第26話 白いシャツににじむ涙

 体調を崩しても、生徒会の仕事は減ることはない。だが不思議と気持ちが軽いのは、リン、透くんが、良き理解者であり、一緒に仕事をこなしていく上で心強い味方であるからだと、ここ最近実感している。


 2人は、過度に心配して、私から仕事を取り上げるようなことはしない。生徒会の仕事の中で、「これだけは私がやらなければならない」と私が感じている範囲を察して、そこに干渉してくることはない。その代わり、「私がやらなければならない仕事」以外が私の手に渡ってこないように、そっと見守っていてくれるのだ。


 なんて心地いい距離感。他の人から見ても、私たちの連帯感は深まったように見えるらしく、波多野先生はますます「うちの生徒会は優秀だ」と誇らしげにするようになった。


 そんなこんなで忙しくしているうちに、実の父に会う日が迫ってきていた。実の父に会いたいと真弓さんに相談してから、事はとんとん拍子に進み、会う日もあさっり決まってしまった。そしてもう、その約束の日の前日まで、時間は進んでしまったのである。


「ど、どうしよう、明日お父さんに会うなんて信じられない…」


 傘屋くもり空の居間で、私は例によって頭を抱えていた。外は晴天で、太陽は隠れることなく自信満々に輝いている。もうすぐ春だと思っていたのも束の間で、いつの間にか季節は春を迎えたらしい。色彩の増えた世界の中で、嬉しそうに太陽が輝く日も増えてきた。でも今は、その太陽の明るさが、自分の影を色濃くするようで少しだけ憎たらしい。


「おーい雨月さーん、さっきから百面相しているけど、大丈夫ですかー?」


 机の向こう側に座った雪斗が、肘をついて私の顔を窺っている。片手には本を持ち、体を傾けてちらっと私へ視線をやる彼は、心配しているというより、私の表情の変化を楽しんでいるようにも見える。


「だ、大丈夫じゃないかもしれない。何話せばいいのか全然見当がつかないの」


 私は、父に会うことに漠然とした不安を抱えつつも、その不安が今まで感じたことのないものであるがゆえに、ふわふわと心が浮ついたような感覚も覚えている。つまりは、父に会うことを楽しみにも思っているということだ。


「お父さんに会うの、楽しみ?」


 そんな私を見計らったかのように、雪斗がそれとなく聞いてくる。


「うん」


 取り繕うのもおかしいと思って、素直に肯定すると、雪斗は何も言わずに微笑んで、しばらく本に視線を落としていた。秒針の音がやけに耳につき、窓から差し込む光は必要以上に眩しく見える。その明るさの中で見る雪斗は、本に集中しているように振舞いつつも、意識はここよりずっと遠いところにあるような顔をしていた。


「…僕がさ、別居中のお父さんに会った時」


 パタン。本を閉じた彼がゆっくり口を開いた時、「雪斗もしばらく会っていなかった父に数年ぶりに再会した経験があったのだった」と思い至る。雪斗の両親は別居しており、彼は父と何年も会っていなかった。別居の理由は家庭内暴力であったと記憶しているが、優しかった父も、母を殴る父も見ていた雪斗は、父とは一体何なのか思い悩み、彼が小学5年生の時、久しぶりに父と顔を合わせたのである。


「お父さんに会うの、別に楽しみじゃなかったんだよ。期待すればする分だけ、今のお父さんは霞んで見えるような気がした。僕は、お父さんに変わってほしくなかったわけでも、変わっていてほしかったわけでもなかったけれど、久しぶりに会ったお父さんのこと、見てられなかった」


 彼が父に会った日のことを、私はよく知らない。変わってほしくなかったわけでも、変わっていてほしかったわけでもないという矛盾のような言葉は、紛れもない本心で。その一つに定まり切らない心は、彼を静かに傷つけたのだろう。父の姿がどんな姿であったとしても、「変わってないな」「変わってしまったな」という失望がついて回る。


