第四筆
書の道①
パフォーマンスをやると決めて申請書を出したはいいが、問題は山積みだった。
やり方から調べる必要があるというのも無論、初心者が二人もいるのだ。
しかも一人は、日本語を母国語としていない。癖がない分、正しく覚えれば伸びしろはあるかもしれないが、覚えることが多すぎた。
ひらがな、カタカナ。常用漢字だけでもおよそ二千はある。書道となれば、常用でないものも出てくるし、書体もさまざまでくずし字まである。初めから覚える必要はないとはいえ、基礎がないというのはハードルが上がった。
文化祭までは一ヶ月と少し。時間的猶予もない。
そのうえ、引っ張っているのは行き当たりばったりの化身といっても過言ではない文だ。時間の使い方が上手いとは思えない。
いくら調整に一家言がありそうな莉乃がいるからといって、上手くはいかないだろう。何より、莉乃も初心者で、他の仕事を任せておくには時間が足りない。
龍之介に練習の手本を任せてしまいたい気持ちがあったが、重要すぎるポストは与えられなかった。漫研の代表なのだ。文化祭にはポスター展示を考えているらしいので、すべての時間をこちらに回してもらうわけにもいかない。
では、顧問であるのだから秋生に、というほど簡単なことではなかった。そもそも教師は忙しい。部活中のすべての時間に付き合うことは困難だ。文化祭の後には、テストも控えている。
生徒ですら勘弁してくれと思っているが、テストを作り、採点をし、提出物のチェックをして、と教師の立場を思えば文化祭だけに一極集中しているわけにもいかないだろう。
そのうえ、秋生には書家としての一面もある。公募展に出展する作品を頻繁に書いていた。教師との兼ね合いで、出られる大会の本数は限られる。その分、出せるところには力を入れているようだった。
今はとても忙しい時期だ。去年、文化祭の展示用に俺が書を書き殴っていたとき、秋生も一緒になって奮闘していたから間違いない。
同じく書を嗜むものだ。大会に出展する気持ちは分かっている。半ば文の我が儘で通したパフォーマンスのために切り捨てて欲しいとは、とてもじゃないが口にできなかった。
それは文も同じであるらしく、秋生に頼るつもりはないらしい。その心意気はいいが、主導と指導の問題が滑らかに進むのとは別問題だ。
こうなってくると、一歩引いた位置から巻き込まれた立場を崩さず付き合っておこうと思っていた思惑も倒れるしかない。
自分が関わらずにいれば、破綻は目に見えているのだ。失敗しそうだからといって諦めてくれればいいが、そうはいかないのは明確だった。
いくら適当な所属意識だとしても、自分が部長を努める部活だ。他の部から白い目で見られることに何も思わないほど無感情ではない。今までの無関心とはまた別の話だった。
手のひらの上で踊らされているようで、気分は冴えない。しかし、仕方がなかった。文のテンションを諌めて諦観させるよりも、こちらが諦観して手を貸すほうが遥かに容易いのだ。たとえ気が進まなくとも、遥かに。
「まずは書くのに慣れてもらわないとどうしようもないな」
部員が勢揃いした書道室で、俺が意見を上げる。
主導者であるはずの文は、ふんふん頷いているばかりだ。
「クリスさんと莉乃先輩は初心者なんですよね?」
「部活に入ってから触っただけです」
「私も授業でやったことしかないわ」
「楽しく書くことが大切だから、習うより慣れれば大丈夫だよ!」
「その具体的な慣れさせ方の話をしてるんだ」
文の論はパッションに傾く。それが文のスタイルなのは構わないが、教えるとなればそうもいかない。
俺の指摘に、文はきょとんとした。役に立たないことこの上ない。
「僕も本当に簡単な基礎くらいなら力になれると思うけど……莉乃先輩は確か字、綺麗ですよね」
「どうかな……?」
自分の字に対する評価は概ね雑感だろう。メモが読めないほど悪筆ならば自覚があるくらいだ。自分の字が嫌いという人も多いように思う。
