同部相救う⑥
そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。
すすり泣く声が消えて、胸に縋っていた力が弱まる。そのくせ預けられる体重が重くなった。泣き疲れて眠ってしまったらしい。
小さな子どもか。文句が競り上がりそうになるが、死体に鞭打つ趣味はない。これほどまでにダメージを負った生物をいたぶろうとは思わなかった。
「瀬尾、運ぶの手伝ってくれないか」
文句は言わないが、このままでもいられない。保健室でよかった。
俺の意図を察した龍之介が、文を支えるのを手伝ってくれる。一人で抱き上げられればかっこもついたのだろうな、と思わないでもない。でも、俺だって怪我人だ。物理的に難しい。そして、そんな甲斐性もなかった。
龍之介とともにベッドへ運び込んで転がす。仰向けに整えて、布団をかけた。見下ろすと、目元が赤い。放っておけば腫れるだろう。
俺はハンカチを取り出して、設置されている手洗い場で濡らした。文の目元を覆うと、微かに反応がある。それでも起きることはなかった。
「他の何よりも効いたと思う」
俺と同じように文を見下ろしていた龍之介がぽつねんと呟く。何のことか分からずに目を向けると、龍之介も文から視線を外してこちらを見た。
「墨田さんじゃなくてよかった、って他の誰に何を言われるよりも、墨田さんはこたえたんじゃないかな」
「……嫌味や皮肉のつもりはないぞ」
責められている気がして、言い訳がましい言い方をしてしまう。
龍之介はゆるゆると笑った。
「もちろん、分かってるよ」
でもね、と龍之介は言葉を続ける。
「そこまでして自分を守ってくれた、っていうのはかなり心を揺らすと思う」
「そう聞くと、まるで騎士みたいだな」
「そうだね。でも、同時に申し訳なくなるものだよ」
「……そうだな」
外側からの見え方を考えれば、龍之介の言葉には納得するしかなかった。
「二人はそんなふうになるほど書道が好きなんだね」
その押さえた口調を、自分はそれが叶わなかったと感じるのはただのうがちであろうか。
好きでなくなった瞬間がきっとあったのだろう。そう感じるのは、自分だってその瞬間にまるで心当たりがないからではない。折れるか折れないかの差だ。
「……騒ぎにならないといいね」
「部活ダメになりますか?」
言われて初めて気づく。問題行動だ。処分が下ってもおかしくない。いくら自業自得とはいえ、文から書道を取り上げるのは気が引けた。
「悪くても一週間ほどの謹慎で済むんじゃないかな」
それを口にしたのは、今まで傍観を貫いていた莉乃だ。そして、それは生徒会長の言葉でもある。現実味は強かった。
「一週間か」
「期日、過ぎちゃいますね」
当然、謹慎処分中に勧誘なんてできない。廃部が決定したも同然だ。
別に構わないと思っていたし、今になっても腹の底から抵抗するような心持ちはない。ただ、文と文字を書く時間をなくすのかと思うと、惜しくはあった。
あの清澄な空間を共有する。それは少しでも理想に近付けるような。同じ場所に立っているかのような、誇らしさがあった。惜しまずにはいられないものだ。
「手はあるわ」
すっかり諦めモードになっていた俺たちに莉乃が言う。それは期日の便宜を図ってくれるということか。
俺たちの視線を一身に受けた莉乃は、微苦笑してから口を開いた。
「私が入部するの」
「それは……」
破格だ。
予想外の申し出に唖然としてしまう。それは龍之介も千秋も同じだった。すぐに復帰したのは龍之介で、はくりと唇を震わせる。
「ありがたいですけど、待遇がよすぎませんか? 生徒会との両立を考えたら、大変だと思いますけど」
「期日を延期するための応急措置だと思ってもらえばいいと思うけど? 瀬尾君は漫研の代表よね? 生徒会との両立と同じようなものでしょう? 同じことなら私に不可だとは思わないわ」
