第二筆
同部相救う①
翌日のことだ。朝から文が何かをやらかしているようだった。それをクラスメイトに報告された俺の心中は察して欲しい。同部と言うだけで、情報を回してもらっても困る。俺は適当な相槌を打つに留めて、素知らぬふりをしていた。
いくら書道部のためであろうと、文個人のやり方に首を突っ込みたくはないし、連帯責任もないはずだ。そのまま流し去るつもりでいた。本当だ。しかし、それを許してくれないのが文だった。
昼休み。男子生徒が廊下を駆け抜けていく。その時点では、その生徒に欠片も注目していなかった。気に留めることすらしていなかっただろう。
だが、その後を追うように
「龍!」
と叫びながら駆けてくる女子生徒には心当たりしかなかった。
何度だって言う。無視したかったのは本心だ。
しかし、文はごめんと周囲の生徒に謝罪を零しながら、猪のようにこちらへ突っ込んできていた。このままでは正面衝突は免れない。俺でなくとも、いずれ誰かにぶつかるだろう。昨日転んだばかりの女だ。危険度は高い。
今度は誰かを巻き込む。そう思うと、無意識に手が伸びていた。脇に避けたうえで、後ろから首根っこを引っ掴む。
「うぐぁ」
とても花も恥じらう女子高生……どころか、人間らしからぬ声が響いた。激しくむせ始めたので、首が絞まったのかもしれない。こればかりは申し訳なく思った。
「ちょっと!? 何すんの!?」
瞬間、腕を振り払われて掴みかかられる。反撃の予期など予定になく、後れを取った。しかし、次の攻撃はやってこずに、俺の胸ぐらを掴んだ文がアホ面を浮かべている。
「南!」
誰か分かっておらずにこの所業なのか。
直情っぷりがひどく不安になった。文はすぐに胸元を解放してくれる。ネクタイを直して、咳払いをした。
「君は何をしてるんだ。廊下は走るなと習わなかったのか」
「いやなみ」
「今度は何の略だ」
「嫌な南……いやみでいいね!」
失礼な言い草に白い目を向け、頬をつねる。
「ひろい! はなひてよ、わるなみ!」
頬を摘ままれていても問題なく罵倒されて閉口する。手を離すと、文は摘まんでいなかったほうの頬も一緒に手のひらで挟んだ。どうやら防御のつもりらしい。
「女の子の柔肌を攻撃するなんて敵だよ!」
「自らを傷つけるおてんばは自分すらも敵になって大変だな」
「昨日は心配してくれたのに!」
弱みに付け入るように拗ねられると、心配しなきゃよかったとすら思えてくる。
「南はあたしの手だけが大事なんだね?」
「誤解を招く言い方をするな」
大事……というよりも、尊敬しているのは書に対する姿勢であり、その時間だ。決して、その身を案じているわけではない。
文は不服とばかりに尖った目つきを寄越す。頬をガードしたままなので、いじけているだけにしか見えなかったが。
「で? 何をしていたんだ」
解決していない問いを投げると、文ははっと我に返った。ぐるぐると首を巡らして、周囲に目を向ける。
「墨田?」
「龍! 龍がいなくなっちゃったじゃん」
「……幻の生物でも探してたのか」
「書道をしたことのある男の子の名前だよ! 瀬尾龍之介君。ボケないでよね、南」
「大真面目に言われなくてもそんなつもりはない」
どちらかといえば嫌味だ。説明くらい過不足なく寄越して欲しい。
「それで追いかけっこか」
「だって、龍の字、見てみたくない?」
俺への話の振り方がよく分かっている。そんなつもりはないのかもしれない。だが、その文脈は俺の興味をそそるものだ。だからといって、追いかけ回すのを許容するつもりはないが。
「他のアプローチ法はいくらでもあるだろ」
「だって逃げられるんだもん」
「秋ちゃん経由とかあるだろ」
「南のほうがよっぽど逃げ道潰してんじゃん」
「他に迷惑かけるよりマシだ」
「他にも部員募集中だって知れ渡ることは悪いことじゃないよ!」
「成果はないけどな」
クリスを連れてきたのは秋生だろう。文の成果はゼロ。それは痛点だったようで、がっくりと肩を落とした。
「残念だったな」
煽ったつもりはない。だが、文はムキになってこちらを睨みつけてきた。
「まだ分かんないもん。どうしてここで諦めるの。やればできる、諦めたらおしまいなんだから! あたしはパフォーマンスをするんだから、諦めないんだからね。もっと熱くなれよ!」
「俺たちは運動部じゃないぞ」
「何言ってんの!? 話を逸らさないでよ」
どうやら熱血指導者の真似事をしていたわけではないらしい。文は思いきり眉を顰めた。
「とにかく、走り回るのはやめておけ」
「心配?」
「心配心配」
