墨飛び交うも多生の縁③

 背を伸ばして席に着いた。深呼吸して、道具を見つめる。それだけで自分のペースを取り戻せるような気がした。文にぶん回されていた心が元の位置に戻る。後は書くだけだ。経過も見せなければならぬのだろうかと思いながら、筆を執る。

 幾ばくかの思考の間に、文は眼前にやってきていた。その物静かな面差しに、息が詰まる。

 静かにしろと言った俺の言葉を守っているわけではないだろう。きっと、文が書に向き合うときの顔はこれなのだ。

 目を奪われたそれが、目の前にあることに焦がれる。一寸の隙もなく書道に心を注ぐような瞳は、澄み渡っていて言葉も出ない。言葉はいらなかった。

 筆を墨に浸して整える。白紙に目を落として、そこに黒線をイメージする。白と黒だけの世界。そこに埋没していく。もう物音は耳に入らない。ただ、同じだけ世界に沈む文の目線だけは感じ取っていた。

 いつもするように、ウォーミングアップのための熟語を書く。そこに規則性はない。思いついた文字を書いていた。今日もまた、頭に浮かんだものを出力していく。東西南北を思い浮かべたのは、文が南がどうだのとうるさかったからかもしれない。

 染みひとつない世界に、黒の軌跡を生み出す。この快感を知ってしまったら抜け出せない。こたつのように魅惑的な力がある。そこに潜り込んで、閉じこもる。永遠のようで一瞬の時間。

 その世界に後ろ髪を引かれながら、筆を引き上げる。

 最後の一本を書き終えて筆が離れる瞬間に、俺はどぷんと現実世界に浮かび上がった。詰めていた息がふっと外に飛び出す。その音が二重に聞こえて、眼前の文が改めて目に入った。

 同じように息を吐いて戻ってきた文が、脇目も振らずに書を見つめている。艶めいた黒い瞳は動かない。はたしてどのようなジャッジが下されるのか。喉から手が出るほど欲しい。そんな文字を書く文は、俺の字に何を思っているのか。

 集中に立ち去っていた緊張が、一瞬で溢れ返ってくる。ドキドキと跳ね上がる心拍数は、どんな賞の結果を聞くときよりも速い。

 どのくらいの時間が経っていたのか。文がゆっくりと目を瞬く。それから、とろりと黒が溶け出した。


「綺麗」


 ほわりと熱に浮かされた声に、体温が急上昇する。


「素敵。好きだよ、南」


 心臓が肋骨から飛び出しそうになった。消しきれない震撼に、心臓どころか身体中のすべてが痛む。意図を取り違えたりはしていない。真実、文字を褒められていると認識している。

 しかし、俺にとっては他の何にも代えがたい告白であった。身体中を駆け回る喜悦を持て余す。


「これ、くれる?」

「待て。練習だから」

「でも、欲しい。これちょうだい」


 駄々を捏ねるように求められて、胸が疼いた。


「いいでしょ? 南。お願い」


 甘ったるい声が鼓膜を犯す。


「……分かったから、代わりに墨田も書いてくれないか?」

「いいよ! 今書く?」


 二つ返事が心地良い。


「ちょっと待った」


 すぐさま頷きそうになったところに、秋生のストップが入って不服さが生まれる。


「話があったんだよ。このままじゃ二人とも書き続けるだろ」


 不服さは消えやしないけれど、秋生の見込みを否定もできない。

 一枚を書き上げるわずかな時間。その時間を共有しただけだ。それで文のことを分かったかのように思うのは傲慢であろう。だが、秋生の目は正しいと思えた。

 文も同意見なのだろう。不服さを滲ませながらも、素直に秋生を見上げていた。


「昨年度も鈴鹿会長に警告を受けたと思うけど、廃部の危機だってのは分かってるよな?」

「廃部!?」


 うちの学校はそれなりに部活が盛んだ。部員数が五名を下回れば、すぐに廃部を告げられる。昨年度、三年の先輩が引退する際に鈴鹿会長に業務連絡として受け取っていた。新入部員が入らなければ、と条件も聞いている。

