情は半紙の外②

 あのまま書道室に居続けることもできずに、教室を出た。とはいえ、他に行くあてもない。校内での行動範囲の狭さには苦笑もでなかった。

 しばらくあてどなく廊下を徘徊してから、屋上へと向かう。特に理由があったわけじゃない。ただ階段を上りきってしまっただけだ。

 重い扉を開け放つと、風の塊にぶつかられた。ぶわりと通り抜けていく風圧を感じながら、外へ出る。屋上の扉はこんなにも重く、屋上はこんなにも開放的なものだったか。

 前のときは、そんなことを感じる余裕もなかった。身体中で突進するかのように扉を開けたし、状況をよくしたい思いに雁字搦めになっていた。

 考えていたのは、文のことだけだ。それだけは今も変わらないな、と失笑が零れる。このまま笑い飛ばせたのなら、どれだけ身軽になれるだろう。

 莉乃にぶつけられた言葉たちと、昨日の文が脳内を駆け回っていた。

 あのときは怖さしかなかった屋上の縁に近付く。足元にも縁があると分かっていると、恐怖は湧かない。俺はそこに腰をかけて、足をぶらぶらと遊ばせた。

 涼しい風が前髪を揺らす。心地が良い。もう少しのびのびとした気持ちで感じたかったものだ。叶わないことを悔やむ余裕もない。

 漫然と見上げた空に、白い雲がたなびいている。一本すーっと飛行機雲が伸びていた。その線ひとつで、文の線を反芻してしまうのだから、イカれている。これだけ拘泥し、心酔し、魅入られているというのに、よくもあんなことを言えたものだ。

 昨晩から幾億回も――違う。一瞬たりとも離れなかった思考が、今もまだ大声でがなり立てている。

 口にしたことを反省したとしても、本心であることには違いないのだ。どう折り合いをつければいいのか分からなかった。そうして、落とし所を探している自分に気がつく。

 俺は文と仲直りがしたいのだろうか。

 部員なんて必要ないと思ってた。パフォーマンスがやりたいわけじゃない。だったなら、このままでも構わないのではないか。折り合いなど、つけずともよいのではないだろうか。

 フェードアウトしてしまえば、それで俺は自由だ。パフォーマンスに煩わされることもなくなる。さもしい嫉妬に溺れてしまうこともなくなる。俺は俺の書だけと向き合っていられる。悪いことはひとつもないのではないか。

 そう考えられているのに、割り切れない自分がいる。

 同じ空間で筆を振るっている文の姿がチラついて離れない。視界の中心に居座っているわけでなかった。けれど、その存在感は確かにある。いつもそこにあった。たった数ヶ月だというのに、当たり前になっている。

 それを手放すのが惜しい。その時間をなくすことが惜しい。疎ましくありながらも、敬遠することはできない。

 文の書と、文へ向いている感情は非常によく似通っていた。

 ふーっと肺の中の空気を吐き切る。どうしたいにしたって、謝るしかないのは分かっていた。

 思い立ったが吉日、と文のように走り出せたらどんなにいいだろう。こんなときでも、俺は文を羨まずにはいられないのだな。こんなにも心を占められているなんて、呆れてものも言えない。代わりにおかしくなってきて、くつくつと笑いが零れた。


「壊れたか?」


 やにわに割ってきた声にビクついて黙る。狼狽えながら振り向くと、扉の前には秋生がいた。


「何してんだよ」

「……そっちこそ、どうしたんだよ」

「教師にタメ口はやめろって言ってるだろ?」

「どうしたんですか、佐十先生」

「気持ち悪いな」

「言いたい放題だな」


 自分から改めるように仕向けておいて、罵倒するとはなんと卑怯なやつだろうか。睨みつけてやると、緩く肩を竦められた。余裕綽々な態度が癪に障るが、これは自分に余裕がないだけだと感情を抑える。


「墨田さんと喧嘩したんだって?」


 抑えた感情がざわざわと蠢いた。

 秋生はいたって世間話をしているような顔をしている。そりゃ、突くほうは痛くも痒くもないだろう。特に秋生は現場に居合わせていなかったものだから、殊更に気まずいこともない。


