同部相救う⑤
自分の周りに集まっているメンバーを見渡して、渋い気持ちになる。
「まさか学がこんなにも男気に溢れたやつだったとは思わなかったな」
俺の足元に跪いた秋生が、膝を消毒しながら零した。喉を鳴らして黙り込むより他にない。
「ハラハラしたよ」
「落ちたと思いました。心臓ばっくりです」
「落ちたのは落ちたのよね?」
「そうだね。だからこの怪我だ」
それぞれ好き勝手に言う。千秋が一番心配してくれていて、その豊満な胸を押さえ込んでいた。
最も情報が不足しているのは莉乃だ。よく分からないまま、けれど千秋を放っておくこともできずに顔を出してくれたらしい。
そのときには、俺はもう落下していて、屋上は阿鼻叫喚だったという。秋生がすぐに対応して、莉乃もそれに付き従ったようだ。巻き込んでしまったことは面目ない。
俺は確かに落下した。
屋上の縁の下に、ぐるりと存在する段差のような場所に転がり落ちたのだ。怪我は擦り傷と打ち身と軽い捻挫をしただけだった。弾き飛ばした文も腰を抜かしただけ。阿鼻叫喚の割に、影響はあまりにも小さかった。
こんなふうに総出で心配されて居心地が悪いくらいだ。手を出すまでもなかったのでは、という思考も拭えない。
あのときの自分の動転ぶりもこっぱずかしかった。
「ほら、終わったぞ」
「……ありがとうございます」
無駄な傷を負って手間をかけさせたのだから、他に言葉もない。
秋生はあの場を収めてくれた。というのも、文の手を離れた作品は本当に校庭へ落下した。一体何があったのか。地上は大騒ぎになっていたらしい。秋生が降りて、書道室から書を落としてしまったと不都合のない事情を説明したという。
俺は段差から引き上げられて保健室に運ばれていたので、全部後で秋生から聞いた。いくら一段踏み外しただけといっても、屋上からという心理的な衝撃はある。伝えられたところで、すぐに状況を理解することはできなかった。
今もまだ、動揺は消え去ってはいない。手当ての終わった足と手を握ったり揺らしたりして、自分の身体を確かめてしまう。
「南野君、大丈夫?」
「ああ、うん」
「ドキドキ、終わりませんか?」
「少し落ち着いてきたよ。心配をかけた」
「ほどほどにしてくれよ」
秋生からの苦言に、渋面で顎を引いた。ただ、そのまま黙って聞いておくことはできない。そもそもの原因がいるのだ。
「君もだぞ、墨田」
椅子に座る俺の周囲にいるメンバーの奥。所在なさげに佇んでいる文を見る。
既にしこたま絞られた後だ。こたえているのだろう。文は何も言わず、俯くように頷くだけだった。
「文サン、大丈夫ですか?」
あまりの暗さを見かねたのだろう。千秋が近付いて顔を覗き込んだ。そうされて初めて、文がゆっくりと顔を上げる。ぶつかった瞳は潤んで泣きそうになっていた。それが更にぐしゃりと歪む。そのまま、ぱたぱたとこちらにやってきた。
秋生が場所を空けると、文が目の前に立ち塞がる。見上げる角度が珍しい、なんて思っている場合ではなかった。
文は何を考えているのか。そのまま俺を抱き寄せた。
「おい?!」
ただ抱擁されただけであれば、まだここまで狼狽しなかったかもしれない。
しかし、今俺は椅子に座っている。文にそのまま抱き寄せられてしまうと、顔が胸に埋まった。ぺったんこの胸だから平気だなんてことはない。密着されると柔らかさが分かる。
大慌てした俺をよそに、文は腕に力を入れてきた。耳が熱くなる。
「墨田! 離せ」
そう言いながらも引き剥がせないのは、胸が気持ちがいいなどという馬鹿げた理由からではない。華奢な身体を乱暴に扱えそうにもなかったし、どこに触れてもセクハラになりそうで躊躇した。
俺の声など届いていないのか。文は微動だにしない。
いつか横っ腹に抱きついてきたときと比べたら、力はなかった。けれど、驚くほど身動ぎしないので、かなり拘束されている気持ちになる。
「聞いてんのか、墨田」
「文サン?」
声かけに参戦してきた千秋に続くように、それぞれが文に呼びかける。それでも文は答えなかった。
離れて欲しい焦燥感とは別に、文の状態への警告が高まっていく。触れるのが怖いだなんて言ってもいられずに、頭に回っている腕に触れた。下から見上げると、暗い瞳と目が合う。
「墨田?」
思った以上にそろりとした声は、周囲の呼びかけに埋もれたように感じた。
けれど、文はこちらをしっかりと捉えている。いつもは艶めく黒に影を落とした瞳に、怖気立った。ぐっと唇が噛み締められる。その痛々しさに、こちらまで奥歯を噛み締めた。
「……ごめんなさい」
絞り出すような、ひしゃげた声だ。聞いたことがない。自分の耳を疑った。