 文がそんな事情を知るわけもない。度を失って、ずいと秋生に迫った。


「そんなの困りますよ! あたしはパフォーマンスをするんですから!」


 声高な言い分に、秋生の顔が曇る。

 そういえば、自己紹介でそんなことを言っていたような気がする。無関係なことだと受け流していた。


「それは難しいんじゃないのかな」

「そんな!! なんでですか」


 ヒートアップする文に、秋生の顔色はますます悪くなった。人がいい教師は、決定的なことを告げるのを尻込みしているらしい。


「俺しかいないからな」

「え……!」


 ぽかんとこちらを向いた文の顔が歪む。


「部長ひとり!?」

「そう」

「廃部の危機ってそういうこと!?」

「そうだな」

「なんでそんなに落ち着いてるの! 部員を集めよう。そうしよう! そして、パフォーマンスをするんだよ」

「しないよ」

「廃部は困るでしょ!」


 正直に言えば、そこまで必死になるようなことではない。

 書くにあたって、書道室を使えることの利点は大きかった。しかし、俺の家では祖父が書道教室を営んでいる。場所に逼迫しているわけではない。

 その緩い余裕が、文のテンションに油を注いだようだ。


「困るよ! あたしの楽しみがなくなっちゃうじゃん」


 こっちの反応を無視して言い立てられても、扱いに困る。渋面をしていると、文の顔が泣き出しそうに顰められた。


「まぁまぁ、落ち着いて。実際、学だってここが使えるに越したことはないだろ?」


 まったく余計なことだ。

 場所はある。ここの確保は絶対的な望みではない。しかし、秋生の言う通り、あれば最善ではあるのだ。

 書道教室には子どもから大人まで、多くの人間が出入りしている。人が多い。一人静かに書く。それを叶える場所としては、この書道室はこれ以上ない好環境だった。秋生はうちの書道教室に通っていた生徒だ。俺の細やかな事情を知り尽くしている。

 だからこその発言だろうが、それは文を調子づけてしまうガソリンでしかなかった。


「そうなの?」


 キラキラを通り越してギラギラ。小動物のような図体で、凶暴な肉食動物が獲物を狙うかのごとき目つきだ。


「南も困る?」


 ぐいぐい来られて、額を押さえつけた。この勢いから、そして書道室の快適さを求める気持ちからも逃れられそうにない。まぁ、これを諌める面倒くささもあって、小さく頷いた。


「多少は」

「秋ちゃん先生、廃部を逃れるには何人いるの?」

「最低五人だよ」

「あと三人! 探そうよ、南! 書道が好きな友達増やして、廃部を回避して、そしてパフォーマンスをするんだよ」

「……パフォーマンスは拒否するからな」

「なんで!?」

「俺は一人でいいんだよ」

「みんなでやるのもきっと楽しいよ。あたしと一緒にやるの!」


 それは強く惹きつけられる話だ。息を飲み込んだ俺に、秋生が笑っていた。


「とりあえず、今はいいだろ。部員が揃わなきゃ終わりだ」

「そうだね。仲間が増えれば南もその気になるかもしれないしね」

「しつこいぞ」

「諦めないもん」


 悪魔のような宣言だ。嫌な予感がひしひしとした。


「じゃあ、部員集め頑張ってな」

「任せて、先生! 書道部の名を知らしめて勧誘してくるから」

「無茶はしないように頼むよ」

「心配無用ですよ」


 心配しかなかった。秋生も同じく危惧を抱いたのだろう。弱り顔を見せる。なんとも頼りない。そこは顧問として、部員の手綱をしっかり握っておいて欲しいところだ。

 気合いが入りまくった文は、部員獲得のための作戦をぶつぶつ呟き始めた。

 チラシがどうの、という思考はベタである。物騒でないことには安堵したが、勧誘の手口としてはベタ過ぎて効果も怪しい。だが、口出しすれば引っ張り回されることは確定的だ。俺は関知しないことに決めた。

 おかげで文に文字を書いてもらうことが叶わなかったことだけが、その日の心残りだった。

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