書の道④

「かなり決まったんだって?」


 扉を開いて顔を出すなり確かめられた。秋生はこんなにパフォーマンスに乗り気だっただろうか。文と二人きりの時間に何か話したのだろうか。すぐにそこへと繋がった自分の思考に舌打ちを打ちたくなった。


「文字の雰囲気も大体な」

「ズルい。どんなふうになったの?」


 ズルい論法は謎極まりなかったが、そこはスルーする。ひとつの会話で、みっつもよっつも返ってくるし、くだらないところへ伸びるのも度々であるから、そのすべてに対応していたらキリがない。


「墨田は合わせられるだろ」

「うわぁ! 高評価だ」

「珍しいな」

「何がだよ」

「お前が人の腕をそんなにすんなり褒めるのは珍しいだろ」


 わざわざ褒めるほど、一緒にやってきた人間がいない。文の実力は明らかであるから、褒めるのも必然というものだ。自分がどこまでも惚れ込んでいることは伏せて、当然の顔で取り澄ましておいた。


「とにかく、部費とかの話なんだよ」

「紙だろ? 試しの設計図を見せてくれ」


 どこか茶化す雰囲気だったものがなりを潜める。気を引き締めれば、きちんと教師に見えるものだ。いつもそうしていれば、秋ちゃん先生という不本意なあだ名は消えていくだろうに。

 文の下書きのような半紙に目を向けた秋生は、顎に手を当てて沈思黙考する。その横顔は、書道に向かう精悍なものだった。目を惹くほどに格好が良く、書道教室でも女子に注目されていたものだ。

 まさかそのものたちと同じように見惚れているわけでもあるまい。つられたように真剣な顔で秋生の言葉を待つ文は、その秋生によく似て見えて目を伏せた。誰かに見咎められたわけでもあるまいに、考えているのだというポーズを保つ。


「確か、パフォーマンス用の用紙が売りに出されてるはずだから、そこから選ぶってのはどうかな? 後でホームページでも確認してみよう。その中のどれかってのは書いてみないと分からないだろうけど……練習場所はどうするつもりだ?」

「ここで……」


 当然のように答えた文の言葉は途切れ、一堂に教室の広さを見渡した。

 長机と椅子が並ぶ講義室として整えられた特別教室。後部はそれなりに開けているし、移動させればスペースの確保はできるだろう。

 しかし、毎度その準備に時間を消費していてまともな練習ができるのか、という疑問は拭えない。片付けの時間も考えれば、ますます時間はなくなる。それも全員揃ったときに、と考えると、時間と場所の都合が悪い。


「できないわけじゃないでしょ?」


 パフォーマンス自体を諦めなければならないかもしれない危惧に、文が進言する。それが苦しい主張だということは、文自身も分かっているようだ。全員が苦い顔になった。


「多目的ホールとか使えないですか?」


 諦めたくないのだろう。こんなときの文の思考はとても早い。秋生に投げた問いに答えたのは、学校に精通している莉乃だった。


「吹奏楽部が使ってる。文化祭のステージに立つのは同じだから、譲ってもらえるかは分からないわね」

「他に使える場所ないかな?」


 全員が場所に熟慮する。莉乃が最も頼りになるだろうと視線が集まった。


「学の家はどうなんだ?」


 その注目を無視して投げられた秋生の案に、ぐるんと視線がこちらを向く。文の瞳がギラギラと艶を放っていた。

 余計なことを、という気持ちが拭えない。


「使えるの?!」

「教室だから、許可がないと無理だ」

「教室だったの?!」


 うなぎ登りする文のテンションが手に余る。辟易しつつ頷くに留めた。無駄口を叩いて、付け入られたくはない。


「すごい! だから南は基本がとってもキレイなんだね」

「墨田も教室に通っているんだろうが。何も違わない。すごくない。普通だ」

「血統だったんだね!」

「無関係だ」


 祖父は書道家だが、父はただの公務員だ。血は関係がない。


「でも教室なのは事実だろ。いつも開いてるわけじゃないし、空いてるときは使わせてくれるんじゃないか? 先生に聞いてみるだけ聞いてみればいい」


 悪いとは言い出さないだろう。秋生も予測できていながら言っている。じいちゃんの性格すら把握している昔なじみとは厄介なものだ。

 文がその気になっている。


「聞いてみるだけなら」


 そう答えた心情が、パフォーマンスの条件を飲んだときと重なった。つまり、文の願いが叶う予兆だったのだろう。





「早く早く!」


 週に二度だけ、教室を使う許可が下りた。

 あれから各々で練習を重ね、今日は教室を使える一回目だ。文化祭までは一ヶ月を切った。七回か八回が、本番と同じ大きさで練習できる回数だ。気合いが入るのも分かる。

 だが、行く先を知らぬくせに先頭を行く文の威勢には、ほとほと呆れ返った。練習するより前に体力を使うのはやめて欲しい。せめてこちらの体力を削ろうとしてくるのはやめて欲しかったが、願いは叶えられないものだ。


