第五筆
情は半紙の外①
今まで生きてきた中でも、気分の悪さは最上だ。胃がムカムカするし、頭はへどろのように重い。昨日はよく眠れなかったので、一日中ぼーっとしていた。そして、その不調は放課後になるにつれて、悪化の一途を辿った。
こんなにも淀んだ気持ちで放課後を迎えたことは未だかつてない。いつも書道の時間が待っていることに胸を弾ませていた。毎日のように書ける。その環境を喜んでいたくらいだ。
今はそれこそが苦悩のタネになっているのだから、世話はない。もう何度目になるか分からないため息が落ちた。それほど嫌気を吐き出しているはずなのに、身体の重さはちっとも楽にならない。
習い癖のように書道室に向かう足取りも、異常に重かった。
何かに取り憑かれていると思ったほうが、よっぽど気が楽なのではあるまいか。それほどまででありながら、行かないという選択のできない自分の見苦しさがしんどい。いっそのこと全部投げ出してしまえればいいのだろう。
実際、俺は書道部という形にこだわっていたわけではないのだし、わざわざ顔を出す必要はない。さっさと帰ってしまえばいいのだ。そう強く思っているにもかかわらず、足が止まることはなかった。優柔不断だ。
そして、それを極めたのは書道室の扉の前に立ったときだった。ここまで来てしまったのだから、後はもう教室に入るだけだ。帰る決意もできぬのだから、そうするより他にない。
だというのに、扉に手をかけたままフリーズしてしまった。
こんなところで立ち止まっていてもいいことはない。誰かに腑抜けた態度を見られれば、今よりもずっと気まずいことになる。
文が来るかもしれない。そんな鉢合わせは避けたかった。
しかし、同時に、中に文がいるかもしれないとも思う。そう思ってしまうから、扉を引くに引けない。
その時間はどれほどだったか。起こって欲しくないことは、起こって欲しくないときに起こってしまうものだ。
「学君?」
躊躇いがちに呼ばれた声に振り返る。莉乃が困った顔で立っていた。
「……すみません。邪魔でしたね。すぐ入ります」
ここに来て、見つかってしまったら逃げ場をなくしてしまうのだと気がついたが、覆水は盆に返らない。俺はすぐさま扉を開けて中へ入った。
中には誰もいない。小さく安堵して、荷物を置く。いつも通りを心がけようとして、ぎくしゃくしてはいないだろうか。
莉乃はあとから入ってきて、チラチラとこちらの様子を窺っている。文とは一等気まずいが、他の部員だってさほど変わらない。
やはり帰るべきだった、という思いが強まった。どうして書道室に入ってきてしまったのだろう。
「……学君。昨日のことだけど」
「変な雰囲気にしちゃってすみませんでした」
悪いと思っているのは本当だが、突っ込んで欲しくもない。触れられるには、傷は癒えていなかった。
莉乃が困却している。しかし、それをどうにかしてやろうという気持ちは湧かなかった。余裕は戻ってきていない。
吐息を深く零す。手を動かすべきかと思いながらも、こんな気持ちでは書けそうにもないという感情も湧いた。
書けそうにない。
そう思ってしまったことに怯んで、絶望した。自分の乱され具合を新たに突きつけられた気がする。
「墨田さん。すっかり憔悴していた」
出し抜けに零されて、惰性で動かしていた手を止めた。目を向けると、眉を下げながらも強い眼差しが注がれる。
「一緒なのね」
「……何がですか」
本当に意味が分からなかった。頭は少しも回っていないらしい。
莉乃が物悲しい顔をした。そんな顔をする理由も分からなくて、疑問は膨れ上がる。
「あなたと墨田さんは一緒だわ」
繰り返されたところで謎は解けない。もどかしさに眉を顰めると、莉乃はどこか自嘲めいた笑みを浮かべた。
「書道のことしか考えてなくて、一生懸命。だから、あんな喧嘩になるのよ」
「……八つ当たりですよ」
そうだ。
結果として、喧嘩の様相を呈していただろう。けれど、始まりは俺の醜い嫉妬心から始まっている。文は売られた喧嘩を買っただけだ。手を出されたので、文に非がないというつもりもないけれど。
「そう? 私はあなたたちの喧嘩の苛烈な気持ちは分からないけれど、どっちもどっちだったわ。喧嘩両成敗よ」
「だとしても、似ているなんてことはありませんよ」
莉乃に肩を持たれなかったことには安心していた。我ながら根性が悪いが、許されないことで罰を受けているつもりになれる。それから解放されたくないというのも、ある種惰弱な甘えだろう。
「似ているわ。書道に一筋なところ。そして、お互いの文字が大好きで尊敬しているところ」
文への羨望を暴き立てられて焦った。だが、そこには知らない情報が加算されている。
文が俺の字が大好き?
