同部相救う④
やってきたのは千秋だ。揺れるブロンドが乱れ、肩で息をしている。嫌な予感は加速度的に強まった。
「大変です。文サンが……!」
「何した」
最短で聞いた俺に、千秋が息を吸う。
「作品を持って屋上に。カンユー作戦だって。龍センパイと秋ちゃんセンセーが追いかけてますけど」
「分かった」
文の考えを理解できたわけでも、状況をきちんと把握できたわけでもない。ただ、厄介なことになっていることだけは切々と分かった。
「屋上だな」
「ハイ」
空耳だと思いたかった場所は、真実らしい。俺は再びスタートダッシュを決め込んだ。
下りより上りのほうがつらい。短時間に往復させられて、足はパンパンになりかけている。文句もあったが、焦燥感のほうが強かった。
うちの屋上は安全対策が緩い。フェンスがないのだ。書を持って上がったということは、それを垂らすなり何なりするつもりがあるということだろう。フェンスのない屋上で。
想像だけぞっとした。ともすれば竦みそうになる足を必死に動かす。すっかりスピードは落ちてしまっていたが、それでもできる限り急いだ。
半開きになった扉から陽光が差し込んでいる。扉にぶつかってこもったような龍之介と秋生の声がしていた。一拍置いてしまったのは、覚悟を決めるためだったかもしれない。
はたして開いた扉の向こうは、想像通りの図が広がっていた。屋上の縁。一段ある段差の上に、文が立っている。どうやって手に入れてきたのか。書を持っていないほうの手には拡声器を握っていた。
俺の到着に気がついた龍之介がこちらを振り返る。ワンテンポ遅れて秋生も続いた。龍之介と秋生が立っているのは、段差から三メートルは離れたところだ。気持ちは分かる。
危ないところに立っている人間のそばに近付いて、思わぬ身動ぎでも取られちゃたまらない。それに、いくら文が心配といっても、自分が落ちたっていいとまでは思えるものじゃないだろう。
俺だって、近付けたのは龍之介たちよりも二・三歩先までだった。
「墨田」
「これなら大々的だし、効率いいでしょ」
誇らしげに告げられて、呼気が多めに零れる。効率だけならそうだろう。だが、同意はできない。
「墨田、降りろ」
「どうして? ローラーも考えろっていったのは南でしょ」
「安全性を度外視しろとは言ってない」
「大丈夫だよ」
「俺、たちが大丈夫じゃない」
俺、と言いそうになったのを軌道修正する。こんなときまで文を認めていることを意識している自分には呆れるが、かなり動揺していた。
「南たちは大丈夫でしょ?」
あっけらかんと言われて、頭を掻き毟りたくなる。
「心労を考えてくれ!」
どうしてここまでこっちが遮二無二ならなくちゃいけないんだ。叫び出したいのを堪えたのは、躍起になられるのが怖かったからだ。
文は落ち着きがない。言葉を張り上げるときは、常に身体が一緒に動く。そんなものを足場の悪いところでやられては、たまったもんじゃない。
「でも、南は手伝ってくれないんでしょ」
それは莉乃との会話を引き合いにされているようで、今までの態度まで蒸し返されているような気もした。それともこれは、罪悪感がそう思わせるだけだろうか。
「手伝う。手伝ってやるから、降りてきてくれないか」
どうしても慎重になるし、文の言葉を拒絶することはできない。
「本当に?」
そうして首を傾げられるだけでも怖い。バランスを崩されたら、と思うと、冷や汗が背中を伝う。
「ああ、本当だよ。ほら、墨田」
怖がってばかりいるわけにもいかない。手を差し出して、じわじわと距離を詰めた。後ろで息を飲む音がする。
龍之介か秋生か。確認する余裕はまるでなかった。
「パフォーマンスもやってくれる?」
卑怯極まりない。
思わず顔を顰めると、文の顔も同じように歪んだ。
「学」
秋生の呆れた声がかかる。
とはいえ、軽はずみでは頷けない。俺にやるつもりはないし、文は言質を取ったら必ず実行するはずだ。秋生の横やりに答えることもなく、俺たちは睨み合っていた。
勇気を出して手を差し出してみるが、やはり触れるのは怖い。文はそこに拡声器だけを寄越した。
「そうじゃないだろ」
微々たる抵抗を苦々しく思いながら、受け取った拡声器を足元に置く。再度手を差し出すと、じろりと睨みつけられた。
「部員を獲得してから考えればいいだろ」
「考えてくれるの?」
文は俺を数に入れることを譲らない。このままでは、本当に状況は改善されないだろう。
肺胞のひとつひとつまでに行き渡った酸素を吐き出すほどに深く息を吐き出した。
「……考えるよ」
あくまでも頷ける範疇に留めて手を打つ。文の表情が一瞬で晴れた。
「本当だね!?」
身を乗り出す身動ぎに、汗が噴き出す。いっそ降りてきてくれればいいものを、と思わずにはいられない。
「本当だから、ほら。降りてきてくれ」
もう言うことをきいてくれるだろう。その空気を感じて、手を出す距離が幾分縮んだ。文の指先が、俺の手のひらに触れる。
繊細な触れ合いは逃げられてしまいそうで、怖くなってしかと手を取った。引き寄せるのは怖いので、降りるタイミングは文に任せる。体重がこちらに預けられる気配があった。
その重みに安堵したのは、油断だったのだろう。
巻き起こった強い突風に、心が騒ぐ。文の片手に掴まれていた作品が風に煽られた。風に煽られる紙の威力は馬鹿にはできない。
文の身体が外側へ傾ぐ。
後ろから龍之介と秋生、そして、千秋の叫び声がした。来ていたのか、と思いながら文の手を思いきり引き寄せる。身体を入れ替えて、文を内側に突き飛ばした。
作品が宙に舞う。
凍り付いた文の顔を最後に、俺は屋上から落下した。
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