第2話 買い物帰り、60円の贅沢

「雨月、帰ろー」


 一日の授業が終わった解放感に周囲の人が伸びをし、部活に向かう人たちの活気が学校に充満してきたころ、雪斗に声をかけられた。


「うん!」


 学校指定のカバンを背負い、机の脇にかけてあるお弁当箱を急いで持って彼を追いかける。


 昼休みにぐっすり寝た甲斐あってか、午後の授業はいつも以上に集中して受けることができた。ノートは分かりやすくまとめられたし、前回の疑問点も解消した。

 

 中学生活も折り返し地点を過ぎてから早半年。高校受験を約一年後に控えた身として、一日一日の授業を実りあるものに出来た充実感は、そのまま自信に直結する大事な積み重ねだ。雪斗にかわいくない顔を見られたこと以外、いいこと尽くしである。


「今日の夕飯は何にしようかな」


 学校を出てしばらく歩き、商店街に差し掛かると雪斗が言った。目に映る鮮やかな野菜と、鼻をくすぐる肉屋のコロッケやパン屋さんの匂いに、食欲が刺激されずにはいられなかったのであろう。今日の夕飯担当は、雪斗である。


「私、肉じゃががいい」

「それいいね。食材があれば肉じゃがにしよう」

「やった!」

 

 私が喜ぶと、彼も目を細めて笑った。


 そのまま私たちはおいしそうなコロッケの香りに後ろ髪をひかれながら、商店街を抜けて住宅街へと入っていく。道幅が次第に狭くなっていき、すっかり商店街の喧騒が聞こえなくなったころ、私と雪斗は『いつもの場所』にたどり着いた。


 『傘屋くもり空』と看板の出ている、木造二階建ての大きな家。新しい住宅が日に日に増えていくこの街には少し似合ず、古風な雰囲気が漂っている。その家の扉を開けると、私たちを待っていてくれる人がいる。


「おかえり、雨月ちゃん雪斗くん」


 私たちの帰りを喜んで柔らかく微笑むその人は、


「あ、くもさん。ただいま!」

「ただいま、桜火」


 雲松くもまつ桜火おうひ。この傘屋の店主であり、私と雪斗の叔父である。


 すらっとした細身でありながら、その手はごつごつしていて心強い。その手で作り出される傘は、どれも魅力的で美しく、この町で老若男女問わない幅広い人気を誇る。いつもはのらりくらりとしていて何とかなるさ主義の、独特な雰囲気を醸し出す人物である。


「ちょうど、郵便物確認してたところなんだ」


 彼は右手で持った郵便物をひらひらさせて見せる。


「なるほど。玄関開けたらいたからびっくりしたよ!」


 私はそう言いながら靴を脱いだ。隣で雪斗も靴を脱ぐ。


「今日もたくさん傘売れた?」

「売れたよ~」


 長い廊下を歩きながら、くもさんに問う。『売れたよ~』という彼は、心底嬉しそうだ。


 傘を開いた瞬間のお客さんの顔が好きだと、彼は言う。『パッ』と傘が開くのと同時に、お客さんの顔も『パッ』と明るくなった時、報われたような気持ちになるのだと、いつだったか話してくれた。


「あ!」


 居間の扉を開くなり、くもさんがテーブルに駆け寄った。私と雪斗に背を向け、何やら両手に抱えて台所へ向かおうとする。


「え、何?どうしたの?」

「あー!」


 私が状況を把握できずに扉の近くで傍観していると、くもさんに駆け寄った雪斗が羨望のまなざしを向けた。


「雨月!桜火、一人でコロッケ食べてたんだよ!ほら、見て!」

「あ、ちょ、雪斗くん」

「なに!?」

 

 少し興奮した雪斗が、私を手招きする。急いで駆け寄ると、くもさんが大事そうに抱えるお皿の中には食べかけのコロッケが横になっていた。


「くーもーさーんー」

「はい…」

「ずるいっ!」


 私は『クワッ』と、くもさんを睨んだ。


「私と雪斗は我慢したのに!ねえ、雪斗!」

「そうだそうだ!言ってくれれば僕が作ったのに」

「え、そういう問題?」

「え、違う?」


 私と雪斗はお互いキョトンとした顔を見合わせた。


「チ、チ、チ」


 その間に、右手の人差し指を左右に振りながらくもさんが割り込んできた。


「雪斗くんは分かってないねえ。買い物帰り、おいしそうな香りに誘われるがまま肉屋で買って帰ってくる60円の贅沢!この幸せが!これでしか満たされない気持ちがあるんだよ~」

「私には分かるよ、くもさん!これから夕飯。それを分かっていながら食べる60円の背徳感。それがたまらないんだよね!」

「雨月ちゃん!よくわかってるねえ!」

「で、私たちの分は?」


 目をキラキラさせながら、夕暮れ時に買うコロッケのすばらしさについて語った後、私はしびれを切らしてくもさんに聞いた。


「ご飯と一緒に出そうと思ってたんだけど…」

「え、雨月の『これから夕飯ってことを分かっていながら食べる背徳感』に共感してたよね?」

「…はい、ごめんなさい」


 言いにくそうに語尾を小さくするくもさんに、雪斗が食い気味に圧をかけた。くもさんの背中が丸まる。


「真弓には内緒にしててね…」


 くもさんはそう言いながら、台所からコロッケを二つ持ってきてくれた。真弓とは商店街でパン屋を営む人物のことで、くもさんの幼馴染である。


「はぁ、コロッケ、うまぁ」

「おいしいねぇ」


 コロッケを頬張るなり、雪斗が幸せそうな顔をした。その顔を見て、私も思わず嬉しくなる。その様子を見て、くもさんが目を細める。


 くもさんは、私と雪斗の叔父さん。だけど、雪斗と血のつながりはない。つまりどういうことかと言うと、私のお母さんとくもさんは血のつながった兄弟だけど、雪斗のお母さんの風花さんとは血がつながっていない。だから、私と雪斗は戸籍上いとこだけど、血のつながりはない。


 このことを知ったのは、私が小学6年生の時だった。クラスメイトがいとこだと知ってとても驚いたのと同時に、血がつながっていないと聞いて少し安心した。


「雨月が幸せそうに食べてるの見ると、僕も嬉しくなる」


 なぜなら、雪斗のこんな言葉に胸を高鳴らせても罪悪感を感じずに済むから。血がつながっていなければ、雪斗に抱く感情にブレーキをかけずに済む。そう思って、安心した。


「僕も、2人が嬉しそうだと嬉しいよ~」


 くもさんが、だらしなく頬を緩ませて頬杖をついた。自分で言うのもなんだけど、くもさんは私たち甥っ子姪っ子にデレデレなのである。


「あー!ちょっと、ご飯まだなのに何食べてるのー!」

「あ、真弓さん」


 コロッケも最後の一口、となった幸せの絶頂で扉が勢いよく開いた。


 

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