艱難汝を書にす⑤
文は書道室にはやってくるし、必ず書をしたためてはいる。
いくらパフォーマンスに向けての説得があっても、その日課を崩すつもりはないらしい。生真面目さ、というよりは一途さだろうか。それだけは、素直に感服するし、尊敬もしていた。
一方でパフォーマンスについてのしつこさも少しも目減りしないので、それについては辟易している。ただこれは、部員の勧誘をしていたころとそう変わりない日常だ。そう考えついてしまえば、何のことはない。意識に上げないことに、罪の意識もなくなった。
そもそも、そんなものを感じる謂れはないのだ。俺はいつも通りに書道室に通うだけだった。
今日も今日とて一番乗りだろう。千秋も龍之介も少し遅れてくるし、文は到着と同時に姿をくらます。なので、書を書き始める一番手はいつも俺だ。そこに誇りがあるわけではないけれど、気軽さは存在する。
一人の時間を堪能すべく扉に手をかけたところで
「すごい!」
と飛び込んできた文の声に動きを止めた。
既に誰かが書き始めているらしい。珍しいこともあるものだ。そのまま扉を開いて入ればいいと、頭では理解していた。しかし、身体が重い。
文は誰の書であってもよく褒める。だから、そうした声が漏れ聞こえてくることに不和があるわけではない。
それなのに、耳は繊細に聞き分けているのだ。その言葉がいつもより綻び、陶然としていることを。
そして、文が陶酔するような字を書けるのが誰かなんてことも分かる。考えるまでもないことだ。うちは大体初心者で、龍之介の書に対する文のテンションはもう知っているのだから。そのときと違う音で表現される人間など、一人しかいない。
「そんなに手放しで褒められると照れるものだね」
答える秋生の声に、やはりなと自嘲が零れた。
「秋ちゃん先生の字、ちゃんと見たの初めて。素敵ですね」
「墨田さんに褒めてもらえるなんて光栄だな」
「あたし、そんな大層なものじゃないよ?」
心底、不思議そうな声音だった。自分が特別だとは、少しも気がついていない。それを罪ではないのかと思うのは、僻みだろう。
「十分、大層に見えるんだけどな」
「先生には負けるよ」
秋生は、書家になるのを諦めて教師になったわけではない。今なお賞に応募したりしているはずだ。諦めたのではなく、現実可能な道を生きている。
秋生の実力はただの教師に比べれば数倍……数十倍もあった。文が惚けるような作品を書くこともできるだろう。
俺は秋生の字を昔から知っている。その実力も、違えることはなかった。
「……比べても詮ないな」
しみじみと零された言葉は真理だろう。少なくとも、比べるとすれば過去の自分であり、他人とするものではない。
評価が人に寄る分野だ。感情論になることだってあるだろう。比べたっていいことは何ひとつない。重々分かっていることが、ずしりと心に圧をかけた。
「楽しいのが一番だもんね!」
はしゃいだ声が言う。これだから天才は、と思ってしまった言葉を噛み砕いた。
そんな神がかり的な存在に押し上げてなどやるものか。手の届かない存在だと認めてたまるか。ぐつぐつと心が煮詰まる。
「違いますか?」
文の確かめるような問いに、秋生の返事は聞こえてこない。
頷いたのか。何がしかのアクションを取ったのか。話を流したのか。今すぐ扉を開けば確かめられることは分かっていた。だが、扉にかかった手のひらは、一ミリたりとも動かない。
書道室からは何の物音もしなくなった。
書いている。ごく自然にそう思った。
文が静かなときはそれくらいのものだという現実的な判断もあったが、もっと直感的に察していた。
今、この中は二人だけの世界が広がっている。楽しいと分かり合う。そんな時間が流れている。
自分の心音がやけにうるさくて焦った。嫌に冷えた汗が背中を伝う。自分はこの中に入ることができるだろうか。答えは身体が知っていた。
硬直してどれくらいたったのか。
「学君?」
と肩を叩かれて、ビクついた。振り返ると、莉乃が怪訝そうにこちらを見上げている。何か言わなければ、と開いた唇からは呼気しか零れなかった。
「どうしたの?」
「いえ……」
「入らないの?」
「え、ああ……はい」