けれど、文は同じように繰り返す。泡沫のように儚い声のくせに、鼓膜に付着して残る。落ち着かない。
俺の頭に回している腕に力が入る。これ以上抱き寄せられることはなかったが、文は強張っていた。がちがちの身体に、このままではダメな気がして息を吐く。
腕に触れていた手を文の背中に回した。
額を押して留めたり、首根っこを掴まえたり、傷の手当てをしたり、引き剥がしたり。いくらだって触れてきた文に、初めて触れたような気がして緊張する。
周りの声はもう完全にやんでいた。どんな顔をしていたのかは知らない。俺は文のことしか考えられていなかった。回した手のひらを撫でるように動かすと、文がびくんと身を揺らす。
「反省してんだろ? だったらもういいから。落ち着け」
「っだめ」
弾かれたように悲鳴を上げられて目を見開いた。
文は背に回していた俺の腕を強引に引き剥がして引き寄せる。
胸に抱かれるなんて、なまっちょろいものじゃない。隙間なく密着させられて、少しでも動かせば胸を突いてしまいそうだ。指先は文の口元にあり、呼気になぶられて背筋が震えた。
この体勢に持ち込むまでは強引だった手つきが柔らかく、俺の腕をこれ以上ないほど大事そうに抱え込んでいる。その手のひらが、俺の手首を撫でた。湿布の上にネットを巻かれたそこは、他よりも少し感覚が鈍い。
何を考えているのか分からず混乱していた脳が、緩やかに落ち着いた。
驚くほど自然に、ああ。と腑に落ちる。文の感情が、触れられているところから流れ込んでくるようだった。
「墨田。たった、数日間のことだ」
段差を転がったようなものだ。それを咄嗟に手で支えようとしてしまった俺は、右手首を捻ってしまっている。
きっと、俺と文が思ったことは一緒だろう。
筆が持てない。
文がこんなにも気落ちして、俺の腕を大切そうに扱う理由はそれしかないと思った。
「たったじゃないもん」
知っている。俺も文も、出会ってから今日まで、相手が筆を持っていない日を見たことがない。
こんなおてんばと共通点があるなんて妙な気分だけど、俺たちはきっと魅了されて抜け出せないところにいる。
たった、なんて軽々しくはない。違和感が絶対に残らないなんて確証はない。たったじゃない。その深刻さを共有してくれるやつがいる。
そう思ったら、いくらか肩の力が抜けた。強張っていたのは、俺も一緒だったのかもしれない。
どこまでも落ちていってしまいそうな文の瞳を見つめて、指先を動かす。そっと撫でた頬はとてもふくよかで、すべすべしていた。
文の瞳が丸くなる。それでも動かないのは、俺の手首を動かしてしまうことが怖いのだろう。
「怪我をしたのが君じゃなくてよかった」
そう言えたことに、ほっとしていた。
敬愛するほど大切で、どこまでも丁寧に扱いたい反面、そのすべてを奪って支配してしまいたいほど希求する。宝物のような文字を書く手。
それを純粋に心配することができた自分に安堵し、文が負っていたかもしれない怪我だと体感してぞっとした。
本当によかった。
文の表情が歪曲して、そのまま俺の腕の中に崩れ落ちてきた。膝が床に当たって痛かったんじゃないのかと思ったが、文はそっちのけで胸に縋りついてくる。
「おい、すみ……」
「ひっく」
呼びかけようとしたのと、嗚咽が耳を貫いたのは同時だった。文がぼろぼろと涙を零しながら、抱きついてくる。
途方に暮れた。
自分のためなのか。自分のせいなのか。何にしても、女子をこんなふうに泣かせてしまったことは人生で一度もない。どうしていいのかてんで分からずに、背を撫でて宥めながら助けを求めるように周囲を見回した。
秋生がニヤけと困惑をミックスしたなんとも不可解な顔をしている。千秋は口元に手を当てて瞳をきらめかせ、龍之介は耳が赤い。莉乃はクールなままで、何を考えているのかまったく分からなかった。
四者四様のありさまは当惑を強めるばかりで、にっちもさっちもいかない。
「何にしても命が無事でよかったってことにしておこう」
秋生が苦し紛れに零した言葉はもっともだったが、文を慰めるには足りなかった。
わんわん泣き続けられて、俺はハンカチになっているしかない。シャツがししどに濡れている気がしたが、仕方がなかった。大泣きしている女子を引き剥がすことはできない。
他の誰も手を出さないものだから、そのままただただ時間が過ぎていく。
その間に、秋生が職員室から呼び出しを食らっていた。事情説明にでも行ってくれるのだろう。ちょっと出てくる、と離席した。変化はそのくらいで、とにかく文が泣き止むのを待つことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます