書に交われば黒くなる

めぐむ

第一筆

墨飛び交うも多生の縁①

 白と黒のコントラストが網膜を焼く。

 輝くような白い下地に、揺蕩うような黒の曲線美。衣擦れの物音と、薄く開かれた唇から零れ落ちる呼吸音。それ以外のすべてが遠のいて、何もかもが彼方に追いやられた。

 目映い白と黒が部屋中を埋め尽くす。その空気に飲み込まれて、縫い付けられたように動けない。

 理想の存在を凝視する。それを手に入れたいという渇望が、心の中に渦巻いて止まらない。呼吸も瞬きも忘れて陶然とした数分。俺は花に吸い寄せられる虫のように、ふらふらと足を踏み出した。

 とんと響いた足音に、理想の存在が振り返る。その彼女が手を滑らせて、手にしていたボウルから黒い液体が飛び散った。


「ぎゃあああ」


 今まで保っていたお淑やかな外見とかけ離れた、猫の発情期のような悲鳴がとどろく。

 強烈な墨の香りがした。




「ごめん! 本当にごめん!!」


 放課後の書道室で、俺の登場に驚いて墨をぶちまけた少女が、こちらに向かって頭を下げる。

 俺は頭から墨をかぶって、制服の白いワイシャツまでもが黒染めされてしまった。口を開けば口内にまで墨に侵食されそうで、返事もしがたい。彼女もそれに気がついているのか。こちらの返事を聞くまでもなく、わたわたと言葉を重ね始めた。


「タオル! タオルいるよね? 手を拭いただけだから、どーぞ使って。あ、着替え? 着替えがいる? 髪もまずいよね。まずは洗うほうが先かな? シャンプー! シャンプーあるよ。ジャージも使って」


 言葉の慌ただしさと同じような気忙しさで、彼女は自分のかばんの中から青いジャージとシャンプーを取り出してくる。

 トラベル用などではない。リンスインシャンプーの通常ボトルがどかんと出てきた。学校でそう起こらない現象に呆然としている間に、彼女は俺の前に戻ってきて荷物をこちらに差し出してくる。


「髪の毛はごわごわになると本当に大変だよ! あたしもよくやるから分かるんだ。遠慮しなくていいから、どうぞ使って!」

「いや……」


 シャンプーの辞退を訴えたが、彼女には通じなかったようだ。

 発言を無視されて、書道室の後部に設置されている流し台に連れていかれてしまった。シャンプーを手に握らされる。

 彼女はこれで問題がないとばかりに破顔した。

 撥ね除けてしまいたかったが、このままも困る。シャンプーは別にしても、墨は洗い流したい。俺はシャンプーを置いてから蛇口を捻って、顔を洗った。ぬるりとした墨の感触が指にまとわりつく。

 黒髪に黒い墨では、見た目ではどれほどのものなのか分からない。もみあげ辺りの髪しか目視はできない長さなので、どっちにしても分からなかっただろうが。

 そのまま頭を蛇口の下に潜らせると、流れている水が黒く染まった。どうやら彼女がしきりに急かすには、それなりの理由があったようだ。

 彼女がじっと様子を見ているのが分かって、俺はしょうがなしにシャンプーのボトルをプッシュした。便利なものがあるのだから、利用しない手はない。

 書道室の片隅で何をしているのだろう、と陰々滅々とした気持ちにはなる。理想に出会って舞い上がっていた心が沈殿していった。

 しばらくして、水が透明になったことに一息ついて、泡を洗い流す。髪は手で絞るしかない状態に気がついて、更にげんなりした。

 そうして格闘しているところに、


「これ、使って」


 と布が手に触れさせられた。変わった子だが、心配してくれているのは本当らしい。


「すまん。ありがとう」


 受け取ったタオルで顔を拭ってから髪を掻き上げた。肩にタオルをかけて、息を吐き出す。さっぱりはしたが、気持ちが回復することはなかった。その視界の中に、彼女がジャージを掲げてくる。


「……なんだ?」

「着替えたほうがいいでしょ?」


 いい提案とばかりに告げられて、頭痛がした。額を押さえるのを抑えきれなかったくらいだ。

 恥じらいがないのか。女子高生のジャージを借りようという気などまったくない。それに、彼女と俺では体格差がありすぎて、着替えとして使えないだろう。胸辺りに頭がある身長差を考えれば、無謀さは察するにあまりある。

 こちらは一瞬で色んなことに思い至って動乱しているというのに、彼女はあまりにも自然体だ。こちらのほうがおかしいのではないかという錯覚に陥りそうになる。

 いや、この子の感性がおかしい。


「自分のがあるから、大丈夫だ」

「そっか、だったら急いだほうが……手伝う?」

「結構だ! むこうを向いていてくれ」

「あたし、気にしないよ?」

「俺が気にするんだ」


 痴女なのか、この女は。

 日射しが差し込む窓辺で書をしたためていたお淑やかさは影も形もなくなっていた。理想に魅せられていた分、襲いくるギャップに心が抉られる。異様な徒労感にまとわりつかれながら、素早くジャージに着替えた。


