第28話 今のお父さんを教えて

「久しぶり、雨月」


 目の前の父は、微笑んでいた。


「うん…久しぶり」


 手を止めて、まっすぐ私を見て、瞳に嬉しさをにじませて、微笑んでいた。私は、父にそっけなくされるとは思っていなかったけれど、こんなにはっきり「会いたかった」と思っていることが伝わるくらいに歓迎されるとも思っていなくて、戸惑いと、懐かしさと、嬉しさで、声が詰まった。


「大きくなったな。十花に似て、美人だ」


 作業中だったノートパソコンを閉じて、父が言う。この一言に、私はまた胸が詰まる。私の成長を喜んでくれていること、お母さんの名前を父が口にしたこと。色んなことに安心して、泣きそうになった。

 

 母に似て美人であるという言葉は、父がまだ母のことを「美人だ」と思っていることを含意する。父が私との再会を望んでいても、別れた母に対してどんな感情を抱いているのか分からなかったので、母のことを悪く言われたらどうしようか、心のどこかで不安だった。でも、父はさらりと母のことも私のことも褒め、そこに嘘はないように見えた。


「まあ、座りなさい」


 父に促されてソファに座った。


「では私は、お茶を入れてきますね」

「ありがとう、川崎さん」


 タイミングを見計らって、晴香さんが席を外した。父は、晴香さんの目を見て礼を言い、私の真向かいに腰を下ろす。


「元気だったか」

「うん」

「学校は楽しいか」

「うん」

「お母さんは元気か」

「うん」

「桜火くんと真弓ちゃんは元気か」

「うん」

「…何か、悩んでいることがあるんだね?」

「…うん」


 父はうつむいたままの私に、ゆっくりと優しい声で問いかけた。私は相槌を打つたびに、「お父さんも元気だった?」と聞きたかったのだが、泣きそうになるのをこらえるのに精いっぱいで、声を発しようとすればするほど、鼻の奥がツンとした。


「失礼します」

「ああ、ありがとう」

「ありがとうございます」


 私が言葉を探していると、晴香さんが温かいお茶を運んできてくれた。


「では、私はこれで」

「…あの、晴香さんもここにいてくれませんか」


 気を利かせて席を外そうとした晴香さんを引き留める。父と話すだけではなく、父の周りにいる人の話も聞きたかったのだ。


「…ええ、私はいいけれど…社長、私がいても差し支えありませんか?」

「大丈夫ですよ。川崎さんに、娘と話している様子を見られるのは、少々恥かしいけれど」


 父はそう言って、少し照れたように鼻を掻いた。川崎さんは、「私は楽しみですよ」と父を軽くからかってみせる。私は思い切って、真っ向から質問を投げかけた。


「お父さんは、今でも正しい人?」


 突飛な質問に、父は驚いたように少しだけ目を見張ったが、すぐに姿勢を正し、


「正しくありたいと、常に思っているよ」


と答えた。


「…私、生徒会長になったの」


 父の言葉を聞いて、私は口を開く。


「ずっと、お父さんみたいに、人望があって、みんなから信頼されていて、常に正しいリーダーになりたかったの。でも最近、正しさって何なのか、分からくなってきて。記憶のなかのお父さんの背中を追いかけるだけじゃ、うまくいかなくなってきて。挨拶をする、勉強をする、真面目に先生の話を聞く。これって全部正しいことなのに、挨拶しよう、勉強しよう、真面目に先生の言うことを聞こうっていう私の言葉が、時には反感を買ったり、馬鹿にされたりする。みんなのためを思って時間をかけて資料を作る。これもきっと正しいことなのに、その努力は案外簡単に否定されたり、無視されたり、当然だってことにされたりする。正しい人の正しい言葉と正しい努力が、そんなふうに扱われるのって、きっと正しくないことだ。私の言葉や言動が響かない人がいるのは、私の言葉が正しくないから?私の行動が正しくないから?…私は、最近、正しいことをみんなの前で口にするのが、怖い」


 私は冷静さを欠かないように、努めてゆっくり話をした。


「記憶のなかのお父さんは、変わらずずっと正しいままだから、追いかけても追いかけても、手が届かないの。だから今日は、今のお父さんがどんな人なのか、確かめにきた。記憶と理想で作り上げたお父さんじゃなくて、今のお父さんを確かめたかっただけなの」


 晴香さんが淹れてくれたお茶が、ぼんやり湯気を立てている。晴香さんは、背筋を伸ばして私の方を見つめてくれている。私は父の返事を待って、父を見つめる。父は、何か考えるように、机に置かれたお茶の湯気を見ている。


 この沈黙は、父の誠実さの証なのだと思う。正しさと、娘にきちんと向き合って、自分の思考を言語化するには、秒針が180度回転する時間だけじゃ、きっと足りない。360度でも、たぶん足りない。


 だけど父は、秒針の音が45回聞こえるくらいの沈黙ののちに、静かに口を開いた。


「正しくありたいと、常に思ってはいるけれど、常に正しくいられたとは思っていない。自分の正しさが、他人の正しさと、一致するものだとも思っていない。このテーマはとても難しいね。とてもすぐには答えが出せそうにない。でもまあ、今のお父さんを知りに来てくれたのなら、今のお父さんが、昔のお父さんとどう違うのか、少し話をしようかな」


 こうして、父はお茶を一口すすってから、過去の話をし始めた。

 


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雨の向こうの月 雪子 @1407

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