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深夜の密会①

 朝方のエラン魔探偵事務所は、深閑としている。

 いや、正式には、常から騒がしくはない。香はおとなしい子であるし、ロレンはだらけきっている。リディだって威勢はよかったが、かといって常にうるさい落ち着きのない子ではない。

 なので、エラン魔探偵事務所は常から深閑としている。

 だが、今朝リディが出勤した際の事務所は、いつにも増して静かだった。香は珍しくまだ眠っているのか。応接間であるダイニングにいない。

 事務所のソファで、ロレンが長い足を持て余して寝入っている。自室には広いベッドがあるだろうに、ロレンは頓着しない。気ままに睡眠を……惰眠を貪っていた。

 出勤して、まだ事務所が動き出せる状態でないことは珍しいことじゃない。この事務所はこういうものだと、リディも諦めてしまっている。魔探偵見習いとして精進することは諦めていないが、郷に従う気にはなっていた。

 リディは忍び足でロレンへ近付く。眠っているロレンの表情には、いつもの胡乱げな雰囲気がない。その分、整った顔つきが前面に出ている。長めの前髪が横に流れているので、顔がよく見えてエッジの良さが際立っていた。

 リディはそれをまじまじと見下ろす。

 何かの詐欺なのではないか。こんなにも不精な男のくせに、見かけに恵まれたことだ。これでは勘違いをする子もいるだろうと、要らぬ心配に思いを馳せた。

 しばらくそんな失礼なことを考えていたが、リディは不意に我に返る。すぅと息を深く吸うと、拳を握って気合いを入れた。

 リディ・ブランジェはサキュバスクォーター。夢魔だ。その力を練習するのに、眠っている相手は大層勝手がいい。

 リディはロレンの額に手を押し当てた。

 夢魔の力を使うのに必要なのは、魔力の変動だ。意識して魔力を動かし、相手へそれを流し込む。能力が高ければ実際に触れる必要はない。サキュバスによっては、視線を合わせるだけで発動できるものもいる。

 だが、今までサキュバスの能力を忌避してきたリディにそんな簡易的な発動ができるわけもない。実際に触れて、じっくりと意識を集中させ、それでようやく微量の魔力を流し込む程度の実力しかなかった。

 魔力の流れを目視できるだけ、まだ難易度は下がっているかもしれない。視えることで反発を直に体感してしまい、難易度を感じてもいるけれど。

 上手くコントロールできないことに焦れたリディは、ムキになってロレンの上に乗り上げた。接地面を増やそうという思惑のもので、深い考えもない。俯瞰してどのように見えるかなど、リディは露とも考えていなかった。

 だからこそ、迷いもない。手のひらと太股。触れ合っている身体の部位から、魔力を流す。普通なら感覚になるところを、リディはよく視て実践に移した。

 しばらくそうしていたところ。ロレンが眉を顰めて、呻き声を上げる。リディは魔力の変動に成功したことを確認して、心の中でガッツポーズをした。

 その結果、ロレンにどのような変化が訪れるのか。気がついてもいなかった。


「ん」


 呻き声が寝息ではなくなったところで、ロレンの瞳が開く。深緑色が潤んでいるのは、目覚めたばかりだからか。別の要素か。リディには別の可能性なんて、ちらとも思い浮かんでいなかった。

 何度か瞬きを繰り返し、リディに焦点を合わせたロレンは、寸秒でしょっぱい顔になる。リディの体勢を確認して、肺の中の空気をすべて吐き出すかのようなため息を零した。


「ロレンさん、おはようございます」


 ものともしない。ここ数日ですっかりロレンにも慣れた、リディの快活な挨拶が響く。

 自分が今しがた何をしていたのか。まったく理解できていない。ロレンはもう一度、地の底まで届くため息を吐きたくなった。


「……お前は何をやってるんだ」


 低く掠れた声は、怒りと呆れと色気が撹拌されている。リディはぱちくりと目を瞬いた。


「あ、すみません。退きますね」

「質問に答えろ」


 リディが邪魔だろうと気がついて動こうとするも、ロレンは詰問するばかりだ。こうなるとロレンは聞く耳を持たない。リディは宣言を引き出されたときのことを思い出していた。


