第三筆

艱難汝を書にす①

 一週間の謹慎を聞いた文の嘆きといったら、そりゃあもう見ていられなかった。ただ、莉乃の入部と期日の延長という朗報で、どうにか均衡は取れたらしい。

 そして、俺の手助けをすることを決めた文は徹底していた。部活に向けていた体力と勧誘で使っていた威勢をまるごと俺に注いできたのだ。

 朝も昼も放課後も。文は俺の行く先に、ことごとく現れた。神出鬼没もいいところなので、正直怖い。自分の行動が筒抜けになっているのではないかと慄く。厚意なのは分かっているが、加減を覚えてほしい。

 そう何度も訴えたが、そのたびに寂しそうにされる。その悲しい目は、あの日ごめんなさいと泣いたものと同じで、俺は何も言えなくなってしまうのだ。そんなふうに隙を見せてしまったら最後、四六時中つきまとわれることになった。

 挙げ句の果てに、あまりに一緒にいるので交際を疑われる始末だ。

 勘弁してくれと悲嘆に暮れた俺は、怪我と文の関係性を周りに説明した。原因であるから、気に病んでいる。だから、好きにさせているのだ、と。それが信用されたかどうかは怪しい。本心では、照れ隠しだと疑われているような気もしている。

 実際、満更でもないだろう、と声をかけられたりもした。可愛い子が世話を焼いてくれるんだから、と。俺は自分と周囲との、文の見え方の違いに愕然としたものだ。本気で羨むならば、変わってくれと言ってしまいたかった。

 もちろん、手の自由が利かないところをフォローしてくれるのは助かる。それを根本から邪険にするつもりはない。身体は楽だ。

 しかし、精神はちっとも休まらない。

 人の荷物を持ったまま、走って先んじる文がどこに行ってしまうのか。人とぶつかるのではないか。転んで怪我をするのではないか。どうしてこんな心配をしなくてはならないのか。看病されているほうだというのに、心労が半端じゃない。

 文はどんなに言っても落ち着いてくれないので、注意するのも疲れる。書道をしている時間がないものだから、本当に手がつけられない。

 それでも、どうにか無事に謹慎を乗り越えた。

 書道室に足を踏み入れたときの俺の開放感が分かるだろか。やっと書に向き合える。文の気が逸らせる。書を書くことで手首の回復を見せれば文もようやく落ち着いてくれるはずだ。

 見るまでは安心できないと、湿布を外してからもつきまとわれていた。それも今日でおしまい。その開放感に溺れて、いくらか浮かれていただろう。

 書道室への道すがら文につきまとわれても、今日ばかりは気にならなかった。並んで書道室に入ると、墨と紙の匂いに満たされる。安穏に浸っていると、文が深く息を吸い込んでいた。


「いい匂い」


 てらいはない。心のままの発言なのだろう。

 心で同意して、俺は道具の準備を始めた。はっとしたように、文も手を動かし始める。書こうとし始めれば、落ち着きを取り戻せるものらしい。文は書いてさえいれば、やはり理想である。

 静かな時間を感じながら、ともに準備を進めた。書に意識を沈めるまでの集中力が高まる時間。

 普段なら、謹慎中でも家で書いていただろうから感慨はなかっただろう。だが、手首の怪我を抱えていた。本当に久しぶりのことで、気が昂る。

 このまま、と筆を執ったところで、足音が眼前に転がり込んできた。


「……なんだよ」

「手首の確認」

「気が済んだら自分のことに戻れよ」

「うん」


 面倒だが、素直ではある。文は俺が書くのを黙って見ていた。深呼吸をひとつ。再び書への集中力を高めていけば、文の目も気にならなくなった。

 すべてを置き去りにして、白紙の世界に飛び込む。久々の世界はひどく愉快で、手が止まらない。何枚ほど書いただろう。まともに数えてもいない。一時的に気が済むまで書いてから、手を止めた。

 休憩にするつもりはなかったが、書から目を離して初めて、文がいなくなっていることに気がつく。

 ぐるりと室内を見回せば、一心不乱に筆を振るっている文がいた。よそ見なんて一瞬もしない。息をしているのか怪しむほどに、人間の音が排除されている。筆先が和紙をなぞる小さな物音しかしない。