俺ですら、自分の字に思うところはあるのだ。綺麗という評価に頷く人はそういないだろう。秋生や文ならお礼を言うかもしれないが。
書道室でのやり取りを盗み聞きしてしまってから、二人が書道に関して同じような反応をするだろうと決めつけてしまうところがある。今は関係ない、とその思考を引っぺがした。
「確かに先輩の字は見やすいですね」
生徒会長として目にしたことのある筆跡を思い返してみる。整っているところが多く、不備はあまりない。もちろん、硬筆と毛筆で同等レベルの文字が書けるとも限らないが。
しかし、元がいいというのは、今は朗報だった。
「毛筆に慣れる形でいきましょう。クリスは文字に慣れなきゃしょうがないよな」
「自分の名前を書くとか?」
「いっそパフォーマンスで書くものに一点突破させたほうがいいかもしれない」
「墨田さん、決まってるの?」
ざっと発案者に視線が集まる。文は胸を張って鼻息を鳴らした。慎ましやかな膨らみだな、などと考えたのは、まともな提案が期待できなかったからだろうか。
「せっかくなんだから、みんなで決めてこそでしょ!」
正々堂々、自信満々に言い放つ。間違ってはいない。いないだろう。だが、大息を吐くのを止められなかった。
「ノープランじゃないか」
「違うもん」
膨れ面で主張されても、他に取りようもない。意見は間違ってはいないが、こちとら具象的な案が欲しいのだ。
「書道部をアピールできるようなものにするつもりだもん。真ん中に書って書いて、周りにあたしたち五人らしい言葉を書くの」
「五人っぽい言葉?」
「一人にひとつずつ。放射状に配置するの」
「五は書きづらくないかな?」
「配置が難しそうよ」
「ワタシっぽい言葉もムズカシイです」
「自分のは難しいよね。他の人ならまだしも」
「じゃあ、他の人の分を考えることにしよーよ!」
「三日後に持ち寄るってことでどう? 考える時間が必要でしょ?」
「クリスさん、考えられそう?」
「今すぐでなければ調べられますから大丈夫です!」
「三日後に決定ね!」
まだ具体案を詰められたわけじゃない。それだと言うのに文は満足げで、再びため息が零れそうになる。そう吐き出してやるのも癪なので、ぐっと飲み込んで有意義な方向へ転がした。
「それまでは各々練習だな」
「どうすればいい?」
首を傾げた莉乃に、ほんの少し考える。先ほど思い返していた莉乃の字を思って、見通しをつけた。
「先輩は
「臨書?」
「古典をお手本に模写する、という感じです。正式には色々心構えなんかもありますけど、まずは書きましょう。文字の形をよく見て、学習してください。そうですね……」
書道室の書棚には、教材とは別に、
碑帖とは
すぐ横にやってきた文が
「
と呟いた。
蘭亭序というのは
「
「
「ちゃんと分かるんだな」
「バカにしないでよ」
「褒めてるんだよ」
やっているからって詳しいかどうかは分からない。同年代ともなれば尚のことだ。その道に進むと決めていなければ、上っ面になるだろう。それを悪いとは思わない。与えられた物事をこなすことも十分に立派なことだ。
俺がその辺に手を出しているのは、好みの問題でしかなかった。
「臨書ならちょうどいいだろ?」
「うん」
話が通じるのは心地がいい。確認を取ってから莉乃に向き直って、ページを広げたまま渡した。
「これを練習するといいと思います」
「模写すればいいのよね」
「はい。文字の形を意識して、普段の字から崩れている部分を振り返りながら腕になじませてください」
「分かったわ」
今ここで、臨書の在り方や意味を事細かに説明するつもりはない。時間もないし、莉乃も困るだろう。
「じゃあ、僕も同じようにしようかな」
言いながら、龍之介が碑帖を捲る。
「課題は何でも構わないんだよね?」
「瀬尾なら好きなものを書けばいい」
「ワタシはどうすればいいですか?」
「そうだな……」
