第25話 雨の向こうの月 ー雲松真弓ー

 雨月は、雨の向こうの月になることに固執しているような子だった。


「十花、雨月が信さんに会いたいって」


 雨月の母に、そんな電話を掛けたのは、雨月が倒れた次の日だった。


 雪斗と話をして幾分心が軽くなったように見える雨月だったが、熱が引いたばかりの顔には疲労感が透けて見え、その体はいつもよりはるかに小さく見えた。彼女はこれまで実の父の話を極端に避けていたようだったので、「父に会いたい」と言われたのは意外だった。


 心境の変化は、ふとした瞬間にやって来る。大きな出来事がきっかけになることもあるし、小さな出来事がピースみたいに合わさってきっかけになることもある。彼女にとってのきっかけがなんであったにせよ、この心境の変化が貴重であることに間違いはない。家族同然に大事に思っている少女の、貴重な瞬間が、私の目の前で起こったことに嬉しさを覚える。それと同時に、出来得る限りのサポートをしなければならないという義務感にかられ、背筋が伸びるのを感じた。


「雨月が信に…?」


 電話越しに十花の戸惑った声が聞こえた。


「うん、会いたいって」


 念を押すように、もう一度はっきり口に出す。まるで自分が雨月の代弁者にでもなったかのような感覚で、続く言葉が肯定であるのか否定であるのか、固唾を飲んで待ち望む。


「会いたいなら、会うべきだわ」


 十花の返事は早かった。会いたいなら、会うべき。この言葉を聞いて、なぜか腹が立った。


 会いたくないなら会う必要はないのだから、「会いたいなら、会うべき」という言葉に、間違いはないのだと思う。だけど、なんでだろう。なんでこんなに腹が立つんだろう。


 会えるという選択肢を、ちらつかせずにいたくせに。雨月の気持ちに関係なく離婚して、再婚して、信さんのことなんて綺麗さっぱり忘れたみたいに、振舞っていたくせに。雨月が再婚後の父に遠慮して、「実の父に会いたい」と言うことをはばかるような優しい子だということを、誰より分かっているくせに。彼女にとって「実の父に会いたい」と言うことが、どれほど勇気のいることだったのかを想像して、「会いたい」言わなければ会えないような状況を作り出した十花に、腹が立った。それでいて、どこか他人事みたいなセリフを選ぶ十花にも、「会うべき」とかいう「それが正しい」みたいな言い方をする十花にも、腹が立った。


「会うべき、というか…」


 喉の奥でくすぶるような感情を、どう言葉にしたらいいのか分からなくて言いどよむ。雪斗や桜火だったら、もっと冷静に、的確に、言葉を選ぶことができるのだろうか。


「雨月はさ、大人びて見えるし、器用な子だから、私たちつい甘えちゃうんだけど」


 話しながら、色んなことが頭を駆け巡る。十花の気持ち、雨月の感じていること、私の立場。


「その器用さってきっと、自分の不器用さを隠せる器用さなんだよ」


 それはまるで、雨の向こうに隠れる月のように。月は新月の日以外、いつだって輝いているから、雲に隠れていても輝いていると錯覚してしまう。その向こうにある月が、どれだけ満ち足りていないか、私たちは鑑みない。


「もっと、もっとさ」


 十花が両親を早くに亡くし、その反動で家族に強い憧れがあったこと、そしてその憧れから早くに結婚を決意したこと、全部分かっている。その時の十花の気持ちも、満たされたかった心の隙間も理解しているつもりだ。だけど、子供を授かって一緒に生きていくのなら、もっと、


「十花の人生は十花の人生だけど、それは雨月の人生にも重なっていることを、考えた方が良いと思うよ」


 例えば、再婚のこと。例えば、啓斗のこと。新しい夫も、新しい子供も、全部十花の大事なものだけど、それが雨月の大事なものにもなるということ。雨月にとって新たなそれらが、大事に思えない日があっても、大事に思わなければならない存在になってしまうこと。セカンドファミリーの中で、自分だけ疎外感を感じながらも、それでも「家族なんだから大事にしなくちゃ」と義務感にかられ、相反する気持ちの中で、雨月がどんな風に悩むのか。十花は親として、きっと考えなければならない。


