有終の掛け軸を飾る④

 南野学という男は、真面目で純朴な少年だった。

 本人は純朴などという清らかな評価はむずがるだろうが、しかし、書道に対する態度はそう表現する他にないものだ。

 幼いころから、学はずっとそうだった。

 多くの生徒は、大体親の勧めで書道教室へとやってくる。学なんてのは、それこそ実家であるのだから、親の関わりで入ってきたのだろうと思っていた。

 しかし、学はその他大勢とは違った。他の誰よりも夢中で字を書いていたのだ。

 そりゃ、他の生徒だって、不真面目ばかりだったとは言わない。上手く書けるようになる達成感はあっただろうし、級が上がるのをゲームのレベル上げ感覚で楽しんでいただろう。少しの面白みもなければ、早々に嫌になって投げ出しているはずだ。

 実際、そうしてやめていったものを多く知っている。そして、その最初のハードルを越えたとしても、いずれやめていくものだということも。

 徐々に自己を持って、好きなものを見つけていく。そうでなくても、受験などの喫緊の問題が優先されていく。そうして、ともにやっていくものは減っていくのだ。その中で、学は著しく純朴に書と向き合っていた。

 そして、だからこそ、あいつはひとりぼっちに慣れていた。

 それが悪いとは言わない。ひとりであっても、夢中になれるものがあるのは決して悪いことではない。可愛い弟分がそうして書道の腕を上げていくのを朗らかに見守っていた。

 だが、思わずにいられないことはあった。

 こいつにも仲間ができはしないものか、と。いつか、独りに行き詰まったときに。相談できなくてもいい。甘えられる相手でなくてもいい。ほんのわずかでも、学を理解してくれる人がいれば。そう思わずにはいられなかった。

 自分では隣に寄り添うことはできない。たとえどんなにそうあろうとしたところで、学は俺を年上の存在としてしか見ないだろう。同列な同志になるには、兄貴ぶり過ぎた。

 そして、俺は今や教師だ。教えることはできても、隣に並び立つのは難しい。

 だから、何者か。学のそばにいる人間がいればいいと思っていた。思っていたが、一人でなんでもできてしまう器用さを持っている学の相手になれる人間は、そういないだろうと諦めてもいた。

 独りに慣れた、頑なな少年の相手。

 書道にしか目がなく、かつて一度だけ付き合った彼女にも愛想を尽かされていた。そんな男だ。

 いいやつだと太鼓判を押すことはできる。若干気難しいところはあるが、性根は真っ直ぐだ。だが、いかんせんというやつで、困った生徒であった。

 しかし、その子は忽然と現れたのだ。まるで学のために誂えたような女の子。

 墨田文。

 彼女は学よりもより顕著に書道を楽しんでいた。そして、望むような腕を持っていた。

 学が墨田さんの文字に魅せられているのはすぐに分かった。俺だって、目を見張ったものだ。だが、学のそれは度外れていただろう。その一目惚れのような状態は、分かりやすくて笑いそうになるほどだった。

 そして、墨田さんもまた、自分と同じように書道に向き合う存在に惹かれているように見えた。

 二人はよく似ている。

 一度、俺が書いているところに、墨田さんがやってきたことがある。彼女は、楽しいのが一番だとてらいなく笑っていた。一切の迷いがない。俺はそれに肩を竦めて答えるに留めた。

 楽しいだけ。それだけで書ける存在のなんと稀有なことか。学の同志になりえる人間だと思った。仲間になりえる、と。

 だが、そのとき俺はわずかに危惧も覚えたのだ。もしかすると、墨田さんの純度は学を苦しめるかもしれない、と。

 しかし、意に反して、五人となった部活動は精力的に動き始めた。ついには、あの学がパフォーマンスをやる覚悟を決めたらしい。……墨田さんに流されていただけかもしれないが。

 だが、学が人とやることを選んだ。それは成長であり、墨田さんの影響だろう。俺は喜んで見守っていた。

 それでも、喧嘩をするまでになるとは思わず、想像以上に二人の距離が縮まっていたことに驚いたものだ。まぁ、喧嘩の内容はちっとも笑えなかったが。呑気に様子見なんてしていたら、本当に取り返しがつかないようなレベルの喧嘩だった。