周りと、巻き込まれる俺が。肝心な部分を伏せたまま認めると、文は納得したようだ。にまりと満更でもない笑みを浮かべる。
「しょうがないなぁ」
得意げなところが業腹だが、これで収められるのなら勘違いされるくらい安い。それに、文の手に何かがあれば胸が痛むことは、あながち嘘でもなかった。
「走り回らずに勧誘するね!」
「……ほどほどにしておけよ」
別の問題が浮上するかもしれない、と思わなかったわけじゃない。けれど、勧誘そのものを止めなかったのは、龍の字への興味があったからだ。機会に恵まれるのなら見てみたいというのも、紛れもない本心だった。
「はーい」
と気の抜けた返事をしながら、文が去って行く。走り出すことはしなかったが、足取りは軽くスキップになっていた。
頼むから、おとなしくしていて欲しい。頭を抱えそうになりながら、俺もその場から離れた。
その後は、うろついている姿も見なければ、噂が舞い込んでくることもなかったが、俺の願いが叶ったとも思えない。どんな手法に切り替えたのか。不安とともに油断はできなかった。
そうしていたはずだというのに、衝撃は思わぬ方向からやってくるのだ。それも出所不明のくせに眼前に現れるのだから、やりきれない。
欠かすことのない部活動に出向いた。書道室の扉を開いた先で、それは待っていたのだ。
「あ」
俺はそのときになってようやく、昼休みに俺のそばを駆け抜けていった男子が瀬尾龍之介なのだと、姿と名が一致した。
掴まったのか。
自主的な可能性もあっただろうが、そんな人間が稀有なのは明らかだ。押しに弱そうな……人の良さそうな見目を見るにつけ、文につけ入れられたな、と自然に思ってしまった。
「えっと、南、君?」
「ああ……南野学だ。君は瀬尾だろ?」
「そっか。南野君か」
苦笑いを交わし合うだけで、文にかけられた苦労を分かち合えた気がする。
「墨田が押し切ったか?」
「僕が折れたんだよ」
「何をされた?」
文からのリアクションありきだと突っ込まれることは、承知済みであったらしい。龍之介はますます苦い笑いになった。垂れ下がる太眉が、人の良さを助長している。栗色の天然らしい髪と丸眼鏡も相俟って、柔らかい印象になっているのかもしれない。
「授業中に筆ペンで書かれた達筆の書が次から次に回されてきちゃってね」
「……すまない」
思わず、目を瞑る。
龍之介に届くまで、何人の手を経由しただろう。迷惑行為甚だしい。俺の憂慮が伝わったのか。龍之介がわずかに笑いを零した。
「大丈夫だよ。あまりの完成度にみんな楽しんでいたから」
言いながら、龍之介が次々に紙を取り出す。何の変哲もないただのルーズリーフだ。なんだったら罫線が入っているので、文字の邪魔になっているくらいの。だというのに、それは美しい書として成立していた。
多分、国語の授業中だったのだろう。目に付いた作品名や作者名、単語などがとりとめもなく書かれていた。ひとつひとつを捲っていく。これが授業中に回ってくれば、見応えがあるだろう。
俺だって、羨ましかった。
当人は練習やら落書きやら言うかもしれない。だが、これは龍之介のために書かれたものだ。俺に書いてくれるといった書は、果たされぬままになっている。
羨ましい。
こうして手元に置いておけるだなんて、これほど恵まれたことがあるだろうか。吐息が零れていたのは無意識だった。
龍之介はそれを呆れと受け取ったのか。追及されることはなくて、心底安堵した。
「それで、この元凶の娘はどこに行ったんだ?」
「せっかくだから、千秋ちゃんにも見せたいって言って出て行ったけど」
「もう書いた後か?」
「ううん。今から書こう、って話をしてたところだったんだ。南野君がそのうち来るだろうから待っててって」
「……なるほど。悪いな、見世物にしちゃって」
「それは構わないけど……書くだけで済むのかな? 僕は」
その言いざまは、逃れられないことを諦念しているようなものだった。そこまで弱気になることはない。そう思いこそすれ、文から逃れるのが難しいのは俺がよく分かっている。気休めは言えそうにもない。
龍之介もやはり覚悟していたのだろう。困り顔で肩を竦めるだけだった。
言葉のない交流に、妙な連帯感が芽生える。一方的だったかもしれないが、少なくとも俺は龍之介に共感した。
その緩やかな時間は、あっという間に途絶える。
足音の気配だけで気取らせるのだから、徹底していた。無駄な能力だ。そして、その異能力者が意気軒昂に登場した。
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