「南、どっち?」

「次を右に入ってすぐだ。慌てなくても逃げないぞ」

「時間はなくなるよ!」

「だからって一人で急いだって仕方がないだろ」


 文だけ先行してもどうにもならない。俺の家ということもあるし、他の部員を置いていっては意味がない。文は頬を膨らませながら、せめて先頭で我慢するかのように進んだ。

 門の前に立つと


「ほへー」


 と間の抜けた声を上げる。


「立派な門構えだね」

「日本家屋、ステキです。Beautiful」


 文に続いて零されてる感想には苦笑した。確かに立派ではあろうが、俺の持ち物ではないのだ。言うべき言葉は見つからなくて、感想は流した。


「どうぞ、入ってくれ」


 案内を口にして、先んじる。後ろから足音がついてきているのを聞きながら、離れにある書道教室に足を向けた。


「うわぁ。池がある。ししおどしも! 石畳の庭園なんて雰囲気あるね。竹も梅も菊もあるんだ」

「蘭も家に飾られている」

四君子しくんし揃ってるんだ! 水墨画もやられる先生なの?」

「祖母がやってたんだ」

「一家でやってるんだね」

「親世代はやってないよ」

「南は先祖返りだ」

「ちょっと違うだろ。もういいから、行くぞ。書くんだろ?」


 庭への興味が高まっていた文の意識を焚きつけた。その効果は覿面だ。向かう先にある家屋へと走り出す。

 その爪先が石畳に引っかかるのを見てしまって、手が伸びていた。いつもの癖で首根っこを掴んでしまったために、文が潰されたカエルのような声を上げる。すぐに手を離すと、文はたたらを踏んで姿勢を正した。


「ちょっと?!」

「はしゃぐな! 転ぶところだっただろうが」


 粗暴になったことは、悪いと思っている。だが、怪我を未然に防いだことに変わりはない。そのことに文句を言われる筋合いはなかった。


「怪我したいのか?」


 まだ不服そうな文を見下ろして言いつけると、しめやかに黙り込む。俺の怪我のことを思い出しているのは確実だ。


「気をつけていきましょ」


 空気を読んだ莉乃の促しで、移動は再開された。

 既に疲れが湧いてくるのを押し殺して、教室を開け放つ。墨と紙の匂いが広がって、書道の香りがした。

 文が大きく息を吸って、清々しく笑う。考えていることが手に取るように分かって、苦笑してしまった。

 書道の空間には、胸が躍るよな。


「ここなら、すぐに始められるね。ありがとう、南野君」

「俺は話しただけだから」

「許してくれた家族としてお礼は受け取っておいてよ。お礼だけにわざわざ時間を頂戴するのも申し訳ないしね。時間があるならご挨拶に行くけど」

「いや、いい。大丈夫だ。お礼はちゃんと伝えておく」


 家族と友人を改めて引き合わせるのは気恥ずかしさがある。回避できるのならそれに越したことはなかった。龍之介たちならまだしも、文を引き合わせるのはちょっと怖い。色んな意味で。


「それじゃあ、始めましょうか」

「大きな準備、わくわくしますね」

「やったらもっと面白いよ!」


 口々に会話をしながら、準備をしていく。筆も硯がわりのボウルも和紙も、運ぶのに苦労してきた。文鎮や下敷きは教室のものを貸してもらえるようにしてある。一式揃えるだけの準備はすぐに終わった。

 改めて用紙の前に立つと、その大きさがよく分かる。数多くの作品を書いてきた俺でも、書いたことのないサイズには驚きがあった。それは、慣れていない三人ともなれば、怯むほどのものであったらしい。


「書けますか?」

「これはちょっと躊躇っちゃうね」

「難しいのは分かっていたけれど、目の前に現れると紙だけで圧倒されるわね」

「文字が書かれればまた変わってきますよ。真ん中の書は墨田が書くんだろ? 俺たちの出番はそのあとだし、大丈夫だ」

「先行く者がいればってこと? 簡単に言うなぁ」

「練習なんだから、一思いに書いちゃえばいいんだよ」


 俺よりもよっぽど脳天気な声に、三人が視線を交える。アイコンタクトは外から見ても混迷だと分かった。


「お手本を書いてもらえませんか? 文サン」


 代表したのは千秋だ。全員の意見だったかは定かではないが、いい考えだと思っている様子ではあった。文はぱちくりと目を瞬く。


「あたしでいいの?」


 その疑問は、半分俺に向けられていた。しかし、念を押したのは千秋だ。


「お願いします。雰囲気を掴みたいです」


 その熱心さに押されたのだろう。文は俺の答えを聞くこともなく、


「分かった。任せて!」


 と笑って腕まくりを始めた。


「墨田」


 と声をかけると、止められると思ったのか。文は恐る恐るこちらを向いた。

 どれだけ文句をつける男だと思われているのだろうか。文の挙動が原因なので、勘違いするのは勘弁して欲しい。


「髪もちゃんと結べ」


 大きな書を書くのに、緩い二つ結びは心許なかった。シャンプー所持の件を思い出しても、不安は募る。

 きょとんとする文を手招きすれば、そばにやってきた。まったく意味が分かっていないだろうに、指示に従う軽率さと言ったらない。俺に悪意があったらどうするつもりなのか。

 そんな不毛な持ち合わせはないので、すぐに目的へと移った。ヘアゴムを解いて、手ぐしで梳く。滑らかな指通りをいくらか堪能して、髪をひとつにまとめていった。


「手慣れてますね」

「妹がいる」

「器用なものだわ」

「慣れですよ」

「さすなみだね」

「やめろ」


 さくさくと集めてお団子にしてしまう。長さがあるので、綺麗な仕上がりになった。


「ほら、できたぞ」


 我ながら手早いと自負した完成を、文はぽむぽむと触れて確かめている。


「どう?」


 鏡がないものだから、状態が気になるのだろう。そわそわと調子を窺う。俺を視界の中央に収めているのには、疑問しかないが。


「……いいんじゃないか」


 示し合わせたように誰も答えないものだから、代表して口を開く。自分の腕を褒めるのも変だし、文の外見を褒めるのも柄ではない。無難な答えに、文が不貞腐れる。

 文句が出てくるより先に


「さ」


 と、手を叩いて空気を入れ替えた。


「書いてくれるんだろ?」


 促せば、文は瞬く間に食いついてくる。チョロいものだ。

 そして、そんなふうに書く気満々になっている文に、こちらも心が浮き足立つ。チョロいのはどちらだっただろうか。

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