墨飛び交うも多生の縁②
「いいから、後片付けをするぞ」
これ以上、不毛なやり取りはしていられない。話題をすり替えた俺に、文ははっと足元を見下ろした。二つ連ねて利用している下敷きが、ぐっしょりと湿っていた。
「どうしよう」
今更ながら、焦燥感が芽生えたらしい。顔色が青くなる。ここまで顕著に変わる表情には、いっそ感心した。
「ベランダに出すか」
「それだけで平気じゃないよね?」
「とりあえず、和紙で墨を吸うしかないな」
「だよね」
こくんと頷いた文が、書き損じになってしまった書を容赦なく利用しようとする。当然、捨てるしかないものだ。しかし、惜しい気持ちが幅を利かせた。
なんてもったいないことをさせてしまっているのだろうか。
手が止まってしまっている俺をよそに、文はどんどん墨を吸い込んでいる。脳は手伝うべきだと信号を出しているのに、身体が言うことをきかない。我ながら、理想への執着心に引いてしまった。
「南? どうかした?」
フリーズしていた俺に痺れを切らしたのか。不審を尋ねられて気まずくなる。
「いや……」
「もー! 気にしなくていいって言ったのに」
まごついた理由をさも当然のように察せられて、気まずさに拍車がかかった。文は苦笑いだ。ここまでのあっけらかんとした態度からすると、珍しく映った。
「そんなに気になるなら、南の書くところを見せてよ」
「そんなことでいいのか」
部員になるのなら、これからいくらだって見る機会は訪れる。交換条件としては別格だ。それだというのに、文はそれが法外に嬉しいとばかりに笑顔を弾けさせた。
「書いてくれるの!?」
ぐいっと腕を引っ張られて泡を食う。下から覗き込むように見上げてくる顔が、あまりにも近い。思わず身を引いて、肩を押してしまった。
「書く。書くから落ち着け」
腕は離されたが、落ち着けという言葉は耳に入っていないかのようだ。両手が胸の前で組まれ、うっとりと見上げられる。赤く上気した頬に、薄紅色の唇。至近距離に我慢ができなくなって立ち上がった。
「ぞうきん」
持ってくるから、と逃げようとしたジャージの背中を摘ままれる。やむを得ず振り向けば、視界の中に眩しい笑顔が映り込んできた。その輝度にたじろぐ。
「そんなのいいから書いて」
「いいからって……後片付けがあるだろ」
「いいの! あたしがやってるから準備してて。できたら呼んで。ほら、早く」
言葉通り。待ちきれないとばかりに荷物のほうへと俺の身体を押し出した。
「そんなに慌てなくたって」
「見たいの」
遮るかのようにかぶりつかれて息を飲む。
自分の理想が自分の字を熱心に求めてくる。その満ちるような心は息苦しい。嬉しいのと、幻滅されたくないのとで心が撹拌される。ストレートな熱量から逃れることはできなかった。
「分かった」
と頷けば、文は今までにないほど瑞々しく笑うのだ。
その書に対する貪欲さを取り零すことのできない自分がいた。好ましいと思ってしまったら、とてもじゃないが反抗心など消えてしまう。
文の威勢に押し出されるかのように、書く準備を始めた。文がどたばたと片付けに奮起しているのが物音で分かる。先ほどまでが、のろかったわけじゃない。だが、あからさまなスピードアップは面映ゆかった。
俺は息を落ち着けて墨をする。ここから始めて書き始めるころには集中するのが俺のルーティーンだ。少しずつ、物音を拾う聴力が落ちていく。この瞬間が心地良い。湖のような静けさに沈んでいった。
このまま筆を執れるかというタイミングで、そのしじまは破られる。
「ぎゃっ!?」
少しも可愛らさはない。黄色くもない悲鳴が上がって、手を止めて振り返った。
文は下敷きに巻き込まれるように倒れ込んでいる。小柄な体格では、持ち上げるに色々と足りなかったらしい。やってしまったとばかりの照れ笑いを浮かべていた。