答えにはなっていなかっただろう。俺は適当な感嘆詞を吐きながら、扉を開いた。
莉乃の怪訝は消え去らなかったようだが、ひとまず入室することにしたらしい。こちらも今更去るわけにもいかず、莉乃の後に続いた。
室内は想像していた通り。文と秋生が並んで書をしたためていた。教室の後ろ半分のスペースを確保して下敷きを敷いている。文が振るう腕はダイナミックで、目を奪われた。莉乃もその光景に面食らったようだ。
俺は気づかれないように、そっと目を逸らした。
「すごいのね」
莉乃が書道室に顔を出したのは初めてのことだ。文の姿も初めてだろう。ならば、その驚きは通常よりもギャップ込みで凄まじいものがあるに違いない。この姿から残念さを知るのと、残念さから生真面目さを知るのとでは、どちらのほうがマシだろうか。
声をかけるつもりは毛頭ないので、俺も準備に着手することにした。いくら通常を逸脱することが起きていようとも、することは変わらない。
そういえば、莉乃はどうして来たのだろうか。聞いてみたくはあったが、分が悪いような気がしたし、文たちに夢中になっているようであるので、声をかけなかった。
波風立てたいとは日頃から思っていないが、特に今日は自主的に行動したいと思えない。この教室の空気がいたたまれないと思う日が来るとは思いもしていなかった。
盗み聞きが後ろめたいだけなら、俺はもう少しまともな態度を取れていただろう。僻みのこもった陰鬱さが平常心を取り上げていた。
「会長さん!」
どうやら、準備の間に、文は書から帰ってきてしまったらしい。やっと来てくれた莉乃に喜色を滲ませている。
「生徒会は落ち着きましたか?!」
「ええ。後は文化祭実行委員の調整になるわ。私も承認しなくちゃいけないことはまだあるけれど、顔は出せるようになるから」
「嬉しいです!」
言葉通りの響きは、聞いていて心地良いものなのだろう。
しかし、俺にとっては歓迎できるものではなかった。そして、それは決定的にそうであったのだと思い知らされることになる。
「それで? 調整のために申請まで時間がないけれど、パフォーマンスはどうなりそうなの?」
莉乃が放り投げてきた爆弾に、思わず手を止めてそちらを見る。待っていましたとばかりの企み顔をした文と目が合った。
嫌な予感、なんてものは生易しい。はっきりと嫌なものを見てしまった気分だ。不気味なほどの笑みに、危機感は天井知らずだった。
「あとは南を口説き落とすだけだよ」
いつの間にそこまで進展していたのかと、驚きが隠せない。
文はご満悦だ。説明をさせるのは無理であろうと諦めて、莉乃に視線を移した。
どこまで把握しているのかは分からないが、少なくともパフォーマンスについて聞き及んでいることは間違いない。莉乃は俺の求める情報に気がついてくれたのか。文の説明に不安を覚えたのか。定かではないが、口を開いてくれた。
「確実ではないと前置きした上で、文化祭でパフォーマンスをするなら舞台は使えるかって相談を受けたの。まだそうした詳細は詰めてないし、舞台は申請を受けてから調整するから、それまでに発表するものが決まれば申請書を出してくれれば問題ないと伝えたわ」
常識知らずな真似をしたわけではなさそうで安心したが、先走っていることに間違いない。
はた迷惑な。
「先輩はパフォーマンスすることになっていいんですか?」
納得させるのが条件だ。ここで俺が突ける箇所はそこしかなかった。しかし、それは見事な返球にあってしまった。
「部活動が盛り上がるのはとてもいいことだし、部員を獲得するためにもいい方法じゃないの?」
効率的な正論は、さすが生徒会長と言うべきところなのだろうか。
「……先輩はいいんですか。やったことないんですよね」
「どっちにしても書道をちゃんとやったことなんてないから、同じことじゃない?」
平然と返されて、言葉をなくした。経験がないだけに区別もない。自分の持つ感覚とまるで違うものではあったが、反論もできなかった。
こちらを見る文の笑みが深まる。にこやかが行き過ぎて、ちょっとイカれたやつに見えた。怖い。
「龍もちゃんと了承済みだからね」
確認作業を先回りで潰されて、押し黙る。
