第3話 傘屋の本棚

 細くて白い手、茶色のロングヘア、ぱっちり二重。扉の近くで仁王立ちしている文句の付け所のない美人は、真弓さん。近くの商店街で、北条三郎パン専門店を切り盛りしている。屈託なく笑う笑顔で、客を引き付ける商店街の盛り上げ役である。


「な、何も!食べてないよ」


 視界のすみで、最後の一口を急いで口の中に押し込む雪斗が見えた。あ、雪斗、口の端に衣がついてるよ。爪が甘いなあ。


 ちなみに私の反応速度は雪斗のそれよりずっと遅く、最後の一口を手に持ったまま固まっている。雪斗がそんな私に気づき、『しまった』という顔をした。ごめん、雪斗。雪斗の口の端の証拠がなくても、私の手の中のコロッケで真弓さんにバレちゃってたよ。


 雪斗の『しまった』という顔に、『ごめん』と心の中で唱えたのもつかの間、真弓さんが雪斗の口の端と私の右手のコロッケのかけらを秒速で認識した。雪斗の『何も食べていないよ』発言が、嘘だと裏付けられた瞬間である。


「バレバレよ。チョップ!」

「あ、いて」

「嘘。痛くなんてしてないわ」


 そして真弓さんは、ずかずか雪斗に近づいて行って軽くチョップをした。反射的に強く目をつぶった雪斗が、肩をあげて体をこわばらせる。ほとんど無意識に出た雪斗の『痛い』という言葉に、真弓さんが心底心外そうな顔をした。


「…本当に痛かったなら、ごめんなさいね」


 真弓さんはそう言いながら、雪斗の頭にポンっと手をのせ、そのまま雪斗の顔を覗きこんだ。


「痛くなかったよ」


 雪斗がすぐに答える。頭に手をのせられたことに恥ずかしさを覚えているのか、少しそっけない態度だ。


「だよねー!で、私の分は?」


 雪斗のそんな反応を見て、真弓さんはくるっと向きを変えてくもさんに問うた。そっけない雪斗の反応は、たいして気にしていない様子だ。


「雨月ちゃんとおんなじ反応だね。もちろん、ありますよ」


 くもさんがそう言いながら、立ち上がった。


「まったくもう、ご飯の前なのにけしからん。君たちはちゃんと、『コロッケを我慢して我慢して最後に食べた時の幸福感』と『これから夕飯だと分かっていながら食べる罪悪感』という2つの甘美な響きを天秤にかけてから、先に食べたのかね」


 台所に向かうくもさんを目で追いながら、真弓さんが私と雪斗に問う。変な口調も相まって、すごく高尚な話をしているような感じがするが、コロッケの話だ。


「…かけてません」

「かけてないよ」


 私と雪斗は顔を見合わせた後、2人そろって背中を丸くした。


「まったくもう、けしからん。目の前の幸福を取ることが、最上の幸せだとは限らないのだよ!」


 真弓さんが、フンっと鼻を鳴らした。


「真弓さん、最近そういうしゃべり方の人が出てくる映画でも見たんでしょ。なんかかっこいいこと言ってるけど、そのセリフは受け売り?」

「わ、雪斗すごい。大正解。こういうしゃべり方の大学教授が出てくる映画を見たのよ。かっこいいセリフが多くて!なーんかこういうのって真似したくなるわよね」

「コロッケの話でここまでこじつけられるのは天才だと思うよ」


 雪斗はそう言いながら、口の端についた衣を左手で取ったあと、ペロッとそれを食べた。


「真弓はスポンジだから」


 台所から戻ってきたくもさんが、意味の分からないことを言う。


「どういう意味?」

「スポンジが水を素直に吸収するみたいに、いろんなことをすぐ吸収するってこと」

「ん、うん?」


 納得できるような、納得いかないような絶妙な例えだ。私は小首をかしげる。


「では教授。あなたは『コロッケを我慢して我慢して最後に食べた時の幸福感』と『これから夕飯だと分かっていながら食べる罪悪感』どちらを選ぶのですか?」


 くもさんが、恭しい態度で真弓さんの前にコロッケを差し出した。真弓さんがわざとらしく髪を耳にかけ、緩慢な動きで足を組む。そして一言。


「後者だね」

「「え」」


 私と雪斗の声が重なった。


「真弓さん、『目の前の幸福を取ることが、最上の幸せだとは限らないのだよ!』って言ってたじゃん!」


 私が言うと、


「コロッケは揚げたてが一番!鮮度命よ。幸せは手に入るうちにとっておかないと。ほしいときにはもう目の前にはないかもしれないんだから」


 真弓さんはそう言って上手なウインクをして見せた。いやはや、美人だ。


「雨月、納得いかないって顔してる」

「だって、言ってることぐちゃぐちゃなんだもん」


 真弓さんに指摘されて、顔の筋肉のこわばりを感じた。自分でも無意識に眉間にしわを寄せていたようだ。


「難しく考えなくていいのよ。コロッケの話なんだから」


 真弓さんはにっこり微笑んで、きれいにコロッケを食べた。


「さ、雪斗。一緒にご飯作りましょう」


 コロッケを食べ終わった真弓さんが、藤色のエプロンをつける。それを見て雪斗も、制服からラフなパーカーに着替えた。そして2人は台所に消えていった。


 居間に取り残された私は2人の背中を見送って、カバンから何冊かの本を出す。


「雨月ちゃん、その本もう全部読んだの?先週読み始めたばかりだったやつだよね」


 同じく居間に取り残されたくもさんが目を丸くした。


「うん。一週間で最低2冊は本を読むって決めたから!」


 私はそう言いながら立ち上がる。私の手には5冊の本。これらはすべてこの家のものだ。本棚に返してまた新しい本を探さないといけない。


 この傘屋は少し、いや、とても変わっている。どう変わっているのかというと、店に入ってすぐに目につくのは傘ではなく、巨大な本棚だということ。初めて来たお客さんが、踵を思わず返したくなるくらいの圧倒的存在感を放つ本棚が、入ってすぐに鎮座している。


 では傘はどこにあるのかというと、隣の部屋だ。理由は、隣の部屋には窓がないかららしい。くもさんはあまり傘を日光に当てたがらない。逆に雨の日は、窓がある部屋まで傘をせっせと持ち出して、窓際に置いている。ちょっと変わったこだわりの持ち主なのだ。


 はっきり言って、この傘屋の構造は経営だのマーケティングだのの観点から見たら好ましくないと思う。傘屋なんだから、傘を全面に押し出していけよと感じる人も多いと思う。


 でも、私はこの傘屋が好きだ。この構造が好きだ。傘が一番に見えなくたって、くもさんが傘に対して真摯であることは何も変わらないし、このへんてこな作りが好きで本棚目当てにちょくちょく顔を出す常連さんもいる。


「一週間で最低2冊?自分で目標を決めて頑張れることは、すごいことだよ。雨月ちゃんは昔から変わらずに努力家だね。じゃあ僕も、一緒に本選びに行こうかな」

「うん。一緒に行こう」


 私とくもさんは、2人で本棚に向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る