龍之介が代表だとは初耳だ。目を瞬くと、龍之介はこちらを一瞥して苦笑した。
どうして莉乃が知っているのかとも思ったが、代表なら生徒会とやり取りすることもあるだろうと気がつく。部活動の集会に同好会は呼ばれないので、俺は知らなかったのだ。
「会長が入ってくれるなら、延長ではなくないですか? 達成では?」
きょとりと首を傾げる千秋に、莉乃は緩く首を振った。
「三年生が部活動をするのは夏までだもの」
「あ」
「それまでに部員が増えていなきゃ、二学期の部会には廃部になると思ってね」
言葉が浸透する時間が必要だったのだろう。わずかならラグを置いてから、千秋の顔が明るくなった。
「時間、たっぷりですね!」
跳ねるような声に龍之介が頷く。
「南野君も勧誘に力を貸してくれるんだし、すぐだよ」
「俺にそんなツテはない」
「墨田さんよりは成功率が高そうだってこと。墨田さん、喜ぶだろうね」
目を細めて文を見下ろす龍之介に返事はしなかった。
文の反応なんて分かりきっている。また、とんでもないテンションで歩み始めるだろう。それを思うと、もう少しの間しおらしくなっていればいいと願わずにはいられなかった。
やはり、肯定をしたのは早計だったのではあるまいか。
「パフォーマンスも楽しみですね」
それこそ本当に相槌をなくした。
俺は考えると言ったが、文が歪んで受け取っていることは大いにある。千秋が前向きであるならば、加速してやかましいこともありえる。仲間を見つけると馬鹿みたいに強くなるのだ。
深いため息が零れそうになった。その一端くらいは零れ落ちていたかもしれない。
「パフォーマンスは分からないし、書道も初心だけれど、それでもいいなら、この手は使えるわ」
「パフォーマンスは分からなくても構わないですよ」
「南野君、考えるって言ってなかった?」
苦い顔で指摘した龍之介に肩を竦める。
「考えるのとやるのは違う」
「あの状況でよくどうとでも取れる冷静な言い方したなぁ」
苦々しい言いざまをされると、まるでこちらが狡知であるように聞こえた。
「今、活動内容はいいだろ」
逃げたのは、丸わかりだったはずだ。それでも、誰かが食い下がってくるほどではなかった。文が眠っていて助かっただろう。起きていれば、絶対に譲らなかったはずだ。
「それじゃあ、この方法をとるということでいいかしら?」
「はい」
「お願いします」
「一緒に頑張りましょう、会長サン」
頭を下げた俺たちに、莉乃は微笑で頷いた。
大きな問題に目処がついて、力が抜ける。莉乃は入部届を出すことを約束して、生徒会室へと戻っていった。
入れ違いになるように、秋生が戻ってくる。どうやら道中で莉乃と鉢合わせたらしく、状況は知っていた。そして、莉乃の処分予想は見事的中したようだ。
そのつもりで莉乃と打ち合わせていたために取り乱すこともない。文が起きていれば状況は変わっただろうが、文はぐっすりと夢の中だった。
あまりにも起きないので、龍之介と千秋には先に帰ってもらう。部室の片付けもお願いして、荷物を持ってきてもらい、俺は秋生と一緒に文を送って帰ることになった。
秋生が一人で行けばいい。そう告げたが、JKと二人きりであらぬ誤解が生まれれば路頭に迷う。そんなふうなことを決死の表情で訴えられれば、無下にはできない。それに、車で送っていってくれるというのだ。断る理由はあまりなかった。
秋生が文をおんぶしてついていく後ろをついていく。たっぱがある秋生に小柄な文を抱えるのは楽勝らしい。自分が運べればなんて思いはしないので構わないが、さまになっているのには腹立たしさが混ざる。
これは昔なじみがすっかり大人になったことへのものだろう。いつだって兄だったが、こうした些細なことが攻撃力を持っていた。
後部座席に文を横たわらせて、俺は助手席に座る。秋生はいつか乗り合わせたときよりも手堅く出発した。
