書の道⑤

 文が大きな深呼吸をして、ボウルと筆を持つ。息を吐き切ると、同時に騒がしさまで排出されたようだった。凛と澄み渡った空気が文から匂い立つ。ぴんと張り詰めた清らかな空気の中、文は和紙に向き直っていた。

 生唾を飲み込む。これは、空気に圧倒されたのか。文の緊張感が伝染したのか。その美しい情景を渇望していたのかは分からない。判別も下せぬまま、俺は無心で文を見つめていた。

 小さな身体だ。筆に振り回されてもおかしくはない。それでも、文は揺らがぬ芯を捉えているように筆を振るう。

 紙の真ん中。まずは目星をつけたかったのか。勢いなのか。予定通りに書の字を描いていく。自由奔放に形になっていく黒い線から目が離せない。仕上がっていくたびに、息が詰まっていく。

 苦しい。

 感激だけであるなら、どれだけ穏やかでいられただろう。羨望でも足りない嫉妬が沸き立つようだった。

 痛い。

 それを抑え込むように、胸元のシャツを握りしめる。

 千秋が感動するかのように胸の前で指を組んでいるのが、視界の隅に入っていた。その素直さが、より一層自分の劣等感を自覚させる。

 しかし、視線を引き剥がすこともできなかった。俺は多分、文が書いている限り、文から目を離すことができない。

 書を中心に五枚の花びらのように文字がバランスよく配置されていく。本能的なものだろうか。積み重ねてきた経験によるものだろうか。どちらにしても、自分との差ばかりが浮き彫りになるものだ。

 他の部員も慄いているようだった。

 文はそんな様子を気にも留めない。意識にも上っていないはずだ。黒曜石のように光る真摯な瞳と、楽しげに盛り上がった頬。それが如実に表していた。書道のみに意識が向いている。

 感じ取れてしまうことが煩わしい。感覚には共鳴できたとしても、その腕を手に入れることはできない現実に打ちのめされそうになる。

 そんな感情に揺れ動かされている間にも、文のお手本は刻一刻と完成へと近付いていた。誰も彼もが息を詰めて、それを見守っている。

 跳ねるように動く文は、いつもの賑やかな姿と大きく変わらない。それなのに、受ける印象はまるで違う。躍動する生命力を線のひとつひとつに宿していく。それはいっそ、厳かな行為にすら思えた。

