堕落の魔探偵⑦

 ロレンが座り込んでいるベッドに近付く。突発的な行動に、ロレンは眉間に縦皺を刻んでリディとの距離を測ろうとした。

 しかし、ロレンが動こうとするよりも先に、腰を掛けた足の間にリディが入ってくる。


「おい……っ」


 何事か、と背を反らしたロレンを、リディはお構いなしに抱きしめた。

 立ち位置の問題で、顔に胸を押し付けられたロレンの動揺は、過去一だったかもしれない。サキュバスの能力発動のために腰に跨がられていたときも大概狼狽えていた。しかし、あのときはまだ、理由があった。今はどういう理由で抱擁されているのか。ロレンにはまるで見当がつかない。


「インターン」


 頭に回っている腕をタップして訴えかられたが、リディは身動ぎをしなかった。

 ロレンは少しすると、慰められている状態に気がついたのか。困惑を消すことはなかったが、身体の強張りを解いた。失笑か苦笑か。唇を緩めた細やかな呼吸音も聞こえてくる。

 そうして、抱擁しているリディの背をタップするかのように叩いてきた。


「そんなことはいいから、お前は誘拐されたことを反省するなり、これから先のことを考えるなりしろ」

「そんなことじゃありませんよ!」

「……何年経ったと思ってんだ」

「たったの六年です」

「十分だ」


 リディは無言で首を左右に振った。豊かな髪の毛が、ロレンの肌を擽る。

 ここまで急接近したことは初めてではない。身体を抱きしめて、唇を合わせた。あの晩、今までで一番そばに寄ったことは、お互いの記憶に焼き付いているだろう。

 ロレンはリディに忘れろと言いはしたが、ロレン自身が忘れられているかは別問題だ。


「……私、誘拐二度目です」

「……」

「もう、覚えてません。でも、怖かったのは、何年経ったって、覚えてます」


 リディの記憶は穴ぼこだらけだ。

 何者かに連れ去られたこと。病院服のような洋服に袖を通されて、灰色の暗い部屋に連れ込まれたこと。周囲には自分と同じような子どもが何人もいたこと。苦しくて痛いことはされなかった。多分、それはされる前に助けられただけだ。リディはそれくらいのことしか覚えていない。

 それでも、感情は覚えている。幼少期の出来事だって関係がない。ましてや、ロレンは物心がついているどころか、自我が確立しているころだ。この優秀な頭脳を持つ上司は、きっとそんな大事件を忘れ去るわけがない。

 自分の失態であるのなら、尚更にそうであるような気がした。


「お前なぁ」


 リディの告白に何を思ったのか。ロレンが呆れた声を出す。

 それから、片腕でリディを抱き上げて横抱きで膝の上に乗せた。あまりにも予想外な出来事に、リディはぽかんと大口を開けてロレンを見上げる。

 唖然としているリディをよそに、お姫様だっこ亜種のようなポーズで落ち着いたロレンは、リディの肩を抱いて引き寄せた。リディは上半身を捻るように抱きとめられる。なすがままに胸板に頭を寄せられて、ようやくロレンに自主的に抱きしめられていると理解した。

 自覚した途端、ばくんと心臓が過大な音を立てる。


「ロ、ロレンさん……?」


 こんなふうに抱きしめられる理由に気がつかないリディは、ロレンがすっかり落ち着いたころになっておろおろと目を彷徨わせた。


「あのままじゃ冷える。そして、人のことを心配してる場合なのか? トラウマはないな? PTSDは?」

「あ、」


 ありません、と呟こうと思った言葉が喉元に絡まって留まる。リディにまったく自覚はなかった。

 けれど、改めて突きつけられた誘拐という現実に、後追いの恐怖がじわりと胸元に滲んだ。それがトラウマなどという長期的なものなのか。されたばかりの後遺症であるのか。リディに判断がつくわけもない。

 前回の記憶なんてあやふやで不明瞭だ。それだというのに、いっちょ前にトラウマになっているなんて、信じたくなかった。ひどくちっぽけで、か弱い人間になったような気持ちになる。

