有終の掛け軸を飾る②

 昨日の私の言葉は、力になったのだろうか。

 埒もなく考え続けてしまう自分のいじましさには、苦笑してしまいそうになる。こんなにも、ひとつのことに思考を割く。それも、恋心と混ざり合った懊悩をするとは思ってもみなかった。

 そのことが、私は後ろめたい。

 だって、きっとクリスさんたちとは違うことを、私は心配している。

 クリスさんと瀬尾君が二人のことで悩んでいるのであろうことは、昨日の様子からも明らかだ。けれど、私は二人ほど清廉な気持ちで心配できているだろうか、と思わずにはいられなかった。

 学君と墨田さんの仲直りを願っているのは嘘ではない。二人が元のようにともに書に向かい合う日々が戻ってくればいいと思っている。学君にとっても、それが良好な状態だと言うことは分かっていた。

 心を叩きのめすかのような言葉を投げつけていても、日頃の態度が雑であっても、学君が墨田さんのことに目を配っていることは瞭然としている。

 彼にとって、墨田さんは惹かれてやまない存在なのだ、と。

 それが恋や愛なんて物事と結びついていると、簡素に考えてはいない。それは複雑な多面体をした感情であるのだろう。

 しかし、その内容は問題ではないのだ。

 主題は墨田さんを特別視しているというところにある。

 私は、決して自分が学君と近い距離にいたとは思っていない。せいぜい顔見知りで、多少は気安い先輩程度のものだっただろう。それでも、学君とそういう態度で接せられるものは少なかったから、貴重な立場ではあった。

 何度かは部会の終わりに私を手伝って、生徒会室まで書類を運んでくれたこともある。立ちくらみに足が竦んだときに、肩を支えられたこともあった。

 たったそれくらいだ。けれど、それは緩いものであればこそ、ある種で確固たるものであっただろう。……そう思ってしまっていたのだ。

 私はなんと浅はかであったのか。

 ある日突然現れた、嵐のような陽だまりのような少女が、その立場を一息に無価値なものにしてしまった。

 学君の唯一とも呼べる立場に、彼女はあっさりと収まってしまったのだ。彼女は決して意図したわけではない。そして、彼も意識しているわけではないのだろう。知らず識らずのうちに、彼らは二人の世界を作り出していた。

 それを羨ましく思わないほど、私は無感情ではない。無感情ではないなんて易しい言い方で収まるどころではなく、心を掻き毟られているような思いに駆られた。

 それを見続けることになる場所へ身を投じたことは、馬鹿なことであっただろう。

 しかし、私は知らぬままではいられなかったのだ。自分の知らぬことがあるのが嫌だなんて。そんな一歩間違えればストーカーのような内心があるとは、自分でも慄いている。

 けれど、やっぱり看過できないほどに、墨田さんの存在は異質だったのだ。

 そして、私はそれを目の当たりにすることになってしまった。どうしようもないほどの二人の世界を思い知らされてしまった。胸苦しかった。息苦しくもあった。認めたくないとすら思った。

 一方で二人の世界は美しかった。揺らがぬもののように見えたのだ。憧憬だけではなく、尊重したい気持ちが生まれるほどに。

 私は私が自分の欲だけで生きていないことに、救われている。人を慮る気持ちが死んでいないこと。学君を想うがゆえの独善的な感情に支配されていないこと。それは人として、嬉しいものであった。

 だが、だからこそ、要らぬ逡巡を抱いてしまっているのではないかと思うことも多い。

 今もそうだ。二人の距離が開いたことにほっとしている自分と、寥々としている自分がいる。二人が離れてしまえば心の安寧が得られるなんて、そんな画一的なものではなかった。

 それだというのに、ほっとしている自分がいることが苦しい。それが憚るものだから、放っておくことができなかった。自分の首を絞めていると分かっていても、逃げることはできないらしい。

 今まで、優等生として規則正しく生きてきた。その気質がこんなところにも適用されるなんて笑ってしまう。

 私が二人を収めなければならない責任なんてないのに。たとえ年長者としても、二人のことは二人のことだ。本来なら、私が関知するところではない。

 実際、クリスさんと瀬尾君は距離を測っていたのだ。佐十先生はどうしただろうか、と薄らと思う。一応、事情説明はしておいた。

 そういった役目を果たすべき部長が当事者だ。学君は自分の情けない部分をひけらかしはしないだろうから、先生に連絡がいくことはないだろうと考えた。だから、話しておいたのだ。

 もしかしたら、そうして、少しでも事態を改善したかったのかもしれない。自分が苦しまないため、というような気持ちもある。それは否定できない。

 クリスさんと瀬尾君に比べたら、ずっと利己的なものであるはずだ。それでも、何もしないよりはいい。私はそれを盾にして、絡み合った感情を押し込めていた。

 本当は、書道だってなし崩しだったのだ。もちろん、あの日保健室で言ったことは真実である。私の協力で期限を延長するくらいなら、手伝っていいと思った。でも、そこは学君への感情があったがゆえのことだ。

 けれど、今はそれだけじゃない。

 墨田さんの立場が羨ましいのも、ただ書道部にいる仲のよい人だから、なんてことではなかった。

 私も書を嗜むものとして、そこに並び立ちたい。

 それが相当に無謀なことだということは、重々承知している。とても追いつけるものではない。けれど、学君の真っ直ぐな瞳が見ている世界の一端を覗いて見たかった。

 それとも、これも不純な動機になるのだろうか。……なるだろう。人が聞けば、その中に差分はほとんどないに違いない。私の中では明確に色を分けている。

 何より、学君と並んで書を書くということは、墨田さんは無論、クリスさんだって瀬尾君だって含んでいた。つまり、私はもう引退までの腰掛けなんてなおざりな感情ではいないという話だ。ただそこに、ちょっとした下心が付随しているものだから、話はややこしくなる。

 学君と墨田さんのよく似た横顔が、網膜に焼きついて離れない。

 どうすれば折り合いがつくのか。そんなことばかりを考え続けていた。

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