「もういいぞ」


 逐一報告しなければならないものか。どうしてこうなったのか。うんざりとしてきていたが、こちらに向き直った彼女はぺこりと頭を下げた。


「本当にごめんね」


 突拍子もないことばかりを言うものだから、厄介な印象が強まっていた。しかし、気に病んでいるのは本物らしい。しおらしい謝罪には、こちらのほうが間が悪くなった。彼女が墨をぶちまけた原因は、俺にあるのだ。


「……こちらこそ、邪魔して悪かった。せっかくのものを台無しにしてしまったな」


 改めて、彼女の書に目を向ける。今や黒く塗り潰されて、その流麗な文字を見ることは叶わない。美しいものを穢してしまった無念さに胸が引き絞られる。わずかに残る筆跡に目をこらすべく、跪いて紙に触れた。

 和紙を彩っていた黒の飾りが愛おしい。俺の理想。彼女への罪悪感が強まった。


「すまない」


 繰り返し零れた謝罪に、彼女が隣に腰を下ろしてくる。そちらに目を向けると、彼女は緩く微笑んでいた。そうしていれば奥ゆかしい文学少女で、妙なことを口走っていた子と同一人物には見えない。


「練習だから気にしないでいいよ」


 さらりと告げられる言葉に胸が詰まった。それは優しさに感動したわけではない。

 目が惹かれて仕方のなかった。我を忘れるような書を、軽やかに練習という彼女の実力が迫る。呼吸を忘れそうになった。ほの暗く湧き上がり、胸を詰まらせる何かを見ないように意識を逸らす。


「感謝する」

「堅いなぁ、もう」

「君は……」


 何を続けようとしていたかは、自分でも判然としない。しかし、その無自覚な発言を遮るかのように彼女が声を上げた。


「あ! あたしね、書道部に入りたいの。書道パフォーマンスがやりたくて! あなたは部員さん? 部長さんに挨拶したいんだけど」

「俺だ」

「あれ? 同級じゃないの?」


 彼女の瞳が、俺の姿と自分のジャージを行き来する。学年で色の揃えられているジャージは、同じ二年生の青色だ。


「先輩はいない」

「そうなんだ! あたし今日から入部するからよろしくね。墨田文すみだふみ

「墨田……」

「何?」

「……墨をぶちまけるために生まれてきたような名だなと」

「ちょっと?! ひどくない!?」


 むっと唇を尖らせる文の表情は幼い。集中していた大人びた姿は幻だっただろうか。


「それで? 部長さんのお名前は?」


 膨れていたくせに、すぐに次の発言に移る。マイペースだ。この場合、気持ちを引きずらないのはいいことなのだろうけれど。


南野学みなみのがくだ」

「南!」

「南野でいい」

「いいじゃん。南! あたし、南って好きなの」


 何のてらいもなく投げられた言葉に被弾する。他意がないことは明白だ。文字のことだと、ごく自然に理解していた。それでも、その直截さには慄かざるを得ない。

 文は俺の衝撃など知る由もなく、宙に指を走らせる。そこに線が見えるわけもない。細くて白い人差し指が踊るように動くだけだ。

 けれども俺は、その姿から目を離すことができなかった。自分の名。ただの南。実体のない線。そんなものは遙か彼方に置き去りにされた。

 文が文字を描く。その姿は神聖なものであり、他の何も意識に上らない。心酔している間に、文の指の動きが止まる。こちらを向いた文が、からりと笑った。


「いいよね? 南」

「あ、ああ」


 何も考えずに、反射で頷いていた。それが文字の善し悪しなのか。呼び方の確認なのか。その判断すらもできていなかった。


「あたしのことは文でいいからね!」


 やはり呼び方のほうだったか。勢いに飲まれたことは失態だ。勝手に決められてしまった。こっちは自由に呼ばせてもらう。


「墨田は何で今日から?」


 文は不満たっぷりの顔をしていた。

 俺は知らん顔で和紙に目を向ける。取り合うつもりがないと分かると、すぐに諦めたようだ。切り替えが早いのはありがたい。それがギャップを生み出している気もするが。


「転入生なの! 二年B組の転入生、書道パフェーマンスを企む文ちゃんですよ」


 ぱちんとウインクして主張する。お茶目さはとびっきりだったが、どうにもテンションが高過ぎた。どうしても名前を呼んでほしいらしい。


「そうかよ」

「もう! ノリが悪いよ、南」


 ぷくりと膨らまされた頬は柔らかそうだ。俺が引き続き取り合わないでいると、業を煮やしたように横から肩にぶつかって不満を訴えてきた。肉体言語は勘弁して欲しい。何より、第一印象との乖離がこの上ない。非常に失礼ながら、残念な子だと思わずにはいられなかった。

 少なくとも、俺にとって書をしたためている文の姿は、それほどまでに魅力的だったのだ。理想の文字を書くものは、それほどのものだった。

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