 リディの目標は魔探偵だ。誰かを助けられる存在になりたい。それこそ、たとえ絶望的な対処になってしまったとしても、子どもたちを助けてくれた堕落の魔探偵のように。

 そして、その魔探偵は誘拐ひとつで怯えたりなんかしない。


「リディ」


 数度しか呼ばれたことがない名前を呼ばれて、リディはびくりと肩を竦めた。


「無理をしなくていいし、危機に慣れ過ぎる必要はない。お前はまだ、学生だ」


 ロレンがそんなことを言い出すなんて、青天の霹靂だ。

 妥協を許さない。万全を尽くす。リディのサキュバスの能力を使えと、初手から叱責してくるような主だ。学生であることを理由にしてくれるなんて、思いもよらない。

 慰められている。

 それを素直に受け止められるほど、リディは甘やかされてきていなかった。ぐっと唇を噛み締める。

 ロレンは腕を背に回して、そっと撫でた。その手つきは、リディが思うよりもずっと優しくて暖かい。不覚にも、鼻の奥がつんとしてしまうほどには、ロレンの感情の気遣いがこもっていた。


「危険な目に遭わせて悪かった」

「っ」


 謝罪なんて、気遣いよりもよっぽど仰天の事態に、リディはぎょっとして顔を上げる。すぐそばにあるロレンの顔を凝視した。ロレンは渋面を浮かべて、リディを見下ろしている。


「ロレンさんのせいではありません」

「うちじゃなきゃ、お前はもっと安全なはずだ」

「関係ないです!」


 犯人がいる。どう考えても実行犯が悪い。ロレンが謝罪するようなことはひとつもないと、リディは声を乱した。

 そんなふうにらしくもないことを言って動揺させるのはやめて欲しい。ただでさえ、状況にまごついているのに、ますます感情が撹拌されて訳が分からなくなりそうだった。


「あるに決まってんだろ、馬鹿が」

「なんですか、その言い方は」

「うちは仕事の取り方が雑だ。他と違う。そうでもしなきゃ、取れないんだよ。大口のものは回されない。エラン魔探偵事務所にいるのは役に立たない堕落の魔探偵だからな」

「それは……」


 ここまでくれば、リディにもほの暗い思惑を感じる力もついてくる。魔探偵局が絡んでいるのだ、と言葉を飲み込んだ。


「うちは、第一級危険魔術師と人体実験の成功例がいる事務所だ。レナートは魔探偵局から監視の目的で派遣されてきている。インターンなんぞ、本来受け入れられるような安全な事務所じゃねぇんだよ」

「どうして、引き受けたんですか」

「魔探偵局から押し付けられたからだと言っただろ」


 ロレンの言葉が剥き出しなのはいつものことだ。だが、それほどの危機を持ち合わせる事務所にインターンを受け入れる心労を考えてしまったリディにはそれなりにこたえる。

 ロレンはそんなリディの心情もお構いなしに


「だからな、リディ」


 と続きを紡いだ。

 そこまで言って、ほんの少しの間を取る。ロレンがそんなふうに言い淀むことなんて、滅多にない。本日二度目のそれに、リディは怪訝を抱きながらも続きを待った。

 ロレンは自ら作った間を埋めるかのように、背を撫でていた手のひらで髪を梳いている。

 毛先を指に巻き付けられる感触は、リディにとって初めてのことだ。どうにも心がざわついた。


「……やめたければ、申請を出せ」


 それはレナートにも言われたことだ。そのときだって、多少なりとも考えはしたし、心は揺れ動いた。だが、ロレンに言われる恐慌は、その比ではない。心の芯が揺らぐほどに、ぐらりと眩暈がした。


「情欲に溺れて襲いかかるような上司のいるところにいるべきじゃねぇ」


 そうするのが正しいと。具体的な事案を出して説得を試みる。自分を悪者に仕上げてまでそれをやるロレンに、リディの心は一瞬で決した。

 迷いなど吹っ飛んで、同時に動揺もすとんと心に落ちる。なくなりはしなかったが、留めておけるほどにはなった。

 ふっと息を吐き出して、心を固める。ロレンはその覚悟をどう受け取ったのだろうか。リディの髪を弄っていた手が止まっていた。

 ……少しは、惜しむ心があるのだろうか。そんな希望的観測を抱くほどに、ロレンの強引さが葬られている。

 もし、ロレンが本気でリディをやめさせるつもりでいるのならば、わざわざリディに選択肢を渡すこともないのだ。問題児として、学園に突き返してしまえばいい。

 それをしないことに気がついてしまったら、心は一段に強く固まる。

 存外、不器用でつらいことを抱え込む。正義のヒーローじゃないといいながら、人を救う魔探偵。誘拐されたインターン一人、決して見捨てはしない。そうして、こんなふうに励ますような真似をする。

