同部相救う②

「あ、南も来てた」


 にへらぁと締まりのない顔になる。

 後ろにくっついてきた千秋は事情が分かっていないらしい。大方、勢いだけで連れてきたのだろう。龍之介にもまともに千秋のことを説明していないに違いない。他人同士を引き合わせるのに、これほど不向きな人材がいるものだろうか。


「あ、クリスさん」


 知り合いだったのか。そう思ったが、千秋は当惑を見せていた。


「えっと……」

「ごめん。うちの学校の留学制度を使った生徒って珍しいからね。知ってただけ。驚かせてごめんね」


 抜かりのない説明に、千秋がほっと息を吐く。


「ハイ。気にしないでください。龍センパイであってますカ?」

「うん。合ってるよ。急かしてしまったみたいで、重ね重ねごめんね」

「カサネガサネ……?」

「えっと、そうだね。たくさん、ごめんね?」


 何気なく使っている単語の意味をいざ問われると困るものだ。書道における疑問は実技で解消できてしまうからどうにかなっているが、俺は千秋との会話が難しいと感じる。

 一応ではあるが、すぐに言い換えを行えた龍之介には感心した。

 文はそもそも、千秋のレベルとさして変わらない発言力だ。後はニュアンスで押し切っている。その辺りも勢いだらけだ。


「大丈夫ですよ! 龍センパイが書いてくれると聞いたので、わくわくで来ました」


 ぱっと笑顔を咲かせる千秋に、龍之介が微笑む。どうにも微笑ましい光景に癒やされたのは一瞬のことだ。


「じゃあ、早くやろう」


 文が場を急かして空気を入れ替えた。女子二人も龍之介のそばにやってきて、円形ができあがる。こんなに取り囲まれるなんて、気の毒極まりなかった。

 これでは気が落ち着くまい。それを察する力はあったが、身を引く親切心はなかった。龍之介がどんな字を書くのか。その興味があるのは、俺だって同じだ。


「それじゃあ、やらせてもらうけど、僕はまだ入るって決めたわけじゃないってのは分かってくれてるよね?」

「もちろんだよ」


 信用ならないとまでは言わない。けれど、これほど安請け合いという表現が似合うものもなかなかないだろう。

 龍之介は半ば諦めたように頷いて、筆を手に執った。

 それを見た文の雰囲気ががらりと変わる。おちゃらけた空気はなりを潜め、龍之介の手元に視線が集中した。それを追いかける俺も、もう視線を逸らすつもりはない。

 龍之介の腕が動いて、柔らかいタッチの筆がしなやかに踊る。穏やかな黒が白と調和していく。乱れのないバランスは見事としかいいようがなかった。

 文の書攻撃に誘引されたのだろうか。書かれた文字は芥川龍之介だった。流れるような書体は行書体で、それをするりと書くほどには書道をやってきたようだ。

 完成した文字を、文がキラキラと見つめていた。


「好きよ、龍」


 開口一番想いを告げられて、龍之介は面食らっていた。それがじわじわと解れて、真の意味に到達する。


「ありがとう」


 取り繕えないものだ。喜びは違えようはなく、龍之介は頬を上気させていた。


「君は何でも好きだな」


 決して、卑屈な気持ちで発したわけではない。

 続けている自分と、やめてしまった龍之介を同列に扱われたことへの嫉妬ではなかった。そこまで狭量ではないはずだ。ただ、口にした瞬間、若干の後ろめたさを覚えたのはそういうことだったのかもしれない。

 文が真っ直ぐにこちらを向いた。書と向き合うときの静かすぎる面にドキリとする。


「好きなものは好きだって言わないと、みんなずっとやってくれるわけじゃないもん」


 静けさはある種、寂しさと似ている。言葉はじわりと場に溶け込んで、心に染み込んできた。

 中学受験だと言った。部活動をするからと言った。塾に通うからと言った。やっとやめられると言った。そうして去って行った人たちを俺はよくよく知っている。

 ただ一人。ずっとやり続けた男は、うちの部の顧問になった。


「それを言われるとつらいものがあるね。僕はやめた側だから」


 沈黙に落ちた痛ましい声に、文がはっと表情を変える。落ち着きのない顔だ。まさか文のそんな顔に、心を落ち着ける日が来るとは思っていなかった。


「気にしないで! それはそれ。これはこれだもん。やってほしいのはあたしの我が儘だし、もっと好きなものが見つかっちゃったらそれは仕方のないことだと思う。龍はこうして書いてくれるんだもん。嫌いになってやめたんじゃなくてよかった」

「……そうだね」


 しんみりとした相槌は、嫌になっていないとは断言できない間であったのかもしれない。

 嫌になる。そうしてやめていった人も知っている。教室でやっていれば、気がつくときがあるものだ。

 自分より先の段位を軽々と進む同級生の存在に。自分より後に入ってきたものに抜かれていくときに。自分よりもずっと上手くて、背を脅かす年下の存在に。獲れていたはずの賞が手から零れ落ちていくたびに。

 限界ではないか、という現実にぶち当たる。

 それでも続けていれば、なんてのは乗り越えたからこそ言えることだ。そして、それは書家になるくらいの覚悟あってこそのものでしかないのかもしれない。

 どれだけ打ち込んでも習い事の域をでなければ、それは何を告げられてもどうにもならない。どんなに努力が無駄にならないなんて言っても、それは見えた限界を超えたいと思わせるほどの力を持たないだろう。進路がある。習い事にすべてを費やせなんて言えるわけがなかった。