 では、私は? 私は父に、変わっていてほしいのか、変わってほしくないのか。


「でも、僕から見た雨月は、そんなことで傷つくようには見えないんだ」


 話の重さとは裏腹に、吹っ切れたような顔をする雪斗は、なぜか微笑んで私を見つめる。


「どうして?」

「雨月は、お父さんに変わっていてほしい、変わっていてほしくない、というより、ただ、今のお父さんを確かめたいっていう感情が強いように見えるから。今のお父さんが、正しくても正しくなくても、たぶん雨月は傷つかないよ」


 雪斗が、確信しているような口ぶりで話す。だけど私はいまいち自信がない。


 父の背中を追いかけて、父みたいになりたくて、がむしゃらに正しさを追い求めてきた。その背中が目の前からいなくなり、見えなくなったはずの背中は、なぜか見えていた時よりも、輝かしくて綺麗なものに思えた。


 でも、それではだめなのだ。私が前に進んでいくには、父の背中を追いかけるのではなく、私自身が進みたい方向を見つめないといけない。そのために、無条件で輝いて見える幻想の父の姿を、私は明日、壊しに行く。今の父を、この目で確かめに行く。


「そんな、自信満々に『傷つかない』とか言っていいの? 私がぼろぼろに傷ついて帰ってきたら、どうするの」

「その時は、僕の出番かな」


 いたずらっぽく微笑む雪斗が憎たらしくて、私も仕返ししたくなる。


「どうやって慰めてくれるの?」


 彼はちらっと私の方を見やり、難しそうな顔をして言う。


「どうって…そりゃまあ仰せのままに? 御所望とあらば、こう…ぎゅっと」


 机の向こうで、彼が何かを抱きかかえる仕草をする。その様子を見て、なんの気なしに、


「今、やってほしい」


と口をついて言葉が出た。


「え」

「え」


 自分の驚きの声と、雪斗の驚きの声が重なる。


「あ、いや、びっくり。自分でもびっくり。今のなし。思っている以上にお父さんに会うの不安なのかも。そのせいでひと肌恋しくなったというか、なんというか…今のなし!」


 焦って矢継ぎ早に言葉を紡ぐが、その言葉は自分の口から出ているとは思えないくらい浮ついていて、いたたまれなくなる。話せば話すほど、空間の温度は上昇し、雪斗は何もいえなくなる気がして、耐えられなくなった。


「わ、私、部屋戻る!」

「待って」


 立ち上がった私の手を、同じタイミングで立ち上がった雪斗がつかんだ。


「せ、せっかく恋人になったんだから、抱きしめてほしいって言う感情を、正当化しなきゃいけないなんてこと、ないと思う」

「…っ」


 雪斗らしいまっすぐな言葉の後、私の視界は彼の白いシャツでいっぱいになる。他のお家の柔軟剤の香りが私を包んだ時、私の胸もいっぱいになって、なぜかとても泣きたくなった。


 今の気持ちを形にする言葉が、何一つ浮かばないようなこの上ない幸福の中、耳に響いた「明日、素敵な時間になるといいね。いってらっしゃい」という雪斗の声だけが鮮明で、今この瞬間も現実なのだとぼんやり思う。


 だけど、自分が想像していたよりも安心感のある彼の温度が、あまりに心地よく、思わずあふれた涙が白いシャツににじんでいくのを感じながら、「どうかこのままシャツが乾かないでほしい」と願う。今この瞬間が間違いなくあったということを証明できるのは、私の涙で濡れたシャツしかないように思えたからだ。


「帰ってきたら、雨月が傷ついていても、いなくても、またこうするよ」


 抱きしめる力を強めた私から、期待めいたものを感じたのだろうか。雪斗はそっと、私の頭をなでる。


 「傷ついていても」という言葉より、「傷ついていなくても」という言葉に、私は惹かれる。抱きしめる理由が、「慰める」というところになくても、彼が一歩を踏み出した私を評価してくれることの表れのように感じるからだ。


 次の約束を取り付けたにも関わらず、それでも私は今の幸せを途切れさせたくないと思ってしまう。離れたくない。そんな強欲な自分に戸惑いつつも、同じように離れようとしない雪斗の重みを感じながら、私はもう一粒、涙を流すのだった。

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