 面倒くさがりなくせに、面倒で迂遠な性格をしているエラン魔探偵事務所の主は、リディの尊敬する魔探偵だ。


「ふざけないでくださいよ!」


 辛気くさい顔つきになっていくロレンの襟首を引っ掴んで、額を合わせる。

 キスのときはこんなにまじまじと相手の顔を見る余裕はなかった。至近距離で目を見開くロレンの睫毛が思った以上に長いことを、リディは初めて知った。


「こっちは淫夢を見せてるんですから、そんなくだらないことでやめるわけないでしょ」

「……夢と現実をごっちゃにするな」


 ロレンは苦々しく零して、そっぽを向く。リディは視線ですら逃げるのをよしとせず、ロレンの顔を両手で挟んで視界を塞いだ。まさかそこまでするとは思っていなかったのだろうロレンの視線が、リディを一瞥する。


「私、言いましたよね」


 リディはロレンの態度など一笑に付すかのごとく、真面目な顔で言葉を紡ぐ。その勢いに押されるように、ロレンはリディの言葉を静かに待った。

 お互いに、距離感による気まずさや気恥ずかしさなどは感じることもない。リディによって支配された、勢いだらけで真っ正直な雰囲気に流されていた。


「最初に、言いましたよね? 覚えておけって」


 釘を刺すように、同じような言い回しでロレンに問う。ロレンはこちらを窺うように覗き見てくる顔を見返して、眉を顰めた。

 ロレンはリディとのやり取りを取り零すほど、記憶力は悪くない。だが、これといった指定のない言葉の確認など、そうそう見当がつくものではなかった。

 怪訝な顔にならざるを得なかったロレンに、リディはふんすと鼻息を鳴らす。額を押し付けた至近距離だ。生暖かい鼻息が、ロレンの肌をぬるく撫でた。


「見返してやるって」


 紫色の瞳をぎらりときらめかせたリディの姿に、ロレンは記憶を蘇らせる。

 忘れるわけもなかった。事務所にやってきてすぐのころ。ロレンがリディを遠ざけようとした際に、リディが食い下がってきたときの言葉だ。

 生意気で、まったく逃げ腰にならない。諦めない。リディの強気な側面が強く出ていた発言を、ロレンは爽快な気持ちで受け止めた記憶があった。

 ロレンは根性論を推奨しているわけではない。けれど、食いついてくる跳ねっ返りの強さは、譲歩して足並みを揃える必要がなく心地良かった。ロレンにとって、面倒な態度を取らずに済む相手というのは、それだけで気楽な存在だ。

 リディ・ブランジェという女は、口やかましい意味で面倒なことはあれど、我が儘めいた七面倒なことを言い出すことのない。目標があり、見所のあるインターンだった。


「見返すまで、絶対にやめてなんてあげませんよ」


 リディは、言い切ってやったとばかりのドヤ顔をしている。

 ひどく満足げなそれに、ロレンは胸の底が焦げるような気がした。諦めているものが数多くあって、自分にはそれが相応しいと思ってきた。それ相応のことをしでかした罰であるのだから、未来永劫解放されるわけもない。

 これから先も、そういう人生であろうと、ロレンは覚悟をしていた。

 実際問題、ロレンの特殊魔術はそういう性質のものだと。面倒なことばかりが絡みついてロレンを絡め取り、すべて遠ざける。そうして生きていくほうが楽だと、どこかで諦めていたのかもしれない。

 しかし、リディは当たり前のようにロレンを追いかけてくる。ここにいるのだと、全身で叫んでいる。これほどテリトリーを侵されるとは、まったく思ってもみなかった。

 リディは誇らしげな顔を保ったまま、ロレンを真っ直ぐに見つめている。

 ちっとも揺らがない。来たばかりのころよりも、ずっと芯がしっかりしてきた。たった一ヶ月半ほどの付き合いだ。それでも変化にすら気がつける。

 ロレンは小さく息を吐き出して、腹を括った。

 まったくもって面倒な。


「上等だ、インターン」


 頬を釣り上げて笑うロレンは、まるで魔探偵らしくない。

 さまざまな異質性を持った堕落の魔探偵、ロレンシオ・エランらしいものだった。

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