照れてる場合か。零れそうになる大息をどうにか飲み込んで、文の元へ向かう。手を差し出すと、にぱっと笑って握られた。白くて柔らかい手は墨で汚れている。それを厭わない心意気に心臓を掴まれた。
握り込まれた手を引いて引き上げる。勢いをつけすぎたのだろう。胸元に倒れ込んでくる身体を、空いた手で肩を掴まえて支えた。自分の胸の中に楽々収まる小柄さに動揺する。文の空いた手が、ジャージの胸元を握っていた。
「ありがとう」
えへへと無邪気に微笑まれると、突き放すこともできない。硬直してしまった俺に
「南?」
と文の声が一段と近付いてくる。
距離感、おかしいだろ。声を上げたかったが、意識していると公言するようでそれもできない。自分の耐性のなさに、頭を抱えたくなった。
「なんでもない。平気か?」
「うん。ちょっと躓いただけ。いけると思ったんだけどなぁ」
「小さいからな」
「失敬な」
ふんと鼻を鳴らして抗議されても恐ろしくはない。小動物の威嚇のようなものだ。
「下敷きの長さより低いんだから無理するなよ」
「そこまでじゃないもん!」
きゃんきゃん吠えるのはまるで小型犬だった。
胸の中ですっかり気を許したような態度を取られて進退窮まる。人とこんなにも早急に距離を詰めたのは初めての経験だった。
頭頂部を見下ろして二の足を踏む。そろそろ離すべきだと頭では分かっていたが、文が動き出さないことには動けそうにもなかった。こんな小さな生き物を突き放すことは、怖くてもっとできない。
実際には身動きひとつできなかったが、心の中はじたばたと暴れ狂っていた。誰かに状況を打破して欲しいと願ったのは嘘じゃない。だが、それは実際に起こらないだろうと高をくくっているからこその戯れ言だった。
がちゃりと書道室の扉が開いて、俺は心臓を飛び跳ねさせる。
入ってきたのは、書道部顧問の
「彼女を連れてくるなんてどうしたんだ? 学」
「そんなことするか!」
からかう口調に渋味が広がった。
「その体勢で言われても説得力の欠片もないぞ」
「墨田。もう平気だろ。離れろ」
「慌てちゃって可愛いね、南」
「いいから離れろ」
自分もからかいの的に入っていることも意に介さずに、文はのんびりとしていた。ここまできても俺からは突き放せないのだから、臆病もいいところだろう。
文はしょうがないなぁとばかりの顔で離れていく。何で妥協してやっているみたいな態度を取られなきゃならないんだ。釈然としない。
「それで? 何やってたんだ」
「墨をこぼしてしまいまして」
「すごい匂いだと思っていたらそういうことか」
「ごめんなさい」
「被害は?」
「主に俺だよ」
渋い声を出すと、秋生の瞳が俺の身体を撫でていった。ジャージ姿にたった今気がついたように納得を見せる。柔軟な発想力は上等だが、納得されるのはされるので気が沈んだ。
「墨田さんは無事だったの?」
「手だけです」
「秋ちゃんは墨田のこと知ってたのか」
何の抵抗もなく話し始めた二人を見比べる。秋生は苦笑いになった。
「秋ちゃんはやめろって」
「秋ちゃん先生の発信源って南なの? 二人は仲良しさん??」
文の視線が、俺と秋生の間を往復する。両側から関係を聞かれた秋生は、にこりと笑ってそつなく答えた。
「墨田さんは入部届を持ってきたからね。今日からいるとは思わなかったけど、来るのは分かってたよ。学とは昔なじみなんだ。小さいころから知っている」
「小さい南!」
格好のネタを見つけたとばかりに瞳を輝かせる。キラキラとした光を背に抱えて、秋生に歩み寄った。
「今よりずっと可愛かったよ」
「余計なことは言わなくていい」
「楽しいことは余計じゃないよ、南」
「君はただ好奇心を満たしたいだけだろう」
「楽しいからいいでしょ?」