「そんな立派なもんじゃない」


 八つ当たりをしでかした自覚はある。文が応じたからと言って、喧嘩と呼んではいけないような気がした。


「殴り合う寸前だったと聞いたぞ」

「反省してる」


 どんなに男女平等といっても、俺と文じゃ体格がかなり違う。手を出そうとしたことは、本気で反省していた。


「まぁ、それはいいんだけどな」


 教師としてそれはどうなのか。どんなに苛立っても暴力はいけないだとか。ありきたりの定型句ではあるけれど、形だけでも言っておけばいいものを。


「そんなことより、俺はお前がそんなにムキになることに驚いてる」


 自分でもムキになっているのに驚いている。文のことを諦めきれない自分に勝手が狂っていた。

 秋生は驚いていると言いながら、どこか嬉しそうにしている。どういう感情なのか分からずに、顔を顰めてしまった。


「お前の周りにはいつも一緒にやってくれるやつなんていなかっただろ? 一人で書いてばかりいた。お前と同じくらいのテンションで書いてるやつがいなかったってのもあるんだろうけどな、仲間ができないことに何も思っていないみたいだった。でも、墨田とは一緒にやれてるんだもんな」

「……他の連中だっていますよ」

「都合が悪くなると敬語になるよな、お前は」


 意図していなかった言葉遣いの指摘に、ぐっと喉を詰める。


「墨田さんとは遠慮なく話せるだろ?」


 臨書も蘭亭序も永字八法も四君子も、何の説明もいらなかった。当たり前みたいに会話が成立する。

 秋生の言葉にすれば、一緒にやれる人物だった。


「墨田さんと学はよく似てるよ」

「またか」

「何が?」


 同じようなことを言って寄越したのは、莉乃だ。そりゃ、秋生には通じやしないだろう。俺は首を左右に振って、何でもないと示した。

 どんなに複数人に告げられても、俺と文が同列なんておこがましいことは思えそうにない。


「ああ、誰かにも言われたか?」


 秋生が考えついたように言う。俺は無言を貫いておいた。秋生のことだ。都合よく取ってくれるだろう。今回はそれが正解なので、やはり無言でいる他なかった。


「とにかく、お前らが書いてるときの顔つきは本当にそっくりだよ。楽しそうだ」


 文の横顔を思い出す。

 自分があれと同じ顔をしている? そんなもの見えるわけもないから、知る由もない。そして、信じられない。文と同じくらい自由に。そんなふうに書けている自覚は少しもない。俺はあそこまで純白な気持ちでいられていないはずだ。

 俺が納得できていないことに気づいているのか。それでも、秋生は普段通りの口調で続きを紡ぐ。


「やっと同じ立場で一緒にできるやつが見つかったんだな、学」

「……そんなんじゃない」


 莉乃相手では黙っていられた弱音が出たのは、秋生だからだっただろうか。

 どんなに煩わしく思っても、ずっとそばにいた兄貴分だ。導いてくれたなんてことはひとつもなかった。けれど、それでもずっとそばにいた近所のお兄ちゃんだった。


「馬鹿だな、お前は」


 お兄ちゃんは、いつものように笑う。敵わない。

 いつか追いつきたいのだと、書道の面でも憧れていることを、この面倒な男は知らないだろう。言うつもりもない。その男がからりと当然のことのように告げた。


「心からの喧嘩は同列のやつとじゃないとできないんだよ」


 それが世界の理かなんて正誤は関係なかった。

 ぐわっと心が揺れる。それだけで十分だった。

 自分が文を認めていること。文に認められていること。ともにやりたいと願っていること。そのすべてが身体中を巡って、矢も楯もたまらなくなる。

 立ち上がって駆け出したのは、ほとんど反射だった。なるほど。確かに文と似ているかもしれない、と愉快な気持ちで走り出す。

 秋生は何も言わずに笑って俺を見送っていた。やはり敵わないものだと思いながら、書道室へと駆け下りる。部室には誰もいなかった。俺は荷物を手早く回収して校内を出る。

 まだ、その辺りにいるはずだ。文は電車通学だから、最悪どこかに居残っていても駅で待ち伏せていれば掴まえられる。学校と駅の狭間にある自宅をスルーしてでも、一刻も早く駅へと向かわなければ。

 近頃、本気で走るのはいつだって文のためだな、と苦い気持ちになった。

 下校中の生徒の波を縫って走る。自分の家まであと少し、というところで前方に目的の影を見つけた。

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