情は半紙の外③

「墨田!」


 見つけた瞬間、何も考えずに叫んでいた。衆目を集めるのもお構いなしの俺に、多くの目が集まる。文もぎょっとした顔でこちらを振り向いた。

 そして、俺は早くも後悔していた。

 叫んだはいいが、その後のことなどノープランだったし、見つめ合っている俺たちから注目の目が去って行かない。

 そんな中、沈黙してしまったものだから、重大な打ち明け話――告白ではないのかと様子を窺われているのだ。こんな中で謝罪でもしようもならば、修羅場確定確実である。そんなものは勘弁だし、そうでなくても道端で話す内容ではない。

 活を入れて、文に近付いた。いつもは気楽だったそれに、息を整えて臨む。手首を掴んでも、文はきょとんとこちらを見上げているだけだった。

 俺が悪いようにするとは少しも疑っていない顔だ。昨日あれだけのことがあったというのに、迂闊極まりない。ただ、今はありがたいので注意はしなかった。何より、やっているのは俺だ。

 周囲の好奇心が膨張しているのを肌で感じる。一目散に、この場を辞したかった。


「来てくれ」


 伝えたのはそれだけだ。

 そう言って、文の腕を引いて歩を進めた。どこに向かうかなんて決めていなかったものだから、足は自然に自宅へと進んでいく。頭は回っていなかった。

 こんなときに限って、文も静かで従順なものだから、問題なく自宅へと辿り着いてしまう。門の前に立ち止まったところで、


「南?」


 と、文がようやく声を出した。怪訝しかないその顔を見下ろして、ここまで掴まえっぱなしだった腕を放す。


「……入るか」


 他にどうしようもなかった。というか、思いつかなかったのだ。文が拒否すれば立ち話でもすればいい。そんなことを後付けで考えていた。


「うん?」


 まったく流れが読めていないのだろうに、曖昧に頷く。こいつは大丈夫なのか。一度書道を離れると、どうしてここまでポンコツであるのだろう。しかし、言ってしまったのは俺だ。引くにも引けず


「行くか」


 と呟いて門を潜った。

 今日の文は、昨日のようにはしゃがずについてきている。


「……教室へ行かないの?」


 進んでいる方向の違いに気づいたのだろう。だが、今日は教室が開いている。


「今日は使えない。母屋だ」

「そっか」


 事態を正確に把握はできていないだろうに、相槌が返ってきた。ここまで神妙だと、何を考えているのかまったく分からない。……本心はいつも分からないけれど。

 そのまま会話もなく母屋に入り、自室へ案内する。祖父母は教室だし、両親は仕事だ。


「あ」


 と呟かれて足を止めると、文は一点を見つめていた。


「蘭だ」

「四君子だからな」

「南の家はこっちでも墨の匂いがするね」

「いいだろ」


 ずっとそうだったので、自分ではもう分からないけれど、他でもない文が言うのだからそうなのだろう。

 墨をぶちまけられたときの匂いが思い出されたが、存外悪い気はしなかった。どんなに文を認めていても、思い出補正が効き過ぎではなかろうか。自分の頭がここまで単純だとは知りたくなかった。いや、単純でなければ、こんな行動にも出ていないか。

 仲直りが必要だとしても、部屋に連れ込む必要はまったくなかったはずだ。人のことを迂闊だ何だと言えた義理はないのかもしれない。


「いいね。安心する」

「気を抜き過ぎだろ」

「なんで?」


 何の問題があるのか、とばかりの緩い声だ。男の家だぞ、とは俺からは言えなかった。馬鹿をしたな、と悔いる点が増えていく。そんな思いを抱えながらも、部屋へと辿り着いてしまった。

 文はじっと待っている。だから、こんなときばかり行儀よくするなよと思いながら、部屋の扉を開いた。

 電気をつけると


「和室だ!」


 と声が上がる。


「日本家屋だからな」

「キレイにしてるね。さすなみ」

「普通だ」


 部屋でも書くために場所を開けておきたいから、片付けているだけだ。

 そして、部屋を見渡していた文が動きを止める。視線が一点を見つめて、目玉が零れ落ちんばかりの顔をしていた。


「……これ」


 ゆっくりと腕が持ち上がって、その一点を指差す。やっぱり失敗したな、と後悔の念が強くなった。二日続けてこんなことに陥りたくはなかったが、どちらも自業自得なのだから始末に負えない。

 ふぅと息を吐いて身体の力を抜いた。


「……俺は、君の字が好きなんだ」


 文が見つめているのは、文が書いてくれた南の書だ。

 もらったそれを額に入れて部屋に飾っていた。毎日、これを見る。嫌いになるなんてことはない。

 今朝ですら、なかった。


「昨日は、悪かった」

「……あたしも、ごめん」

「君は何も悪くないだろ」

「殴ったもん」


 それ以上の過失はなかったと言えるだろう。能力を寄越せと迫った自分の過ちのほうが、問題だった。

 ただ、文はそう考えないらしい。人がいいことだ。自分にとっては好都合ではあるけれど、気は咎める。

 文は俺の元へやってきて、頬へと触れようとしてきた。だが、少し高かったらしい。背伸びをしないと届かないことに、むっと膨れていた。それでも、諦めない。その触れ方は、手首を怪我したときの再来だった。

 そして、そこは昨日引っ張ったかれた箇所だ。


「ごめんなさい」


 そこまでされてしまったら、立つ瀬がない。触れられている手のひらにそっと触れる。


「ごめんな、墨田。ひどいことを言った。君の文字は君のものだから、こんなにも鮮やかな魅力に溢れている。分かっている。ごめん」

「あたし、南が好きだよ」


 知ってる。

 文字が、という単語を省いていることも。

 相変わらず、肝心な言葉が足りない。


「俺もだよ」


 肝心なことは伝えなかったが、それで構わなかった。


「……一緒にやろうか」


 パフォーマンスを。

 省いた言葉は届いたのだろう。

 精彩を欠いていた瞳に、ようやっと光が戻った。感極まったように笑み崩れた顔が、胸元へと押し付けられる。掴まえていたはずの手のひらが離れていって、ぎゅうと身体を掴まえられた。相変わらず、力加減がでたらめに強い。

 降参を示すように、目下にある頭をとんとんと撫でるようにタップした。

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