「よく寝てるな」
文はちっとも起きない。よほど疲弊したのだろう。いつものほうがよっぽど体力を消費しているように思えるが、違ったらしい。泣く前も活発に動いていたのだから、単一を理由にすることはできないかもしれないが。
「怪我はどうだ?」
前方を向いたままの視線が、一瞬だけ手首を撫でた。その口調はいくらか低いので、真面目に心配しているようだ。
秋生もまた、俺たちと同じように書を中心に生きている男だった。
「痛みはないし、使わなきゃ平気だ」
「両利きでよかったな」
「うん」
俺は本来、左利きだ。書道をやるときに右を勧められたので、そう始めたらあっさり慣れた。
矯正されただなんて思っていない。幼少期からなので、俺にとっては普通のことだ。それがこんなに優位に働く日が来るとは思わなかった。どうせなら、左を捻ってしまったほうが気は楽だったかもしれない。
ちらりと後ろを見やれば、それは少し強めに思う。左手だったなら、文はここまで動揺しなかっただろう。
俺も日常生活が苦しいほうがまだマシだ。筆を持てないことに沈んでいるのは変わらない。
文の家はマンションだった。秋生が先に一人で顔を出してくるという。
ほんの少しの間、文と二人で留守番になった。文はすやすやと寝息を立てるばかりだ。目元のハンカチは、車に運ぶ際に外されている。赤みは多少抑えられたであろうか。日頃どんな色をしていたかまで明確に覚えてはいない。
俺はそんなに人の顔を見ていなかっただろうか。言動に振り回され過ぎて文の顔を見ていないだけのような気もするし、他の誰であっても同じであるような気もした。
そうこうしているうちに、秋生が戻ってくる。中年の男性と一緒だ。文の父親だろう。身が引き締まって、背筋が伸びた。挨拶すべきか否かと迷っているうちに、秋生が文を親父さんへと渡す。俺は会釈する機会しかなかった。
事情は概ね伝わっているらしく、手早く解散するらしい。俺もそのまま連れて帰された。秋生は何かあれば病院に行くように言いつけて帰っていく。
一人になると、じわっと困苦が湧き上がった。後悔しているわけじゃない。だが、やってしまった、と静かに思った。
翌日になっても、手首の違和感は残っていたが、あくまでちょっとした違和感なのが困りものだ。生活に難はないものだから、余計にである。
早くよくならないか、とたった一晩で思いながら登校して、校門が見えたところで逃げ出したくなった。病院に行くことにしてしまおう。回れ右だ、と半ば実行に移す決意をする。しかし、その足を踏み出すよりも先に、逃げ出したい相手に捕捉された。
「南!!」
登校中の生徒が一斉に視線を巡らす大音声に顔が引き攣る。
昨日にしおらしさを置いてきたらしい文が、ダッシュでこちらにやってきた。注目される気恥ずかしさやら、正面に突っ込んでくる文の恐ろしさやらで、確実に一、二歩後ずさった。
上機嫌な文が俺の眼前で立ち止まる。そのまま抱きつかれずに済んだことにゆとりを持ってしまった俺は、かなり毒されていた。
「南! 荷物、貸して?」
「……はい?」
まるで意味が分からない申し出に戸惑っているのをよそに、文の手が俺の鞄を掴む。
「いや、なんだよ」
そのまま持っていかれちゃたまらない。力を込めて引き止めると、文のほうでも力がこもった。
「手が使えないと色々大変でしょ? 任せて!! あたしがきっちり面倒見てあげるから」
「いや……」
「ほら、貸して。行くよ、南!!」
弁明に耳は貸してもらえず、力尽くで鞄が奪われていく。相変わらず勢いが凄まじい。反省しているからこその行動だろうが、だとしたらおとなしくいてくれないものか。
残念ながら、俺の願いは聞き入れられることはなく、怪我が治るまでの間。俺は文にまとわりつかれた。
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