 もちろん、それができるほど、学は墨田さんに心を許しているのだろう。それは分かったが、放置は好ましくない。声をかけた学は、やっぱり成長を感じさせるものだった。

 そして、墨田さんを手放せなくなっていることにも気づく。仲間になりえるだろうという予想は、より深い共鳴にまで到達しているようだ。少し水を向けると、学は墨田さんの元へ向かってしまった。

 そうして、何を話したのか。二人は元通り。……より心を通わせて、パフォーマンスに取り組むようになった。

 クリスさんとも鈴鹿さんとも瀬尾とも、ひとつになれたようだ。知らぬ間に、書道部として形を成していたらしい。顧問として何もしていない手落ちは苦いが、自主的にまとまったことは誇らしかった。

 鈴鹿さんも瀬尾も忙しい間を縫って、書道室に通ってくれている。得がたい人材を獲得したものだ。人を導く力のある鈴鹿さんと、一歩引いて周囲を見られる瀬尾。今回のことに二人の存在は必要だっただろう。

 学と墨田さんは、二人でもなくなっていたようだ。

 日々は刻々と過ぎ去っている。用紙の用意以外は見守りばかりになる俺は、思いついて、らしくもないことをした。

 つなぎは五人分。背中に自らの手で書という文字を刻んでもらうように注文する。文化祭ギリギリに届いたそれは、何やら胸を満たした。

 思えば、俺とて一人でやってきた。学とは違い、理解して支えてくれるものはいたが、一緒にやってくれるものはいなかった。

 今も、一緒にやっているとは言えないだろう。だが、部活動を通して、それを追体験している。尊いものだ。素直にそう思う。

 俺は気概ばかりの代物を持って、リハーサルを終えたばかりの生徒の元へ向かった。

 リハーサルは入退場の確認のみで、実際に書くわけではない。舞台の状態や、道具の準備時間の確認だった。明日の本番前の最終確認。それを終えて書道室に集まっている五人の元へ向かう。

 扉を開くと、五人の視線が一斉にこちらを向いた。さすがに本番前日のこの時間ともなれば、練習はしていない。

 とはいえ、書き上げた用紙を黒板に貼り付けている。未だに相談なり分析なりしていたのかもしれない。


「どうしたんだ? 秋ちゃん」

「これでも顧問だぞ」

「これでもっていうくらいなんだから、自分でも珍しいのは分かってんだろ」

「本番前なんだから、珍しいことがあってもいいだろ?」

「センセー、思い出させないでください」


 ぽつんと零したのはクリスさんだ。表情筋が死んでいる。


「今から緊張してるの? クリスさん」

「当然ですよ!」


 見上げてくるクリスさんは憂い顔だ。初めて見る表情に、意外性を覚える。

 ひとり海外留学にやってきて、及び腰になることもなく楽しんでいる。授業は大変そうだったが、それでも楽しそうだった。憂うこともあるものか、と当たり前のことに気がつく。


「心配しなくても、かなり上達してるよ。いつも通りで構わないさ。クリスさんは楽しみじゃないの?」

「そんなわけないじゃないですか。でも、それとこれとは違う? ってヤツです」


 クリスさんは、留学してきた当初もかなり語学に堪能だった。しかし、この数ヶ月で更に語彙力をつけている。学生の能力とは馬鹿にできないものだ。


「大丈夫。あとは神に願うしかないもんだ」

「そんな、なんとかなるみたいな下手なアドバイスがあるか」

「大丈夫だからね、千秋ちゃん。あたしと楽しめばいいんだから!」

「君はもう少し落ち着け」

「えー!! ついに明日なんだよ! 落ち着いてなんていられないよ!」

「失敗したくないのなら、おとなしくしろ。全校生徒の前で墨をぶちまけたくはないだろう?」

「失礼だな、南! あたしのことなんだと思ってるわけ?!」

「書道馬鹿」

「えっへへ〜」

「褒められてないよ、墨田さん」


 瀬尾の突っ込みに、墨田さんがぱちくりと瞬きを繰り返している。学が心底呆れた目をしているが、書道馬鹿など人に言えたものではない。指摘するとまた雑談が長引きそうなので、俺は本来の用件に取り掛かることにした。