本当に、俺を説得すればいいだけになっていた。こんなことなら現実逃避などせずに、龍之介とのやり取りをつぶさに観察しておくのだった。すべては後の祭りだ。
「莉乃会長の言うことはもっともだと思わない? 部のためになると思うんだよね」
「自分のためだろう」
そんな大義名分に惑わされるつもりは更々ない。文もそれで陥落できるとは考えていなかったのだろう。一応、言ってみただけのようだった。
「龍はせっかくだからみんなでやるのも面白そうだって頷いてくれたんだ」
「そうか」
「きっと楽しいよ!」
「俺はそうは思わない」
頑なになっているとは思う。
だが、別に俺が絶対に参加しなきゃいけないということはないのだ。秋生は付き合ってやればいいと言ったし、文も俺を巻き込みたがる。部活動として打ち出されてしまえば、参加を余儀なくされることは理解できるし、ここまできて無視できないことも分かっているつもりだ。
だが、個人でいえば、やはり忌避感が強く、楽しめる要素が見当たらない。
文はあからさまに不貞腐れた。しかし、すぐに気を取り戻して、瞳に力を入れる。
「毎日、一緒に書いてきたでしょ」
同じ空間で、同じように没頭してきたでしょ。
含まれた言葉は意外なほど直に聞こえた。
「だから何だよ」
「楽しかった」
「……それは各々の話だ」
パフォーマンスとは向き合い方が違う。各々が書に向き合って時間を共有するのと、一丸となって書に向かうのとでは勝手が違うはずだ。
俺は今まで一人でやってきた。書道教室でだって、馴れ合ったことがない。自分の向き不向きは自分がよく分かっている。
「別々でも楽しいんだから、一緒ならもっと楽しいよ。きっと、気持ちいい文字が書けると思う。あたしと、書いて」
ちりちりと、火に炙られているようだった。
文と書く。
その甘美な響きを拒絶するのは難しい。どんなに頑なになっていても、文の書が愛しいことは否定できなかった。それに誘われて拒めるのならば、それは書を嗜むものとして感性が錆び付いてしまっている。
そんな俺の揺らぎを見透かしているのか。文はこちらに寄ってきた。いつもの豪快さとは違う。一歩一歩踏みしめるような距離の詰め方だ。
その異質さを眺めているうちに、眼前に辿り着いた文は、自分の右手で俺の右手を握った。
握手みたいなものであるはずなのに、まるで違う感覚を突きつけられる。しなやかな指先の節には、たこができていた。柔らかいだけじゃない。長年筆を執ってきた手に、大事なものを掴まれた気がした。
そして、文はそのまま俺の手を引いて移動を始める。
「墨田?」
行動の理由を問うように呼んだ声は、黙殺された。連れられるままに進み、俺はさきほどまで文が書いていた和紙の前に並ばされる。
飛び込んできた書に、今度こそ心臓の大事な部分を握り潰された。
「南」
静かに呼ばれて、どうにか書から目を離す。ぶつかった瞳に不純物はひとつもなかった。
「今、あたしが持っているものは全部貸すから、南の力も貸してほしい」
そう言って、右手を胸元へ引き寄せられる。それは怪我した手を握りしめたあの日と同じように慈しみに満ちていて、払い除けることはできなかった。
「南の字が好きだよ」
ピンポイントだ。
まるで俺の弱点などお見通しとばかりに、最短距離を詰めてくる。これがもっと不遜。してやったりな顔でもしていようものなら、救いようもあった。雑に袖にすることも厭わなかっただろう。
けれど、文は真剣だ。ひとつの汚れもなく、純情一途に俺を見つめている。
開いた手のひらで顔を覆ったのは、大息を吐き出すのを堪えるためだ。面映ゆかったわけではない。
「……分かった」
根負けしたことにしておきたい。決して、ほだされてはいないというポーズは崩さなかった。
しかし、そんな努力も虚しく、華やいだ気配に腕を取られて絡みつかれた。柔らかな感触にぞわりと肌が粟立つ。
「さすなみ!」
「うるさい。離れろ!」
しおらしさを一瞬で手放した文に、早まったかと臍を噛むのはいつものことだ。
俺はその日。文が俺に書いてくれた『南』の書を丁重に持ち帰った。自分でも、あまりにもチョロいと思う。
その書を額に入れて、部屋の壁に飾り付けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます