第5話 正しさが揺れている

「河合さん、お願いがあるの」


 生徒会選挙の立候補期間が始まって少し経った頃、普段は使わない教室に担任の先生から呼び出された。


「生徒会長、やってくれないかな」


 青天の霹靂、というわけではなかった。


 昔から責任感が人一倍強く、『リーダー』という立ち位置に立つことも多かった。人についてきてもらうためにはどうやって行動したらいいのか、どんな指示を出せば人は動いてくれるのかを、色んな本を読んで勉強したし、実践も積んできた。だから、そんな私に先生がこんな頼みをしてくるのも、不思議なことではなかった。


「生徒会長、今のところ誰も立候補がいないの。私は、いいえ、先生方みんな、河合さんが適任だと思っている」


 先生のこの言葉が、お世辞ではないことはわかっていた。一小一中のこの学校では、これまでの8年間で築かれてきた生徒間での立ち位置というものがはっきり充満している。私は小学4年生の時にこの町に越してきたから、正確には5年間であるが、私のこのコミュニティにおける立ち位置は間違いなく『リーダー』。


 人を引っ張るものがいれば、引っ張られるものがいるし、優等生がいれば、その逆もいる。そのやんわりとした力関係は、時に人に役割を押し付ける。これは俺の仕事じゃない、これは私の仕事じゃない。そんなふうに役割は色んな人の間でたらい回しにされて、最終的にそのコミュニティで最適だと思われている人のところに回ってくる。


「河合さん、人をまとめる力があるし、経験も豊富だし、人望も厚いし」


 すぐには首を縦に振らない私を見て、先生が言葉をつなぐ。


 ありがたいことに私は、人をまとめる力も、経験も、人望もあるらしい。加えてそれを周りの人にも認めてもらっている。


 だけど。


 だけど今、私の中で『正しさ』が揺れている。


 小学生から中学生への転換点は、私に物事の多面性と複雑さ、理不尽さを気づかせた。私は、正しいことが見方や場合によっては正しくないことに気づいてしまったのである。


「雨月って、いつもそんなに真面目で息がつまらない?」


 皮肉の色がにじむそんな言葉を、真正面から投げかけられた時、『私のしていることは、息がつまるようなことなのだ』と初めて自覚した。


 そのことに気づいてしまったら、自分が思う正しさを人に求めることが急に怖くなった。正しさを求めることは正しいことだけど、それを『リーダー』なんて立場で振りかざすことが、とんでもなく身勝手で偉そうなことだという気がして、以前ほど自信をもって行動することが、できない。


 正しさが、好きだ。なぜなら、正しさを好きでいることが正しいことだから。


 正しさが、嫌いだ。なぜなら、私の首を絞めるから。先生が言ったあの言葉も、この言葉も私の首を絞めて絞めて仕方がない。


「先生のいうことは、きちんと聞きましょうね」


 なんて言ったきり、


「先生のいうことがいつも正しいとは限りませんよ」


 と訂正をすることのないまま、私を都合の『いい子』に仕立て上げた低学年の時の担任は、ちゃんと罪悪感を抱いているでしょうか。先生の言うとおりにしていることが、時に他の生徒から反感を買うこと、いい子ぶっているように映ること、そんなこと誰も教えてくれなかった。


 生徒会長を私にお願いするのは、矢面に立って正しさを主張できる素質が見込まれているからだろう。私が先生方にとって、都合のいい『いい子』でいてくれるだろうと思われているのだろう。


 私は分かっている。それが『信頼』という言葉で語られること。そしてその『信頼』は、一朝一夕では手に入らないこと。


「河合さん、河合さん?」


「雨月!」


 先生の声と、雪斗の声が頭の中で響いた。


「雨月、どうしたの?」

「あ、いや、うん。なんか意識飛んでた」


 数か月前の教室から、傘屋くもり空へ意識が戻ってきた。最近、考え事をしてしまうことが多くて困っちゃう。


「えと、なんの話だっけ。あ、生徒会長どう?って話か。うんうん、順調だよ」


 嘘は言っていない。順調であることは間違いない。ただ、疲れているだけなのだ。


「…そっかそっか。順調か!」


 くもさんが微笑んだ。もう、詮索しないよと言われているような見透かした顔で私を見つめる。


「そう。順調ならよかったわ。…だけど雨月、疲れているわね?ほらっ」

「ひっ!」


 いつの間にか私の背後を取った真弓さんが、急に私の肩をもんだ。びっくりして変な声が出る。


「もー!肩に力入れすぎ!ちょっと桜火、ホットタオル作って頂戴。施術開始よ」

「任せて~」

「ひ、ひ、そこ、くすぐったい~」


 真弓さんの温かい手の温度が、肩にじんわり伝わってきて気持ちがいい。冷めた温度から、この家独特の温かさに引き戻されているような感じがした。でも真弓さん、ちょっと力強すぎない?真弓さんの細い指からは想像もできない力加減だ。


「あ!そうだ。この間、お客さんからアロマオイルもらったの。それ使いましょうよ!みんなでマッサージしよー!」

「いいねー!じゃあお風呂入ってからがいいんじゃない?僕、お風呂沸かしてくるよ」


 真弓さんの提案を聞いて、雪斗がすぐに立ち上がった。腕をまくりながらお風呂場へ消えていく。


「じゃあ、真弓と僕で先に入るから、雪斗くんと雨月ちゃん一緒に入りなよ」

「「はあ⁉」」


 くもさんの言葉に、私と真弓さんの声が重なった。


「何言ってるの桜火、それセクハラっていうのよ。今の時代そういうの厳しいんだから気を付けてよね」

「そうそう、私も雪斗も中3だよ!信じられない。そういう発言に敏感な年ごろなんだからやめてよね!」

「雨月の言う通りよ。変なこと言うのは、私と2人の時だけにして頂戴」

「…2人きりならいいんだ」

「え、あ…それは…」

 

 私と真弓さんは、息継ぎも忘れるくらいの勢いでまくし立てた。真弓さんはうっかり発言をしてしまって一人うろたえている。顔が赤くてかわいいなあ。


「フフ、ハハハ!2人も必死すぎ!ごめんごめん、反応が見たくてつい、ね」


 くもさんが、たいそう楽しそうにケラケラ笑った。


 でも私は知っている。彼がこういう素っ頓狂な発言をしたり、おどけてみせたりするのは、誰かのためであること。大胆な発言で自分を少し悪者にして、誰かの心を軽くしようとする。彼は策士なのだ。


 その策にまんまとはまった私は、おかげで元気が出てきた。それがくもさんの変な発言のおかげだと思うとちょっぴり悔しいけど、認めざるを得ない。


「お風呂、あとはお湯がたまるのを待つだけだよ~。え、なになに、なんで桜火笑ってんの」


 お風呂掃除を終えた雪斗が帰ってきた。


「ちょっと聞いてよ、雪斗」


 その夜とてもよく眠れたのは、きっとアロマオイルの効果だけじゃないと思う。

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