 書き出される文字を見たくなって背伸びをすると、美しい輪郭が浮かび上がっていた。何度だって魅了され、呼吸を忘れる。

 悔しいと思うのは、鬱陶しい相手を理想と思ってしまうことに対してだろう。そうであって欲しかった。決して、憎いほどの羨望のせいではない。そう言い聞かせて、目を逸らす。答えが分かっていながら、書の中へと逃げ込んだ。

 どうせ文は俺の感情にも行動にも気がつきはしない。

 そうして時間は矢のように過ぎ去った。次に扉が開くまで、ゆうに一時間近くは経っていただろう。現れたのは秋生だった。


「お前らだけか?」


 そう声をかけられて、俺はようやく部員が増えていたことを思い出した。

 そういえば、と記憶が広がっていく。文も同じだったようだ。しかし、その反応は俺とはまるで違う。


「みんな、どうしたんだろう? 秋ちゃん先生聞いてますか? 南は?」


 俺としては人が来ないのが普通だ。幽霊部員だっていた。そういうもんだと思っている。

 しかし、文は違ったらしい。一気に騒ぎ立てられて、眉を顰めた。


「俺は何も聞いてないよ。学は?」

「墨田でさえ知らないことを俺が知ってるわけないだろ。みんな、それぞれ忙しいんじゃないか」

「えー、せっかく書けるようになったのに?」

「クリスだって馴染みのないものだっただろうし、他の二人は同好会と生徒会。それぞれ二足のわらじなんだから仕方がないだろう」


 龍之介も莉乃も、同情して名を貸してくれただけのようなものだ。言葉通り、来なくとも仕方なかろうと思っていた。

 にもかかわらず、文は憤懣やるかたないという顔になる。


「そんなの困るよ! パフォーマンスはどうするの?!」

「部活内容を決めたつもりはないぞ」

「考えるって言った!」

「今俺が考えたところで他の三人がどうしたいかは別だ」


 うやむやにする俺に、文はますます強硬な顔になる。

 この一週間。サポートの中止を申し入れたときにも、散々目にした顔だ。いっそ取り違いであってほしい。強情になった文を撥ね除けるのに、体力を使いたくなかった。せっかくの時間を無駄に消費したくない。


「秋ちゃん先生権限で招集かけられないんですか?!」

「それはできるけど」

「やったところで、これから先もずっと来るって保証が得られるわけじゃないだろ」

「部員じゃん!」

「瀬尾も鈴鹿先輩も、名前を貸してくれただけのようなもんだ。わがままを言うなよ」


 部員が部活に来るのは本来当たり前のことで、文の言い分は間違っていない。

 けれど、うちの状態は今、他の部とは違う。廃部を回避するためだけの布陣でしかない。ただの協力者であるから、強制はできないだろう。


「やめられたら元も子もないんじゃないか」


 つまりは、そういうことだ。そうでもしないと、我が部は成り立たないのだから仕方がない。文も廃部は困るのだろう。ぐぬぬと歯噛みをした。


「じゃあ、千秋ちゃんは!」


 自発的に入部してくれた子だ。そこを突かれると御し方が分からない。秋生に助けを求めようとしたところで


「呼びましたか?」


 とイントネーションに個性のある声が割ってきた。

 絶好のタイミングに勢い良く振り返る。それが三人分であったものだから、千秋は目を真ん丸に見開いていた。


「何か問題がありましたか? ワタシ、何かしました?」


 あまりの威勢だったからだろう。千秋が目に見えて狼狽した。


「遅いねって話してただけだよ! 千秋ちゃんは来てくれたから、でかした!」

「デカシタ?」


 千秋がきょとんと首を傾げる。まだ知らない単語も多くある千秋との会話は、こんなふうに止まることがよくあった。しかし、それは仕方のないことで、悪いことだとは思っていない。

 それに、千秋が疑問を抱いてやむを得ない程度には、文の言い回しは荒技だ。感性で喋るので、語順や使い所が無茶苦茶なことがある。今回もその類だった。そして、何より手に余るのが、文はこの千秋の問いを気にかけないことだった。

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