「自分本位、甚だしいな」
「南に興味があるんだもん」
突然の関心に、息を止める。何の意味もないのは分かっている。文は屈託ない。だが、言われるほうは驚きを隠せないものだ。
衝撃を与えたとは露ほど思っていない文は、きょとりと首を傾ぐ。状況を察したらしい秋生が、思いきり吹き出した。
睨みつけると、ニヤニヤと頬を緩めている。年上の昔なじみほど厄介な存在はいない。年下の男をからかうのを使命とでも思っているのではあるまいか。
「学は照れてるんだよ」
「秋ちゃん」
本当に余計なことだ。押しとどめるように呼ぶと、秋生は肩を竦めた。
文が秋生に向かっていた勢いでことらへ戻ってくる。額を手で押すように留めると、文は対抗するように突進を試みてきた。
互いに譲るつもりはないので、力が拮抗する。半ば睨み合う俺たちの様子を秋生がニヤニヤ見ているのは、見なくても分かった。分かっていたが、手を退ければ文が激突してくるのは必至だ。そんな攻撃を受けたくはないので、秋生の視線くらいは甘んじて受け入れた。
「珍しく打ち解けてるな、学」
「秋ちゃんの目は節穴なのか?」
「目は悪くないぞ」
「これをどう見たら打ち解けているという発想になるんだ。どう見ても手を焼いているだろ」
「学は興味のないやつに焼く手を出すこともない」
俺のことをよく知っていることを隠しもしない様子で語る。あながち間違っちゃいないが、向こうの距離感がバグっているだけでこちらが打ち解けているつもりは一切ない。
だというのに、秋生の言葉を真に受けた文の勢いが増した。油断であって、本気で力負けしているとは思いたくない。思いたくないが、あっさりと体当たりをぶちかまされた。
「ごっほっ」
もはや、アタックであるそれに胸元を押しつぶされた。下手をすればみぞおちに頭突きをかまされるところで、ひやっとする。呻く俺などお構いなしに、文はにこにこしていた。この野郎、小憎たらしい。
「墨をぶちまけたのに、南は優しい!」
「アタックまで食らわされて散々だ」
今度は躊躇も薄れた。こんなにも力任せに迫ってくるのだ。こちらが応じても許されるだろう。入念に言い訳を組み立てる内心に渋くなりながら、手荒く引き剥がす。
「照れなくてもいいのに!」
「呆れてるだけだ」
自重もなく深い息が零れる。終始おかしくてならないとばかりに笑いを忍ばせている秋生も相俟って、気が疲れた。
書道室は俺の安寧の地であったはずなのに。こんなうるさい女が入ってくるなんて、と展望を憂う。書いている間はよかったのだから、常にあの優雅さを携えていてくれないものか。たったの数十分で、愚痴めいた願いが蓄積されまくっていた。
「とにかく」
現状は誰かが変えてはくれはしない。むしろ侵入者によって悪化した。身をもって知った俺は、自ら声を上げる
「墨田はさっさと片付けろよ。書くのを見たかったら静かにしてくれ」
文はようやく事態を思い出したらしい。我に返ると、後片付けを再開させた。今度ばかりは、気を逸らすことに成功したようでほっとする。
こちらも放り出していた硯の元へ戻った。
秋生が置いてきぼりになって、不思議そうな顔になっている。だが、書道をするだけだ。説明するつもりもない。
代わりというわけではないだろうが、放置されていた秋生を文が呼んだ。
「先生、下敷き持つの手伝ってください」
「どうするんだ?」
「干します」
「ベランダ?」
「そうですね」
秋生と文が移動している物音を聞きながら、半紙と文鎮をセットしていく。もういつでも書く準備は整った。元々、かなり整っていたのだ。途切れてしまった集中力を取り戻すために、気を落ち着ける。
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