第17話 春の終わり

 もう暮れてしまった夜の空に、春の終わりが漂っている気がする。街灯に照らされた春の終わりの夜を、母親と歩いていた。


 母の事は、全然嫌いじゃない。今の父と再婚したこと、その父との間に新しい子供を授かったこと。私にとってそれは少しもやもやする出来事であったのは事実だけれども、だからといって母が嫌いなわけではない。


 好きだからこそ、自分の気持ちをどう扱えばいいのか、どこにもっていけばいいのか、伝えればいいのか、さっぱり分からないのだ。


 私にとって「やり直し」のように感じる再婚は、母にとっては「再スタート」。これら2つの言葉は、同じように聞こえてまったく違う。やり直しは上書きやリセットに近いニュアンスを含み、再スタートはある種ひとつなぎの物語だ。


 母の人生を考えれば、まだまだ長いその先の人生を、私の気持ちだけを考えて決定していくわけにはいかないこと。私に縛られて、前の父と「無理をして」でも「家族」で居続けることが我慢の連続であるのだとしたら、早く見切りをつけた方がいい。呪縛になりえる婚姻届など、さっさと効力をなくさなくてはいけない。そんなこと、客観的には分かっているはずなのに。


 私にとってその婚姻届が、「家族」でいるための最後の糸であり拘束力を持った絆であったから、辛い。


 見えない絆など不確かなものでは、不安でたまらなかったのだ。別れても父でい続けてくれるのか。別れたあと母は自分で稼いでいかなければならないのか。社長の父に支えられていた生活を、別れたあと母だけで成り立たせていけるのか。幼ながらに不安でたまらなかった。


 でもこれらの不安は、婚姻届さえ効力を持っていれば解消させる不安だったのだ。契約の上で「家族」であれば、父はどうしたって私の父でいなくてはなりないし、母と私の生活を支えなくてはいけない。


 だから、どうしても、婚姻届が効力を持っていなくてはならなかったのだ。離婚届なんて、恐ろしいものを持ち出してはいけなかったのだ。


「雨月」

「何?」


 やけに冷静で落ち着いた声が出た。母と二人きりになるのは久しぶりだということに気づき、今更ながら気まずくなる。


「雪斗くん、ほんといい子に育ってるのね。かっこいい」


 母が微笑んだ。


「うん。優しくて、素直で、実直で、周りをよく見てて」


 私をいつも助けてくれる。


 この言葉を母に言うのは恥ずかしくて、ぎゅっと口をつぐんだ。


「雨月を助けてくれるのね」


 微笑んで細くなった母の瞳に、素直になりきれない自分の姿が写った。


「雨月はとても器用だから、お母さん、いつもあなたに甘えてしまう」

 

 春の終わりの夜道を見つめ直した母の目は、真剣だった。


「その器用さは、不器用なのをうまく隠せる器用さだってこと、分かっているのにね」


 核心を突かれて、心臓が大きく鳴った。


 私は別に、天才じゃない。お父さんみたいにカリスマ的な正しさを持っているわけじゃない。それでも「器用だ」「いい子だ」「正しい子だ」という評価をもらえるのは、そこにたどり着くまでの圧倒的に不器用な努力を隠すのに長けているからだ。


「正しいあの人が好きだったの」


 あの人とは、私の実の父のことだ。


「あの人は、私の前では正しくなくいてもいいんじゃないかって少しだけ思える安心感が、好きだったの」


 すごく、わかる気がする。雪斗といると、正しくあれない自分も少しだけ気にならなくなる。どんな自分も受け入れてくれるだろうという安心感が、心を軽くする。


「でも、時間とともにね、すり合わせが難しくなってしまったのね」


 かすかな夏の匂いに、胸が苦しくなった。


「だけど」


 母が息を吸う音が聞こえた。


「あの人と結婚しなければよかったなんて、思ったことは一度もないわ。あなたの存在を間違いだなんて、思ったことはない。啓斗でやり直そうなんて、微塵も思ったことはないわ」


 母の言葉を聞いて、腹がたった。


「私は…!」


 私は、別に、そんなことが、聞きたいわけではない。


「そんなこと、言われなくたってお母さんがそんなふうに思ってないこと分かってる。分かってるけど、そう感じるから辛い。そんなふうに考えてる自分が、嫌い。正しくない」


 まくし立てるように吐露して、涙が溢れそうになった。ああ、雨が恋しい。雪斗に会いたい。


「…だから」


 困ったような表情で次の言葉を探している母を置いていくように、私は次の言葉を紡ぐ。


「だから、お父さんに会うの。お父さんの真似なんかしなくても、お父さんを目指さなくても、私は私で正しいってこと、確かめないといけない」


 啓斗のことも、嫌いなんかじゃないのに。なんだか心が晴れなくてうまくいかない。


「…お父さん、雨月に会うの楽しみにしているって言っていたわ」


 例え、その言葉が社交辞令でも、父の言葉に嘘はないと信じたい。


「啓斗、びっくりしてたでしょ。私が具合悪くなって」


 深呼吸をして気持ちを整える。無邪気に私を慕う弟の目が、私が倒れた時どんな風に不安の色に染まったのか容易に想像がつく。


「うん。ずっと、心配してたわよ。お姉ちゃん帰ってきたらのっぺ作ってあげてって朝からそればっかり」


 母が愛おしさに目を細めた。私の大好物ののっぺを作ってあげてほしいと健気に頼む弟の優しさが身に染みるほど、弟に対して優しくなりきれない自分への罪悪感が強くなる。


「雨月は桜ちゃんのところで夕飯食べてくるんだよって何回も言ったんだけどね、聞かなくって。のっぺ作ってあるから、少しだけでもあの子の前で食べてちょうだい」

「うん、わかった」


 なんとなく居心地の悪い帰り道も、やっと終わりに近づき自分の家の明かりがはっきり見えるところまでやってきた。


 近づいていくと玄関の前できょろきょろしている弟の姿が見えた。


「あ!お姉ちゃん!」


 彼もすぐに私に近づき、駆け寄ってきた。その勢いのまま、私の足に抱き着く。


「もう、元気?」


 つたない言葉に胸がつまり、私はかがんで弟の頭を撫でた。


「うん、元気。啓斗がお姉ちゃんのためにのっぺ作ってって頼んでくれたんでしょ?食べるの楽しみ。食べたらきっと、もっと元気になる」


 私の言葉を聞いて、啓斗は嬉しそうに私の目を見つめてから、


「雪斗くんに、お姉ちゃん取られるかと思った」


 と言って、かがんだ私の胸に顔をうずめた。


「フフ、お姉ちゃんが取られると思ったの?大丈夫だよー。だって雪斗は私の弟になれないもん。弟は啓斗だけ」


 なんて健気。複雑な気持ちは抱えているけれど、この子をかわいいと思う気持ちもまったく嘘じゃない。


「…お父さんも、そこにいるんでしょ」

「あ、ばれたか」


 塀に隠れたつもりになっている父を呼ぶ。そもそも、こんな暗い時間に啓斗1人で外に出すわけがないのだ。


「雨月、体調は…」

「大丈夫!雪斗の看病のおかげで回復」

「そうか」


 父はほっとした顔で肩を下ろした。


「さ、のっぺ食べよ!」


 いろいろな気持ちで揺れ動いた疲れた心に、のっぺの優しい味がさぞかし染みることだろう。


 どうやら自分の複雑な気持ちと、ちぐはぐな家族に向き合う時が来たようだと感じた春の終わりの夜だった。

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