 ダンボール箱を机に載せると、墨田さんがわくわくと近付いてくる。他のことをすっぽり放り出して目新しいものに飛びついてくるところが、落ち着きのなさを表していた。墨田さんの落ち着きのなさは、明日だの本番だのに左右されるものではなさそうだ。


「なぁに? 差し入れですか?」

「まぁ、大枠では。開けていいよ」


 ぱっと輝いた顔が、すぐさま行動に移る。微笑ましい子だ。学も、この純粋さの前では頑固で居続けることができなかったのかもしれない。


「ジャージ?」

「つなぎじゃないか」


 一緒に覗き込んでいた学が、すぐに訂正を入れる。つなぎを広げたのは学だった。学が手にしているのは青色で、クリスさんが赤を、鈴鹿さんが緑を手にしている。


「ジャージと同じで学年ごとにしてあるんですね」

「一色でよかったんじゃないか」

「いいんだよ。これは俺の自費だから」

「どうしたんだよ、珍しいな」

「ひどいこと言うなよ。初めてに珍しいも何もないだろ」


 俺自身が学生の時分にも、教師として関わるようになった現在も、部活動で一丸となって何かをしたことはなかった。もしかすると、俺も舞い上がっているのかもしれない。


「文字、入ってる! 秋ちゃん先生、書いてくれたの?!」


 キラキラとした瞳の迫力には、いっそ怖じ気付いてしまいそうになる。この眩さにくらまされた学の気持ちも分からんでもなかった。


「本当に珍しいな」

「佐十先生の字、初めてちゃんと見ました」

「圧倒されますね」

「ステキです!」


 一様に褒められて、くすぐったくなる。生徒の羨望を受けるのはいいものだ。天狗になる気はないが、誇らしくはあった。何しろ、この子たちは学と墨田さんの文字に慣らされている。それに認められるのだから、くすぐったさは桁外れていた。


「着てみていい?!」


 聞きながら、墨田さんは足をつなぎに突っ込もうとしている。その素早さには目を剥いた。


「待て待て。どう着るつもりだ」

「フツーに」

「君は羞恥心を持てと前にも言っただろう」

「あのときは学が脱いだんじゃん」

「止めてる意味は一緒なんだよ」


 むぅと墨田さんが膨れる。

 二人で着替えるシチュエーションに陥った状況が気になって仕方がない。他の三人もアイコンタクトで疑問を交わしあっている。しかし、当事者たる二人はまるで気にした様子がなかった。ナチュラルに会話を続けている。


「学は真面目なんだよ」

「だから、そういう問題じゃないと言ってるんだ。君はストリップの趣味でもあるのか」

「なんでそうなるわけ?! 先生が着るために作ってくれたんだから、着るでしょ?」


 ぎゅっと青いつなぎを胸に抱いて、墨田さんは学を見上げる。うるうると上目遣いで見上げられた学は、うっと一瞬喉を詰めた。それを見逃さなかったのは、俺だけだったようだ。

 墨田さんは気づかずに不満顔で学を見続けている。学は深く吐息を零して、仕方がないという態度を取った。取り澄ました仕草に、笑ってしまいそうになる。女慣れしていない学にとって、墨田さんのペースはなかなか翻弄されるものなのだろう。可愛い弟分だ。


「せっかくなら、明日にとっておけばもっと特別な気持ちになれるんじゃないか」

「特別!」

「本番なんだから、そっちのほうがいいだろう?」

「うん!」


 大きく頷いた墨田さんが、つなぎを畳んで元へ戻す。


「みんなお揃いだね」


 にこにこと告げる墨田さんに、全員が笑みを浮かべた。墨田さんは学の仲間としてだけではなく、全員のつなぎ役にもなっているらしい。

 その和やかさに心を緩めて、その日は解散となった。

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