墨飛び交うも多生の縁⑤
「南~~」
声と姿が飛び込んできたのは同時だ。
「転んだぁ」
姿を視認するよりも先に主張されて、全身を検分する。
墨につける原因だろう緩く結んだ髪の毛が、いつもより乱れていた。白くつるりとした膝に擦り傷を作って、血を滲ませている。大怪我ではないが、負傷は負傷だ。
「痛いよ、南」
うえーん、と涙目で訴えられて嘆息が零れる。
「なんでここまで上がってきたんだ。保健室に行けよ」
「だって!」
「分かった。分かったから、こっちに来い」
聞いたところで、とても理解できる言葉が返ってくるとは思えない。さっさと止めて対処したほうが早いだろう。文が入部してから四日。俺は既に文の扱いに観念していた。それだけ面倒さに振り回されているともいう。
室内に入ってきた文に先んじて、教室の後部にある流し台へ向かった。千秋には少し待って欲しいと声をかけておく。嵐のような状況に頷くしかないようだった。説明する気力もないのでありがたい。
「そこに座れ」
流しのそばの椅子を示すと、文はおとなしく従った。いつもこうあればいいものを。文句を胸に零れさせながら、ハンカチを濡らして文の前に跪く。
何で、俺が。
言うだけ無駄だと悟っている声を飲み込んで
「拭くぞ」
と声をかける。
「痛くしないでね?」
「知らん」
切り捨てて、膝小僧にハンカチを押し当てた。乾き始めた血を拭う。大きな傷ではないようだ。出血は止まりかけている。
ぐいと血を拭うと
「痛いよ!」
と大袈裟な悲鳴が上がった。
「優しくされたかったら、素直に保健室に行っておけばよかったんだ」
「だって南が頼りになるんだもん」
「俺は万能の猫型ロボットじゃないぞ」
「みなみえもん」
「語呂が悪い」
「じゃあ、わるなみ」
「何にかかってんだよ、それは」
「痛くするから意地悪な南でわるなみ」
「手当てしてやってやる思いやりを今すぐ返せ」
「そんな怖い目しないでよ」
「元々だ。大体、何をやった?」
絆創膏もないので、ハンカチを巻いて手当にする。これからは絆創膏を用意しておいたほうが……と自ら死地に乗り込むような思考が巡って気持ちが萎んだ。
「そう! それだった! 聞いてよ、南」
げんなるする暇も与えてもらえないらしい。つい今しがたまで痛みに呻いていたと思えない食いつきを見せられる。実はそこまで痛くなかったのでは? と疑いたくなった。
「あのね、うちのクラスに書道をやっていたって子を見つけたの」
星を飛ばすような顔でこちらを見下ろしてくる。顔を近付てくるのは文の癖なのか。前傾姿勢で迫られた。
「……それで?」
「勧誘するっきゃない! って思ったんだけど、それを聞いたのが放課後で、慌てて飛び出したら転んじゃった」
「声は明日でもかけられるだろ」
「だって早く集めたかったんだもん。まだノルマには遠いんだよ。ちんたらしてる暇なんてないんだから! 南だって、」
「だからって、怪我しちゃ意味ないだろ。手は? 傷ついてないだろうな」
勧誘に向きそうになった矛先を逸らす目的半分で、心配を口にする。文は自信ありげに両の手のひらを広げてこちらに見せつけてきた。
「この通り平気だよ」
「……赤くなってるじゃないか」
こちらに差し出された手首を掴まえて、よくよく目をこらす。文の自己申告などあてにならなかった。
「捻ったりもしてないな?」
言いながら、手首を返して確かめる。
「痛くないよ」
答える声に喚く気配がなかったので、ひとまずよしとした。手首を解放して顔を上げると、文は目を細めてくすぐったそうな顔をしている。
「何だよ」
聞くだけろくなことにはならない。分かっていたのに口が動いていて、臍を噛む。
「平気だよ。筆は持てるから」
俺が心配している真意を見事に突かれて、ぐうの音も出ない。
書道に関しては同じ思考回路をしていることを思い知らされる。
この四日。どれだけ勧誘に奔走していても、文が筆を握らなかった日はなかった。自分たちの中で書道の占める割合が多いことは、お互いに気づき始めている。