そりゃ、好きとは言われたが、龍之介や秋生のそれと何が違うのか。驚愕して、ろくな反応ができなかった。唖然と莉乃を見つめる。莉乃はしょうがない子だとばかりに呆れた顔をした。
「二人とも集中すると周りの音が聞こえなくなるでしょ?」
「はぁ」
その集中力を否定はしない。頷きはしたが、納得や理解が及んでいたわけではなかった。
莉乃は引き続き呆れた顔で俺を見る。ここまで続けられると、自分が無知であるような気がしてくるものだ。
「だから、その間の会話を聞いていないのよね、学君は」
つまり、その間に文が何か言ったということか。ようやく話の一部くらいは読めた。しかし、道筋は不明瞭なままで、俺は聞き役に徹しておくことしかできない。
「墨田さん、いつも言ってたわ」
回顧するように、目が遠くを見る。そこに文の姿を見ているのだろうか。
「南の文字はとってもキレイだって」
「……綺麗なだけじゃダメですけどね」
皮肉にも、制御は効かなかった。昨日の余波だろう。まったく余計な影響力だ。
「私たちが行き詰まっていると言うの。南の字を信じていれば大丈夫だって」
お手本のようであるから。練習するにはちょうどいいものであるから。
そんなふうに理由を練り上げて、文の言葉の信用を遠ざける。信じたくないわけではない。しかし、卑屈な心がそれを阻止していた。
「こんなふうに基礎ができている人は尊敬する。私にはできないからって」
できずとも、文には文の確固とした
「南の才能だって」
余計なことを言わぬように、奥歯を噛み締めた。
「墨田さんは学君のこと、本当に大好きなのよ」
「……誤解を招く言い方をしないでくださいよ」
茶化すように凌いだ言葉に、莉乃が緩く笑う。そして、それをひっそりと収めた。
「羨ましいわ」
文の言葉をぶつけられて、既に十分混迷の極みにある。そこに与えられた莉乃の感想に、キャパシティはぶち壊れてしまった。ただでさえ働いていなかった頭が完全に堰き止められる。
一体何を羨むというのか。こんなみっともない醜態を晒しているというのに。
「二人が羨ましい」
そう呟く莉乃の横顔は、どこか寂しそうに見える。そんな寂寞を見せる理由が分からない。俺が戸惑っていることは分かっているだろう。しかし、莉乃はそれ以上の説明をしてくれなかった。
「好きなものがあるっていいね」
と笑って切り上げられる。
それが誤魔化しだと、気がかりはあった。内実は別のところにあるのではないか、と。けれど、莉乃は俺が逡巡する合間に空気を切り替えてしまった。
挙げ句、
「生徒会の仕事があったのを思い出したわ」
とそれこそ言い訳のように紡いで教室を出ていく。引き止めることもできずに、取り残されてしまった。
莉乃の放った文の言葉が空っぽの部屋を飛び回っている。こんなものまで元気でいるなよ、とは自己逃避だっただろう。
人伝だろうと、捻くれていようと、紛れもなく嬉しい言葉だった。
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