「その通りだわ。弓ちゃん、言ってくれてありがとう。信には私から連絡するわ」


 電話の向こうで聞こえる十花の声に葛藤が感じられて、私は少し言い過ぎたかもしれないと反省する。


「連絡してあげて。私、ちょっと熱くなりすぎたかも、ごめんね」

「どうして謝るの。雨月のことを考えてくれる人がたくさんいて、私はとても嬉しい」


 十花はそう言って、電話を切った。


「真弓にしては珍しく、悩ましい顔をしているね」


 電話を机に置いて、額を手で覆っていると桜火が居間に入ってきた。


「あなたのお姉さんと話してたのよ」

「真弓の親友でもあるだろ?」

「まあね」


 桜火は当たり前かのように、向かいに座る。


「何をそんなに怖い顔しているのかな?」


 伺うように、桜火が私の顔を覗きこんでくる。桜火の目の下にはクマができていて、昨夜徹夜したことがバレバレだ。


「怖い顔なんてしてないわ。いつだってかわいい顔」


 熱くなってしまった自分が恥ずかしくて、はぐらかす。


「そうだね、いつだって真弓は美人さんだ」


 そんな私の態度に気づいて、桜火も深くは探らないことにしてくれたらしい。真剣な瞳から、冗談を言う時のクリクリした瞳に変わっている。


「でも、何か悩ましいことがあるなら、いつでも愚痴ってよ」

「そういう桜火こそ、クマだらけ。昨日、雨月が倒れたから心配で寝れなかったんでしょ」

「わ、バレた?」


 桜火は話を続けつつ立ち上がり、台所に向かっていく。やかんに水を入れて火にかけ、棚から急須を出す。お茶を入れようとしてくれているらしい。話しがそらせたことに安堵しつつ、桜火の続きの言葉を待つ。


「それがさ、心配で何度か覗きに行ったんだけど、雪斗くんが看病のプロでさ」

「なにそれ、詳しく」

 

 雨月が倒れた後、看病を買って出たのは雪斗だった。


「健気に体育座りしながら仮眠取ってるわけ。雨月ちゃんが苦しそうなうめき声あげようものならすぐ起きて様子見てさ、なんなのあれ、尊過ぎない?」

「…雪斗、最高」


 幼いころから見てきた雪斗が、最近目に見えて成長していて、胸がきゅっとなる。両片思いの彼らの様子を見ているのは、最高に楽しい。


「私は全力で応援しているのだけれど、もし仮に2人が付き合うことになっても、きっと冷やかされるのが嫌で教えてくれないんだろうな」

「ハハハ、絶対そうだね。でも、真弓ならすぐ気づきそうだけど」


 コップに注がれるお湯から真っ白な湯気が立ちのぼり、ほうじ茶の香りをまとって部屋に充満する。

 

「気づいてからが問題よ。気つかないふりをしてあげるのが正解? 気づいて『付き合ってるでしょ』って触れてあげるのが正解?」

「どっちも嫌なんだろうね、2人は」


 困った顔で桜火が笑う。お茶とちょっとしたお菓子を載せた「アフタヌーンティーセット」を運んできてくれた。


「まあでも、雪斗くんは奥手だからなぁ。早々付き合うことはないと思うけど」

「桜火に『奥手』とか言われたくないわ、雪斗も。奥手の最上級みたいなやつのくせに」

「わー、真弓ひどいー。だから今反省して、これまでの分も真弓を大事にしてるんじゃないかー」

「それは分かってるけど」


 少しすねたふりをして、お茶をすする。ほうじ茶の香りが鼻を抜けて、心がほぐれる感覚が全身を満たした。


 雨月のことで悩むのは、彼女が私に少し似ているからだと思う。正義感の強さや、その強さゆえに感じる周りとの不調和。私にも経験がある。彼女の気持ちを考えると心が揺れるのは、私が世間に感じる心に揺れに、近いものがあるからだろう。


 ほうじ茶を飲みながらそんなことを思い、このほぐれていくような感覚を雨月にも感じてほしいと心から願う。大切な人が入れてくれた温かいお茶が、こんなにもおいしい。


「まあでも、もし2人が付き合うことになっても、そっと見守ってあげよう。くれぐれも茶化さないように」

「はーい」


 という約束をしたのもつかの間。この数日後に雨月と雪斗は付き合うことになり、私はすぐにそれに気づいてしまう。触れるまい触れるまいと我慢したのも3日が限界で、「付き合ってるでしょ?」と思わず聞いてしまった時の2人の顔!我事のように喜んで騒ぎ立てる私の様子を雪斗は諦めの表情で見つめていた。


「だから真弓さんには言いたくなかったの!」


と顔を真っ赤にする雨月の様子が、倒れた日より随分元気になったのを見て、私はますます嬉しくなる。顔が赤いのは、桜火が入れたほうじ茶が熱かったからか、否か。


 実の父に会うことが、どんな結果をもたらしても、私は彼女のために何杯でもほうじ茶を入れてあげる。例え空に月がなくたって、雲に隠れたその月を忘れたりなんかしない。彼女が雲の向こうで悩んでいることも、見てみぬふりなんかしない。なんだったら、雲をかき分けて会いに行く。そんなことを感じた数日間だった。

 


 

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