それぞれの世界に沈む時間は心地良いものだ。そういった部分まで見透かされたようで落ち着かない。
「……髪もぐしゃぐしゃだぞ」
話を逸らしたのは明らかだっただろう。その下手くそ具合には愕然としたものだ。しかし、文は気にならなかったらしい。こちらばかりが空回りしているようで釈然としなかった。
「それよりね、南」
呑気さは、いっそ腹が立つほどだ。文はやっぱりマイペースに続ける。
「あの子はだぁれ?」
「あ」
すっかり頭から抜け落ちていた。咄嗟に立ち上がって、千秋に目を向ける。千秋は手を持て余してこちらの様子を窺っていた。
「すまん。待たせたな」
「イイエ、そんなことは」
ふるふると首を左右に振る千秋に、肩の力を抜く。文に気を取られて忘れていたなんて申し訳がなかった。
千秋の元へ戻ろうとすると、文の指先がくいくいと袖を引く。それだけで説明を求められていると理解できてしまったことに気が滅入った。
「一年の千秋クリス。入部希望だそうだ」
大輪のひまわりが咲き誇るように笑顔が綻ぶ。華やいだ空気のまま一直線に飛び出していこうとするのを、額を押さえて引き止めた。千秋を文の被害者にしてはならない。
文は行動こそ収めたが、その威勢のオーラはまき散らしたままだった。
「千秋ちゃん! 外国人さん? 書くのが好きなの? あたしは大好き!! 一緒に楽しもうね」
遠慮ゼロ。端から壁を取っ払った好意的な態度に、金色の睫毛に縁取られた翡翠の瞳が瞬く。勢いに気圧されているのだろう。しかし、文はお構いなしだ。あ、と手を叩いて発言を重ねる。
「あたしは文! 墨田文! 気軽に呼んでくれていいからね、千秋ちゃん。もしかして書くところだった? 邪魔しちゃってごめんね。分からないことがあったら何でも聞いてくれていいからね。この南がちゃんと説明してくれるから!」
「全任せにするのはやめろ」
即応すると、千秋がふっと笑いを滲ませた。
場を和ませるつもりなどなかったが、千秋の気が抜けたのなら重畳だ。文の勢いに苦手意識を持たせたくはない。文のためではなく、千秋のためだ。先輩に絡まれるのは、身が縮こまるだろう。
「南は頼りになるからね!」
「君の尻拭いをするつもりはないからな」
何故か自分のことのように自慢げに言う文に釘を刺して、千秋の元へ移動した。すぐ後ろに文が張り付いてきているのは分かっていたが、それを抑制する根気はない。
「書くの?」
わくわくと口を出してくる。
「ああ。初めてだそうだ」
「それはいいね。わくわくだね、千秋ちゃん」
そういう文のほうが、よっぽど胸を弾ませているようだった。しかし、その開けっぴろげな態度が、千秋にはよかったらしい。
「ハイ! わくわくです」
二人揃ってにこにこと笑い合っている。
千秋も文のパワーに気圧されていると思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。同じようにはしゃいでいる姿はよく似ていた。文のほうがよほど幼く見えるのはご愛敬というものだろう。
「じゃあ、書こうか」
「ハイ」
満面の笑みを浮かべて頷く。書道を楽しんでくれようとしている姿は、悪い気はしない。
「まずは持ち方からだな」
「持ってみて、千秋ちゃん」
「まず教えろよ」
「持ってから直してみせたほうが早いよ」
「執筆法は考えるべきだろ。単鉤法か双鉤法か……」
「いっぱいあるんだから気にしたってしょうがないじゃん」
「基本は抑えるべきだ」
「書くときにいちいちそんなこと気にしないでしょ。案ずるより産むが易しだよ」
「そのためにも方向性は決めるべきだろう」
「頭でっかち」
「行き当たりばったり」
千秋を間に挟んで、文とやり合う。書に向き合えば、千秋の反応に気を配る余白もなくなった。最終的に、千秋に口論を収められてしまったのだから情けない。
何はともあれ、こうして三人目となる千秋クリスが書道部に加わったのだった。
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