「……魔力を動かそうかと」

「お前は考えなしなのか」

「何ですか、それ」

「馬鹿だということがよく分かった」


 噛み合っていないのは明らかなうえで、馬鹿にされていることに不服を抱く。宣言通りの努力をしているというのに、馬鹿にされる謂れはない。リディは唇をへの字に歪めた。


「ロレンさんがサキュバスの能力を伸ばせって言ったんじゃないですか」

「だからといって、俺を実験台にするんじゃねぇ」

「他に試すような人がいません」

「俺ならいいという発想がまるで理解ができない。退け」

「なんですか! さっきは答えさせようとしたくせに」


 マイペースに馬鹿にして命令を下すロレンに、リディの気炎は高まっていく。わーわーと騒ぐリディに、ロレンはうるさそうに顔を顰めて片耳を塞いだ。


「いいから退け」

「本当になんなんですか」


 なんとなく、命令通りにすぐさま動くのは釈然としない。細やかな抵抗に、リディはロレンの腹に跨がったまま愚痴を零す。

 ロレンの表情はますます険しくなり、次には表情を消した。何かのスイッチを切り替えるように、無表情に新しい色がついていく。

 目を眇めて軽妙な笑みを浮かべたロレンに、リディはひくりと頬が引き攣った。


「インターン。お前の能力はなんだ?」

「……視力強化です」


 ぱしんと額を叩かれて、リディは唇を引き結ぶ。自分が白を切ったことが原因なのは分かっているので、文句も言えない。


「サキュバス。夢魔」

「分かってますよ!」

「じゃあ、自分が何をしでかして、そういう感情を抱かせた男の上に跨がっている自覚はあるか」


 具体的に示されて、リディは初めて現状確認が正しく行えた。ざっと血の気が引いて、その引いた血が一気に身体中に巡る。首の裏から顔に向かって熱が急上昇した。


「俺がどういう気持ちでいるか分かったか? リディ?」


 わざとらしく名前を呼ばれて、リディはびくりと肩を竦める。泡を食って視線を逸らし、慌てて身を捩った。

 しかし、それをロレンの腕が遮る。片膝を立てられて、傾きに流されるように身体が滑る。密着具合が深くなったリディは、一段と慌てふためいた。


「わっ!! 分かりました。分かりましたから、離してください」

「自分の訓練結果が知りたいんじゃないのか?」


 ぐりっとやおら身体をぶつけられる。

 ロレンの身体は、その生活のルーズさと比例しない。一体いつ鍛えているのか謎が謎を呼ぶが、筋肉もついている。リディはそれを目撃しているのだ。忘れようと思っても忘れられるようなものではない。

 結果について促されてしまっては、嫌でも性的な部分に想像を巡らせてしまう。リディは首筋までを真っ赤に染め上げて、ぶんぶんと首を左右に振った。


「手抜きか?」

「からかうためにそんなふうに煽るのはやめてください! 悪かったですから。勘弁してください」


 ロレンの性格は悪い。

 リディの第一印象は、概ね外れてもいなかった。依頼人でなければ、扱いはこんなものだ。香いわく、力を抜いている状態だと言うが、出会ってすぐのインターン相手には多少緩み過ぎている。

 リディの完全降伏に、ロレンはくつりと笑ってから手を離した。

 離されさえすればこちらのものとばかりに、リディはすぐさま飛び退く。そのまま数歩は距離を取って、胸元を押さえた。

 ロレンは早速興味を失ったように、大あくびを零している。一度会話に目処がつけば、後はどうでもいいとばかりに適当になった。

 自分ばかりが翻弄されていることに、リディは腹が立つ。そうして腹を立てていることすらも、翻弄されている証左のようでいかんともしがたかった。


「ちったぁ考えて動くんだな」


 憮然としているのを視界に留めたロレンは、注意を促す。それでリディの機嫌が回復するわけもない。不貞腐れたままであることに、ロレンは顔を顰めた。

 面倒事を嫌うのは、何も仕事に関係することだけではない。とにかく省エネでいたがる。それは人間関係にも反映されていて、ロレンは誰の相手であっても適当だ。

 リディは香と自分相手しか見たことがないけれど、それでも理解するには十分だった。


「二度目はないぞ」


 それでも、目処がつくまでは責任を持つ。リディはそれも少しずつ理解し始めていた。


「……じゃあ、どうしろって言うんですか」

「もっと違う方法を探せ」

「簡単に言わないでくださいよ」

「サキュバスの能力は割と分析されているだろ」

「個人の資質によります」

「お前は瞳と合わせれば幻惑くらいは軽い」

「だから、それを実験する場がないんですってば」

「……実習室でも使えよ」

「部屋があっても人がいません」


 魔術の訓練とはそう簡単ではない。単純な戦闘訓練ならば、学園に戦闘用の人形が準備されている。しかし、サキュバスのような能力となると、発動相手は生物でなければならない。人形ではどうしようもないのだ。

 確かにロレンにしかけたことは考えなしではあったが、考えたところで他の方法がないのも現実だった。


「厄介な」

「だから、大変なんですよ」

「お前が避けていたのはそういう理由じゃないだろうが」


 だから、やっていなかったんです。

 リディが言い換えて含んだ理由をあっさりと切り捨てたロレンは、鼻を鳴らす。

 ずるずると続く言い争いは、リディが答える前に終止符が打たれた。からんと鳴ったのは、事務所の扉だ。

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