艱難汝を書にす④
「漫研はいいのか?」
龍之介を遠ざけたいわけではないし、書道をやるならそれはそれでいい。けれど、パフォーマンスに引き込まれているかもしれないと思うと、心なしか警戒してしまう。
文は俺の態度の原因に気がついたらしい。むんと唇を尖らせて、こちらを睨みつけてきた。こんなときばかり察しがいいのも困りものだ。
「少し落ち着いてきたし、墨田さんがいつも声をかけてきてくれるものだから」
「すまん」
迷惑をかけているだろうことは決定事項だと放置していたが、こうして正面切って報告を聞くと良心の呵責が疼く。
「いいんだよ。別に嫌なわけじゃないから」
でも、文ほど乗り気ではなさそうだった。書道が嫌ではないが、優先順位は違うのだろう。やめてしまった過去の切れ端と、現在の夢中では比較になるはずもない。
「それに名前を貸すことにしたのは僕だし、一応来るって言ってたしね」
「助かってるよ。墨田のことは気にしなくていいから」
「なんで南があたしのこと決めちゃうの!」
「迷惑をかけているからだろ!」
「だって、あたしの課題だもん」
「条件は君を収めるためのものであって、絶対的な達成目標である必要はない。諦めてくれて構わないんだぞ」
「ひどい! わるなみ! なんでそんな意地悪言うの! パフォーマンスするの!」
癇癪もいいところだ。ぎゃんと叫んだ文が、こちらに詰め寄ってくる。相変わらず、パーソナルスペースがバグっていた。
「近い」
額を押して留めると、ぺしんと叩き落とされる。常にない行動に、不意を突かれた。文はこちらのことなどお構いなしに、また一歩距離を詰めてくる。胸板がぶつかるほどの至近距離だ。ここまで近付いたら、逆に見上げにくくはないのか。
どんぐり眼が痛いくらいに身を貫く。光を吸収するような黒目に気圧された。
「本気で南を落とすんだから」
一切の妥協はない。高潔なる宣誓であったのだろう。文としては。
しかし、言葉選びが壊滅的だ。視界の隅で、龍之介と千秋がぎょっとしている。誤解しているに違いない。
文だけは真剣だ。本音なのだろうし、男女の機微になんて気が回っていないのは丸わかりだった。
それにしたってちょっとくらい……と思わないでもなかったが、文が直情径行なのは、もう十分身に染みている。一度決めたらてこでも動かないし、周囲の目など気にも留めない。俺は一週間の治療中にこれまでもかと思い知らされていた。
「条件を緩めたりはしないからな」
「だから一生懸命やってるんでしょ?」
「迷惑をかけていい理由にはならないぞ」
睨み合う文の顔が顰められた。
こんなに分かりやすく嫌悪を滲ませるのは珍しい。文は百面相ではあるが、基本的にポジティブだ。暗い表情は見せられたが、ここまで険しくなるのは初見だった。
これに怯むどころかやり込められている手応えを覚えるのだから、俺は性根が悪いのだろう。
しかし、こればかりはいつものように押し切られるつもりはなかった。書道は己と向き合うものだ。他人との切磋琢磨を非難するつもりはない。だが、俺にとっての書道とはそういうものだ。パフォーマンスをやる気にはなれなかった。
文は嫌な顔こそすれ、俺から目を逸らすことはない。その目の光は眩しくて、忌ま忌ましい気持ちになる。
どこまでも純粋だ。好きだから、と書道への想いを文は告げる。躊躇いも葛藤もない。そんなことがあるだろうかと批判的な目になるのは、自分の純度がくすんでいるからなのだろう。それをまざまざと見せつけられているような気分になって、落ち着かなかった。
文は気合いを入れるかのように鼻息を吹かすと、俺の肩を引き寄せてごちんと額を合わせてくる。痛いし、意図を図りかねた。
呆然とした俺に、文がもう一度ふんと息を吹く。猛獣か何かなのか。
「絶対に負けない」
「……勝負事じゃないし、迷惑の答えになっていない」
「納得してもらえば迷惑じゃなくなるもん」
言ってることがめちゃくちゃだ。
文句をつけて引き剥がしてやりたいが、それをすることも意識しているようでやりたくなかった。文の相手をしているうちに、こちらまで精神年齢が下がってしまったかもしれない。
「勝負なんだから、正々堂々だよ」
「……口を出すなって?」
文がにんまりと笑う。行間が読めてしまったことが不快だ。
「そういうこと」
満足げな顔にため息が零れる。
龍之介と莉乃には悪いと思いながらも、俺にはなすすべがない。諦めたのが伝わったのだろう。納得したと調子よく解釈されていそうだが、文はようやく離れてくれた。
ほっと息を吐き出す。シャンプーの残り香が鼻先を擽ってきたのは、いかんともしがたかった。そのシャンプーを使わされた苦い記憶も刺激されて閉口する。
「龍!」
俺との会話は終わったらしい。放り出されてしまった。鬱陶しさから解放されて、気が休まる。しかし、すぐさま別の人間の元へ駆け寄る潔さは釈然としない。そんな感情を有してしまうことも、また腹立たしかった。
龍之介の視線を感じてはいたがスルーする。これ以上、心乱されたくはなかった。
文に手出し無用と言われた直後だ。都合の良い理由を振りかざして、書に向き合う。潜ってさえしまえば、他のことは些事だ。
そうして半ば現実逃避に走っていたものだから、龍之介がどうなったのか。俺は事の顛末を知らぬままだった。自ら相手の手の内に飛び込むほど迂闊なつもりはない。
わずかでも触れれば、すっぽんのように食いつかれるのは分かりきっている。いや、すっぽんならまだマシだった。場合によってはピラニアのように食いつかれ、致命傷を負うかもしれないのだ。そんな失態を犯したくはない
そんな意地があったものだから、俺は龍之介の判別を知らぬままに過ごしている。
部活に来るようになったことを責める立場にないのだから、突っ込むこともしない。聞かなければ龍之介も答えないし、現状パフォーマンスの何かが動いているわけではなかった。
せいぜい文が俺の説得のために、莉乃の元へ通っているくらいのものだ。ご迷惑をおかけして申し訳ない気持ちは過分にあった。謝罪に行くべきかと悩むほどにはあったのだが、手出し無用と釘を刺されている。
律儀に守る必要があるのかは甚だ疑問だ。だが、下手に破って隙を見せたら、何を突っ込まれるか分かったもんじゃない。その微々たる隙から爆弾を放り投げてきて、無理やり突き崩してきかねないくらいだ。そんな面倒事に発展されてはたまらない。
俺は書道に向き合うことで、条件については考えないことにしていた。
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