまったようだった。
気忙しさを消化しきれずに、リディは上半身を起こす。オイルを差し忘れたような身体の軋みに苦笑を零しながら、ぐいっと伸びをした。そのままベッドの縁に足を垂らして、ぶらぶらと揺らす。身体を動かすことで、意識はいくらか分散された。
「……眠れないのか」
ロレンは目を閉じてしまっている。その状態でぼそぼそと喋った。病院でなければ心配も必要もないほどに、いつも通りの態度だ。その顔面に眼鏡がかかったままなのも、いつも通りだった。
……邪魔だろうに、とリディは密かにいつも思っていた。今となっては、それを言えるわけもない。
「ロレンさんはどうなんですか?」
「横で動かれれば気になるだろ」
「いつもは無関係に寝てるじゃありませんか」
「病室と事務所じゃ勝手が違う」
そこまで言われて、リディはようやく自分が心配されているのだと理解した。
心配していないとは思っていなかったが、ここまであからさまに気を配ってもらえるとも思っていない。
「……話し相手になってもらえますか?」
せっかくだ。リディはロレンの歩み寄りに甘えることにした。
静かに切り出したリディに、ロレンはのっそりとした動きで上半身を起こす。リディがそうしているようにベッドの縁に腰を下ろすと、カーテン越しに向き合った。
「何が知りたい」
カーテンを開けないのは、立ち上がる体力がないからか。この目隠しのある空間が心地良いからか。それとも、リディにはどちらにしろ視えるだろうという面倒くさい作業の排除なのか。
判別はつかなかったが、リディとてわざわざ開けようとは思わなかった。自分が視えてしまうこともあるし、ロレンだって気配でこっちを読んでいる。このままで不便はない。
「まず、どうやって探してくださったんですか」
「総当たりだよ」
「……は?」
総当たり? 総当たりとはすべてを当たることだ。一体どこからどこまでをすべてとして、総当たりをしたのか。リディは二の句が継げなくなった。
「お前が視える範囲を絞って、その範囲をすべて総当たりした」
「そんなこと……視えるわけじゃないですよね」
「俺の特殊魔術は理解できているか?」
「コピーという話ですよね。正確には、理解・分解・再構築」
「それぞれ別れていることがポイントだな」
「独立して使える、ということでしょう?」
リディの発言に、ロレンが薄く笑う。空気の揺れが届くほどに、夜の病室は静かだった。
「インターンは頭の回転がいいな」
愉快そうな響きに、リディはなんだかむず痒くなる。ロレンは普段、人を褒めたりしない。どちらかと言えば、苦言混じりの指導ばかりだった。叱責をかまされた印象がいつまでも消えていないとも言うけれど。
「この世のものにはすべて構造がある。それを理解して脳内で分解する。その映像を脳内に残し、再構築をしないまま、壁にぶちあたるたびにひとつひとつ繰り返していくだけだ。お前の目なら、ただ視るだけだろうけどな」
「それ、どれくらい力を使うんですか」
「制御装置が邪魔になるくらいだな」
外すことはなかったが、ロレンは眼鏡のフレームを持ち上げるように示した。
カーテン越しであり続けているのに、仕草がついてくる。リディが視えていることを前提にロレンは動いているようだった。それとも、ロレンは今もカーテンを理解し分解した映像を脳内にストックさせて、リディの様子を窺っているのだろうか。
「裸眼、初めて見ました」
「普段は外せねぇからな」
「……すみません」
「いや、それはいい」
ロレンの口が重くなる。
リディにしてみれば、今回の事件は突然の誘拐事件で、自分が端を発していると思っていた。しかし、ロレンにしてみれば、話は変わってくる。
いや、きっかけとしてリディの誘拐が一番のポイントになってくることは否定しない。せっかく便利で安全が確保できる目を持っているのだから、常日頃から危機感を持って有効に利用して欲しいと切実に願う。
だが、今回の犯人の素性と目的を思えば、潜入捜査にリディを使ったことが問題だった。それはロレンの反省すべき点であり、誘拐された身のリディに謝罪などをされる義理はない。
「レナートさんと香ちゃんは……」
「レナートなら中央に報告だろ。香なら帰らせた」
「香ちゃんのあれは、なんですか」
レナートのことも気になりはしたが、概ねすべての情報は詳らかにされている。後はリディが納得するしかないことだ。
それよりも、香に施された現象についての説明をリディは求めた。あのときは、本当に何が起こったのか分からなかったのだ。意識を失ってしまったので、自分がどんな治療を受けて今があるのかも分からない。
「そうだな……」
ロレンが顎に手を当てて、言葉を探す。
珍しいことだ。
即断即決、というほどではないが、ロレンはあまり迷うことがない。それすらも面倒だと思っているかのように、決めることは即座に決めてしまう。人の話に取り合わないこともあるほどに。
そのロレンが言い渋る。リディは知らず知らずのうちに、身体に力を入れてしまっていた。
「俺の事件は知ってるよな」
ロレンは知らないはずがないと分かっているようだった。そりゃ、魔探偵養成学園に通っていて知らない人間はいない。
リディは、はい。と小さく返事をした。
「あのころ、例の研究所は人体実験の噂が立っていた。魔力と魔術、そして魔術師関係の研究は多かれ少なかれ人体が関わるものだが、そんなヤワなものじゃない。特殊魔術を付与もしくは消去。そういったかなり危険な研究をしていると、学生にまで噂が流れていた」
「研究所って国が運営しているんじゃないんですか」
「あそこに関わっていたは定かじゃないままだな」
それは、あまり芳しくない返答だ。揉み消されたとも取れる言い回しに、リディは思わず顔を顰めてしまった。
「とにかく、そんな噂が充満しているころ。俺のインターン先の事務所に娘が誘拐されたという事件が持ち込まれた。その時点ではただの誘拐のはずだったが、調べていくうちにその研究所に連れ去られたことが判明した」
「……人体実験に子どもを使ってたってことですか」
「子どものほうが発現したばかりで自由が利くという理論だったらしい。俺はその依頼主の事件として、研究所へ突入した」
ロレンの声音は平坦だ。淡々とした語り口は、感情を悟らせない。ただの情報として耳にできるのはいいことだが、それが決して感情がないわけではにないことくらい、リディにも分かるようになっていた。
「俺は魔術の制御力を失って暴走したけど、まぁそこにいた子どもたちを救った正義のヒーロー扱いだったよ。表面上は」
「裏では第一級危険魔術師に指定されたってことですか」
「……暴走して、人間を消したからな。指定で済んだだけマシだったと思っている」
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