 書道は……他の芸術もそうかもしれないが、少なくとも体感として、書道は極論孤独なものだ。

 自分の実力と向き合い、進歩していくしかない。自分が満足できなければ、それは物足りないものだ。少しずつ自分の理想に近付こうと、ただただ積み重ねていくしかない。

 先生や師匠。教え導いてくれるものはいるかもしれないが、最終的には己の力がものを言う。

 地味だ。地味にがりがりと削られていく。そんなとき、褒めてくれる人がいれば多少は変わるものだろう。

 それこそ文のように、好きだと。

 その支えは大きい。もしかすると、文にもそれを求めたことがあるのだろうか。のびのびと、俺の理想を体現しているものにも、そんな瞬間が。それを思うと、心の底がざわざわと落ち着かなくなった。


「もっと好きなもの、か」


 呟いた龍之介が、文を見据える。その顔はどこか憑き物が落ちたようだった。


「僕、漫研に入っているんだ。今はそれが一番好きだよ」

「そっか」


 文はこくりと頷いただけだった。

 そうして俯いた顔が、持ち上がってこない。その背中が侘しくて、胸がじくじくと痛む。とんと手のひらを背に添えると、陰った瞳がこちらを向いた。まるで迷子にでもなったかのような瞳は、文には似合わない。


「瀬尾」


 気づいたときには声が出ていた。直前の思考に煽られたのかもしれない。


「研究会なんだよな? 兼部は難しいか?」


 龍之介が意外な顔つきで俺を見ていた。文からも千秋からも同じような視線を感じる。

 そりゃ、そうだろう。俺は協力的には見えていなかっただろうから。今だって、さほど廃部だなんだにこだわっているつもりはない。やはり、感傷的になっていたに違いなかった。

 龍之介は顎に手を当てて俯く。


「……顔を出すのはそんなに多くなくてもいいなら、できないことはないけど」


 可能性をいち早く嗅ぎ取った野生児が、俺の腕に縋りついてくる。


「ひとまず、廃部にならなきゃいいらしい」


 伝聞口調を取ったのは、悪あがきだったかもしれない。龍之介の瞳がぱちくりと瞬かれた。


「そんなに危機的な話だったの!?」


 たったそれだけで、説明不足が説明される。

 縋りついてくる文をじろりと見下ろすと、ふいと視線を逸らされた。吹けてない口笛を吹くかのように唇を尖らせている。頭を片手でひっ掴まえてこちらを向けた。顔が小さい。


「追いかけっこだの書の絨毯爆撃だのをする前に事前説明できなかったのか、君は」

「パフォーマンスがしたいから人がいるんだって言ったよ?」

「肝心なのはそこじゃないよな?」

「大事なことに決まってるでしょ!?」

「優先順位を考えろよ」


 文は目をつり上げると、首を振って手から逃げてはそっぽを向いた。腕を組んで斜に構えたまま、不貞腐れる。

 はぁと大息を吐いて、気を落ち着けた。しかし、この心労は龍之介の同情を買うのに一役買ったらしい。


「本当に兼部でいいの?」


 という確認に、文が一瞬で機嫌を直す。言葉に釣られて、机に腕を突いた。乗り越えかねない勢いに、思わず首根っこを掴まえる。


「瀬尾の負担にならなければ」


 文がいる以上それは些か空々しいが、本心ではあった。無理をして欲しいわけじゃない。

 龍之介はしばらく考えるように目を伏せる。持ち上がった瞳に迷いは見当たらなかった。


「幽霊になる時期もあるかもしれないけど、それでもよければよろしくお願いします」


 のほほんと微笑んだ龍之介につられるように、空気が和らぐ。黙って聞いていた千秋までもが笑顔になった。

 それを正視するよりも先に、隣からタックルのように身体をぶつけられた。喜びの抱擁のつもりだろうが、それにしては手荒で苦しい。


「やった!! 龍、ありがとう!」

「俺にくっつきながら言う必要はないだろ」


 ぐいぐいと肩を押すが、びくともしない。何という馬鹿力か。女子相手であるから、自分が本気を出せていないだけだと信じたい。


「だって南が言ってくれたからだもん」


 まさか歓喜の理由が自分の行動にあったとは思わなくて困惑した。


「ありがとう。さすが、みなみ! さすなみ!」

「略はいらん」

「どこかのお兄さんみたいだね」

「ちょっと待て、瀬尾。どっから兄が出てきた?」


 怪訝だらけの俺に龍之介が笑う。


「最上級の褒め言葉だよ」

「いや、だからそれと兄に何の関係が……」

「最上級、とても嬉しいことじゃないですか?」

「そうだよ! さすなみ」

「だから、話を聞いてくれ。あと、君はいい加減離れてもくれ」

「いーやだよ」


 拒否し続けている俺の胸板にぐりぐりとすり寄ってくる。本人はただじゃれているだけだろうが、ふわふわと漂ってくるシャンプーの香りにはいかんともしがたい。

 揉み合いになる俺たちの姿に、千秋と龍之介が笑っている。こちとら、ちっとも笑えないというのに。

 こうして、てんやわんやの中、二人目。瀬尾龍之介の入部が決まったのだった。

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