千秋のレベルは計測不能だ。漢字はかっこいいと言うし、基本文字くらいならば書けるようになっている。
だからといって、難易度を上げすぎて苦手意識を持たれるのは本意ではない。
「永字八法は?」
悩む俺に一助をくれたのは文だった。
思ってもみない助力を見下ろす。文は、どうだ? とばかりに純粋な顔をしていた。書道について考えている間の文は、頼りにならないわけではないらしい。
ずっとこのままでいてくれれば、俺も多少は気を緩められると言うのに。叶わぬ願いは即刻ゴミ箱に捨て去った。
「エイジハッポウ?」
「永の字が書に必要な筆致をすべて備えているという話だ。初心者向けといえば、ちょうどいいと思う」
「エイ? ヒッチ??」
説明についてこれない千秋がきょとんと目を瞬いている。度々起こる噛み合わなさには、ようよう参っていた。どう言い換えればいいのか。あまりやることのない段階を踏むやり取りは、いつまで経っても慣れない。
「永遠の永だよ」
「ああ!」
この辺りの折衷は、龍之介が適任だ。戸惑っている間に救ってくれるので、大層ありがたい。
「南がお手本を書いてくれるよ」
「墨田が書いてもいいだろ」
振られることは悪い気はしなかった。しかし、全任せにされるのは腑に落ちない。ダメ元であっても、言うだけ言っておく。文は唇を尖らせてジト目になった。
「お手本なら南がベストでしょ」
「何を拗ねてんだよ」
「だって南が言ったんじゃん。あたしの字は教えるのには向かないって」
「永なら墨田でも問題ないだろ」
「でも南が言ったんだから責任は取って」
「意味深な言い方をするな」
すっかり口が緩くなってしまっていた。つるりと零れてしまった言葉に、文は不思議な顔をする。
そんな意味など毛ほども思い描いていないようですわりが悪くなった。文には通じていなかったが、龍之介には届いてしまったようだ。
「大仰な言い方するなぁ」
「大仰?」
「墨田さんはそこまで南野君に書いてほしいの?」
「当然! 南の文字は最高なんだから」
にぱっと咲き乱れた文の顔に唇を曲げた。そうでもしていないと、緩んでしまいそうなのだから仕方がない。
俺の反応などお構いなしに、龍之介は会話を続ける。
「好き?」
「大好き!」
「瀬尾! 何がしたいんだよ」
「いや、面白くて」
柔らかい笑みでぶん投げられて、顔を覆った。まさか気弱に見えた龍之介にこんな悪癖があったとは知らなかった。いい性格をしている。
「ここまで好かれてるんだから、責任取ってあげなきゃね」
爽やかにトドメを刺されて、深いため息が零れた。
「瀬尾が書いたっていいんだぞ。好かれているのは同じなんだから」
瀬尾もこうした告白を受けている。やり返すくらい構わないはずだ。龍之介が苦笑いになると子犬のような顔になるので、分が悪い。妙に悪いことをしている気になった。
「僕じゃお手本には力不足だよ」
きっぱりと断る声音が、困っているのは本当らしい。今も続けていない遠慮があるのだろうか。
千秋には悪いが、変にお手本役を押し付け合う状態に陥っていた。それを打開してきたのは、当の千秋だ。
「みなさんの字で見たいです!」
無邪気一辺倒。その天真爛漫さには、自分たちのやり合いが馬鹿らしくなった。
「そう?! じゃあ、みんなで書こう。ね!」
自分の字がお手本には向かないと拗ねていた思考は吹っ飛んでしまったのか。文が千秋に感化させられたようなテンションで意気込んだ。こうなってくると、諌めるのは難しい。諦めて、文の勢いに身を任せる。
同じく巻き込まれた龍之介と目が合った。先ほどまでくだらないことで反目していたことも忘れるほど、呆れを共有するアイコンタクトだ。共同体としての意気投合具合が深まる。
このまま文への対抗手段も共有できればいいのに、と思いながら、俺たちは文の勢いに乗せられてお手本になることとなった。
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