雨の向こうの月

雪子

第1話 淡い緑の夢

 惨めさの匂いがしてきそうな外界と隔絶された暗い気分の中、見上げた空は雨だった。生暖かい涙が瞳を覆って、こぼれた先で私の頬をほのかに冷やしていった。


 あの、涙が流れた後の、肌が少し乾いていくような感覚がこの上なく苦手だった。だから私は、涙をこらえるために上を向くのではなく、涙が頬を伝わらないようにうつむいた。


 瞬きをするたびにクリアになる視界は、私に現実を見ろと言っているように思えて薄情だと思った。ぼやけたままで、見たくないときは見なくていいと言ってくれるような優しさが欲しかった。


 ふいに、視界のすみに淡い緑色の傘が映った。誰かが差し出してくれたものだと認識するのに少し時間がかかった。


「あ、ありがとう」


 素直にその傘を受け取ると、差し出してくれたその人は柔らかく微笑んだ。『さあ、差してみて』と言っているようだった。 


 持ち手に手をかけ、ゆっくり傘を開く。細身の持ち手が、当時小学生だった私の手に自然となじんだ。『パッ』という場違いな音が軽快に響き、淡い緑が私の頭上を覆った。


「見上げてみて」


 傘を差し出してくれた人が、一言。私は、『ほっぺが乾くから嫌』と言う元気もなくて、言葉に従うことにした。

 右手で傘を持ち、左手で涙を拭う。特に心積もりもせずに、私は頭上を見上げた。


「…」


 そこには、言葉を失うほどの美しい緑があった。雨の空の、わずかでほのかな太陽光が優し気に傘を透かし、ぼんやり私を照らしてくれているような感覚を覚えた。耳をかすめる雨の音はどこか静かで、傘の淵から滴るしずくはこの傘の緑によく合っていた。心積もりをしていない無防備な感性を刺激する、澄んだ世界。


「綺麗」


 目が離せなかった。均整の取れた骨組み、丁寧にやすりのかけられた温かな持ち手、頭上を覆う緑。


「でしょー。そう言ってくれると嬉しい」


 少し間の抜けたしゃべり方の彼が、心の底から喜んでいることが声で分かった。


 しばらくして彼が、そっと私の頭に手を置いた。


「君を、雨から守ってくれるものがあってもいいと思うんだよね」


 その言葉にハッとした。この雨模様の空から私を守ってくれる、淡い緑。ぼやけた太陽光で私を照らしてくれる心強い存在。きっと彼は、『雨』という言葉に、『辛い現実』を重ねている。そう分かった途端、その淡い緑は私に、『見たくないときは見なくていい』と言ってくれているような気がして、肩の力が抜けた。


 それを感じ取った彼は、手を私の頭から背中に移動させ『ポンポン』と優しく叩いた。


「今日までよく頑張ったね」


 これが、叔父さんとの初対面だった。


――――――――――――――――――――


雨月うづき、雨月ー?次の授業始まるよ」

「…わっ!」


 心地よい揺れで目が覚めた。肩に温かい人の温度を感じ、起こしてくれた主が私の肩を揺さぶってくれたことを理解する。


「ゆ、雪斗ゆきと、私、どれくらい寝てた⁉」


 自分でも思ってもみないほど深いところまで落ちた眠りの感覚に驚き、自分がどれくらい寝ていたのかという見当がつかなかった。一日寝ていたと思うくらいの深い眠りに、心臓が冷えた。『あの予定も、この予定もすっ飛ばした!?』と、心臓がドクドク脈打って少し気持ち悪いくらいだ。


「んー、20分くらい?」

「え、ほんと?焦ったー。一日寝てたくらいの気持ちなんだけど」

 

 心底安心した。今が、423の午後12時30分ではなく、422の午後12時30分だということを脳がきちんと認識して、心臓の音が収まる。本当に良かった。


「あるある、そういう時」


 目を細めて彼が笑う。寝てたところをクラスメイトに起してもらう王道展開に加え、その相手が頬杖をついて優し気に笑っている。ここまで来たらその横顔に見とれるまでが大体セットなわけだが…そんなことはなく、


(あれ、私もしかして口開けて寝てた⁉)


 ということで頭がいっぱいだった。


 だって、だって、なんとなく顎が痛い。これはもう絶対、口開けて寝てたってことでしょ。私、ちゃんと顔隠して寝てた?横の人に顔さらしてたりしないよね。


 そんなことを考えながら、顔をぺちぺち叩く。そのまま眠気覚ましとして首に手を当てた。ひんやりした手が、ホカホカの首を冷やしていく感覚が気持ちいい。親指の付け根の肉が盛り上がっているところに脈を感じた。ちなみにこの部分、『母指球』っていうらしい。


「何してるの?」

「…私、口開けて寝てた?」


 グダグダ考えるより、聞いた方が早い。開いてなかったと言われればそれまでなのだ。つまり何が言いたいかと言うと、『開いてなかったよ』って言ってほしいということ。


「うん」


 私の健気な期待もむなしく、一秒も夢を見せてもらえなかった。なんのためらいもなく彼の口から出た肯定の言葉に、頭を抱えたくなる。


「ぐわー、やっぱり?やっぱり開いてた?」


 恥ずかしさから早口になってしまう。無防備なあっぽんたんな顔を見られることって、ものすごく恥ずかしい。誰も見てないと思って思いっきりあくびをした顔を見られるくらいに恥ずかしい。


(口が開いてるなら、半目だったとしてもおかしくないな…)


 口をぽかんと開けて半目で寝ている自分を想像して、頭を抱えた。鮮明にイメージできる自分の想像力が憎かった。


「そんなに恥ずかしい?雨月の寝顔、僕が見るの初めてじゃないじゃん」


 雪斗が不思議そうな顔をする。あ、この人デリカシーがないよ。


「そうだけど!確かにそうなんだけど!でもでも、世の中にはかわいい寝顔と、そうじゃない寝顔があるんだよ。綺麗な寝顔以外、人には見られたくないもんでしょ⁉」


 少しムッとして、雪斗とは反対の方に顔を向ける。


「そうかなあ。かわいかったけど」

「え?」


 キーンコーンカーンコーン


 ぼそっとつぶやいた彼の声に重なってチャイムが響いた。


 恐る恐る彼の方を見ると、今度は彼が私に後頭部を向けて頬杖をついていた。




 

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