 荘厳。尊く、美しい。

 その最後の一本が像を結んで、文が筆を置いた。

 その瞬間、ほうと息を吐き出したのは一体誰だっただろうか。他の部員であったような気もしたし、文本人だったような気もした。己自身だったかもしれない。

 間が開いたのは寸刻のこと。一番に動いたのは文だ。こちらを振り向いた顔は、やりきったとばかりに晴れ晴れとしていた。


「どうかな?」


 隠しきれない高揚感が溢れ出している。

 しかし、こちらは気圧されてしまって、それどころではない。その温度差は歴然としていて、どれだけ空気を読むことに斟酌しない文でも、感じ取れてしまうものだったようだ。


「変?! ダメだった?!」


 そりゃ、出来上がった作品を前にして半端な反応をされようものならば、悪いほうに取るだろう。慌てふためいた文に、苦い空気が充満した。


「違うよ、墨田さん」

「あっとう? 驚き? ビックリ! してます」

「すごい完成度だと思うわ」


 すぐにカバーするように口を開いた一同に、文は少し気を落ち着けたようだ。

 しかし


「でも」


 と千秋が続けたところで、文は表情を曇らせた。


「ワタシたちで再現するのはムズカシイです」


 それはまだ、控えめな表現であったかもしれない。

 それほどまでに、文の作品は完成されたものだった。

 お手本などとは厚かましい。自分たちの存在は必要がないものだ。難しいのではない。手は貸せない。貸す必要が見当たらなかった。

 龍之介と莉乃も千秋と同じ気持ちなのだろう。フォローを口にすることはなく、その態度で文にも悟る部分があったようだ。

 くしゃりと表情を歪めた文が、こちらを仰ぎ見た。縋るような目つきに、喉の奥が引き攣る。


「南も?」


 どうして言外の言葉を聞き取れてしまうのだろうか。南ならできるのでは? とその顔が言っていた。苦いものが胃から込み上げてくる。表情を取り繕うこともできなかった。

 文の顔色が変わる。


「……無理だ」

「どうして?」


 歯に衣着せずに突き刺してくる言葉に心臓を狙い打たれた。

 どくりと嫌な反射が音を立てて、何かが吹き出す。それは、妬みや嫉み。閉じ込めておかねばならぬようなものだっただろう。


「俺は君とは違う」

「そんなの当たり前でしょ?」


 そうだ。当たり前だ。だからこそ、できないと言っている。馬鹿でも分かるような簡単な話だろう。


「南はあたしとは違う字が書けるじゃん」


 違うというものが批判でないことくらい、冷静な部分で分かっていた。だが、冷静さは黒く覆われてしまっている。それを払い除けるだけの理性はなかった。


「だから、だろ。だから、君の文字を書くことはできない。これは無理だ」


 まだ、不条理なことは言ってないはずだ。それを拠り所にして、そこに立っていた。


「なんで?」

「だから、」

「一緒にやるって言ったじゃん」


 愚直な眼差しが、ひどく尖っている。その鋭さはいつになく過激だった。


「やらないとは言ってないだろ」

「無理だって言った」

「あれを求めるなら無理だと言ったんだ。自分の実力をすべて注ぎ込んで、全身全霊で渾身の一作を作り上げたいのなら、君一人でやればいいだろ」

「それじゃパフォーマンスにならないじゃん!」

「だったら、足踏みを揃えることも考えろ」

「南もあたしと一緒にはできないっていうの?!」


 声のボリュームが大きくなる。感情の昂りは手に取るように分かったが、窘めようなんて気概は微塵も浮かばなかった。面倒だということよりも、怒りのほうか強い。


「みんな言うの! あたしは上手いんだから、みんなと別のやろうねって、いいことみたいにどんどん新しいことさせてくる。あたしはみんなと一緒にやりたかったのに!!」


 今までになく激烈な訴えだ。

 文がパフォーマンスにこだわる片鱗が明かされる。その感情が発端なのは分かったが、だからなんだという冷ややかさが身体中を支配していた。

 上手いから?

 上手いから。

 そうして目をかけられてきたのではないか。教室と個人の相性問題など、知ったことではない。気の毒ではあるかもしれないが、結局は文の能力の問題だろうと心が叫んだ。


「人より抜きん出ていることはいいことだろ」

「望んだわけじゃない!」


 頑固になっているだとか。視野が狭まっているだとか。そんなことは分かっている。だが、なけなしの理性は外れていた。


「望んで手にいられるものじゃないそれがあるから君は書ける」

「だから、何?! 能力がなくても書けるもん」

「持っていなかったときもないくせによく言えるな」


 持たざるものが、それをどれだけ求めているのか。持っているものには理解できやしない。

 睨むように見据えた文は、噛みつかんばかりの顔をしていた。いつものような小動物の威嚇などではない。もっと切迫した、飢えた獣のように牙が剥かれていた。


「好きで持ったんじゃない!」


 わっと喚かれた声の塊に、ぱんと何かが消し飛んだ。


「そうかよ。だったら、捨てればいいだろ!」

「できないって分かって言ってるじゃん」

「貸してくれると言ったよな?」

「力になるってことでしょ?! 曲解しないでよ!」

「いつも君がしていることだ。元からそのつもりだったなら、くれよ。それ、寄越せよ」


 睨み合う距離はかなり近い。それも気にせずに食ってかかる。


「そんなに言うなら持っていけばいいじゃん! ほら! どうしたら取れるか知ってるんでしょ?!」


 両手をこちらに突き出して睨み上げられた。そんな方法あるはずもないことは明白だ。

 黙った俺に、文の視線はますます鋭くなる。人を射殺せそうな眼光だった。


「ほら! やれよ! やればいいでしょ!」


 作られた拳が、胸板をぽかぽかと殴ってくる。殴り方はコミカルだったが、力はままあった。


「できないんじゃん!」

「そんなにいらないなら、やんなきゃいいだろ!」

「やめろって言うの?! 南が言うの?!」

「俺が言うのが何だよ。いらないんだろうが!」

「同じだと思ったのに!」

「俺とお前は違う!」

「書道が好きなのは一緒でしょ?!」

「好きだから、何だよ!」


 その純情だけではやっていけない。好きであることは否定しないが、好悪は表裏一体だ。


「それだけで書けるわけねぇだろ」


 同じだけ、嫌になることもある。


「だったら、そっちがやめればいいじゃん」


 殴っていた手のひらが胸ぐらを掴んできた。相変わず、突発的にぶつかってくるやつだ。


「苦しいんでしょ?! やりたくないなら、やめればいい。違う?! あたしはやりたくてやってるんだもん。嫌々ならやめればいいんだよ」


 がくがくと身体を揺さぶられる。


「やめろ」

「やめないよ!」

「そうじゃなくて……!」


 身体の軸がブレて、眩暈がしそうだった。やめて欲しいのは書道の話ではない。こんなに揺さぶられてはたまらなかった。


「ぐだぐだ言うなら、南がやめればいいんだ!」


 跳ね飛ばすように離されて踏ん張った瞬間。ばちんと情け容赦ないビンタが飛んできた。


「南なんて知らない! わからず屋! 下手くそ!!」


 下手くそ。言われた瞬間。拳を振りかぶっていた。


「うるせぇ」

「待って待って待って! グーパンはシャレになってないから!」


 今にも殴りかかろうとしたところで、後ろから龍之介に羽交い締めにされる。文のほうも、千秋と莉乃が掴まえていた。文はじたじたと暴れている。

 こちらは思いの外力強いパワーに押し込まれていた。物理的に止められて、少しずつ理性が戻っている。しかし、もうすべてが手遅れだった。

 不意にすっと暴れるのをやめた文は、千秋と莉乃を振り払って


「帰る」


 とだけ零して去っていく。

 追いかけられるほど、気持ちは回復していない。三人の戸惑う視線が飛び交っている。顔を覆って、状況から目を逸らした。


「悪い。みんな、帰ってくれ」


 たったそれだけで、すんなり納得してくれるとは思っていない。それでも、それ以上重ねる言葉はなかった。

 三人も口を開けないようだが、帰るにも踏ん切りがつかないようだ。それは放っておけない気遣いではあるのだろう。だが、そんなものを受け取る心の余裕はなかった。


「……そのままでいいから、頼む」

「……分かった」


 絞り出した願いは届き、三人はそろそろと窺うように教室を去って行った。

 気配が消滅したところで、どっと力が抜ける。吐き出した呼気には、気力が根こそぎ詰まっていたかもしれない。その場に腰を下ろして、髪を掻き乱す。

 伏せた視線の先に、文の書があった。ぎゅっと鼻頭に皺が寄る。

 恋い焦がれる文字だ。部屋に飾ってあるのとはまた違う荒削りな魅力が、そこには描き出されていた。苦々しい口論が蘇ってくる。


「くそったれ」


 こんなものは、嫌いだ。何もかも嫌いだ。

 どこまでも純正で、汚れを知らない。自分の才能を驕らない。好きであることを憚らない。この蠱惑的なほどの美麗さも、何もかも。

 嫌いだ。

 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。

 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。

 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。

 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。

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 ……そう心の底から思えたら、話はもっと単純だっただろうに。


「ふざけるなよ」


 俺は本当に、どうしようもないほどに――




 心の底からそれを愛していた。

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