第18話 季節の変化が楽しみなお前は

『河合 教務室で待ってる 波多野』


 一日休んだ後の学校が、やけにそわそわして落ち着かないのは私だけだろうか。一日分みんなが先に進んでいってしまったような置いてけぼり感と、なんとなくチクチク刺さる「なんで昨日休んでいたの?」という周囲からの疑問の視線。それだけでも落ち着かないのに、机の上に置かれた先生からの呼び出しのメモが、これまた絶妙に緊張感を演出する。


「まったく…休み明けそうそう呼び出しだなんて…」


 心の中でため息をつき、カバンを机の脇にかけたその手でメモを手にする。はいはい、今日は広目天の下の邪鬼ちゃんね。メモに書かれた個性的な字の横の邪鬼を軽く見て、ほとんど機械的にその邪鬼がどの四天王の下にいる子なのか判別した。


「もうー、雨月病み上がりなんだから、朝から呼び出すなよな。あ、今日は広目天だね」


 雪斗がメモを覗き込んできた。眉間にしわを寄せている。


「まあ、とりあえず呼び出されたから行ってくるね」


 メモを覗き込もうと体を寄せてきた雪斗に少しドキッとして、さりげなく一歩下がってしまった。対する雪斗は全然気にしていないようで、


「うん、いってらっしゃい」


 なんて言って軽く手を振ってきた。


 この、非日常感。好きな人に好きって言ってもらえて初めて登校した学校は、いつもの学校と何にも変わらないのに、気持ちが上ずって別物みたい。むしろ、学校がいつも通りであればあるほど、自分の気持ちの高まり方がイレギュラーであることが際立って、特別感が増す。うーん、今日一日ちゃんと「生徒会長」できるかな。


 不安と闘いつつも、上がって上がって仕方がない口角を必死に隠しながら歩いているうちに、教務室に着いた。


「はあ…よし」


 コンコンコン


 ゆっくり息を吐いて、ノックをした。


「失礼します。3年3組の河合雨月です。波多野先生に用があって参りました」

「おー、河合。待ってたぞ。今そっち行くからそこで待ってろ」

「はい」


 波多野先生の机まで行こうと教務室に一歩足を踏み入れると、制止された。一瞬驚いたが、大人しく入口で待つ。


「あ、河合さん。昨日具合悪かったんだって?もう大丈夫なの?」


 筆記用具やらなにやらをまとめている波多野先生を待っていると、出勤してきた国語の教科担任の先生に声をかけられた。


「あ、はい。もう元気です。心配してくださりありがとうございます」

「いえいえ。プリントは城崎くんから受け取った?」

「はい、受け取りました」

「そう。また分からないことがあったらいつでも聞いてね」

「ありがとうございます」

 

 国語の先生は満足したようににっこり微笑んで、自分の机に向かっていった。


「一足遅かったな。教頭ー、被服室の鍵借りますね。行くぞ、河合」


 国語の先生と入れ違いで波多野先生がやってきた。どうやら別室で話があるらしい。え、私何かしただろうか。


「いやー、すまんな。河合、先生たちから人気だから、教務室で俺としゃべってたら『もう大丈夫なの?』の嵐になるだろ?だから他の教室借りたんだが、さっそくもうつかまってたな、ハハハ」


 一歩先を歩く波多野先生が、前を向いたまま話しかけてきた。


「昨日、臨時の生徒朝会があってな。城崎から聞いてるかもしれないけど。校長先生に挨拶する係が、昨日は明道だったから、河合が休みだってことみんな知ってるんだよ」


 生徒朝会は、大体校長先生への挨拶から始まる。校長先生にステージに上がってもらい、会長も前に出て校長に向かって「おはようございます」と言う。それに続いて全校生徒が校長先生に「おはようございます」と言う一連の儀式だ。その役目を、昨日は透くんがやってくれたらしい。


「なんで、臨時の朝会があったんですか」

「ん?まあ、おとといの下校中にちょっとした事故があって、その注意のためだよ。放送でもよかったんだけどな、最近事故増えてるから」

「けが人は?」

「食い気味だなあ。ま、被服室ついたからとりあえず椅子座れ」


 波多野先生が被服室の扉を開けてくれた。促されるまま椅子に座る。窓から朝の光が差し込んで、日にさらされたカーテンから独特の香りがする。教室全体が温かい白をまとったような、よく晴れた朝だ。


「先に言っておくが、説教じゃねえぞ」

「あ、よかった。心配してたんですよ」


 ファイルを開きながら、先生が言った。ほっと胸をなでおろす。心当たりがなくても怒られるかどうかは心配になるものだ。


「で、さっきの事故の話。けが人はいたけど、軽いけがだ。ほんと、軽いやつ。かすり傷な」

「よかったぁ」

「河合、お前なあ、まず自分の心配をしろ」

「え?」


 私が安堵の表情を浮かべるのと対照的に、波多野先生は大きく息を吐いて手のひらを額に当てた。


「いいか、よく聞け。河合のいいところはな、人のために動けるところだ。人のために労力をいとわないところだ。でもな、それは翻って自分を犠牲にすることを気にしてないっていう短所でもあるんだよ」


 この言葉を聞いて、なんで今自分が被服室に呼び出されたのか分かった。波多野先生は心配してくれているのだ。その話を聞かれないように、教務室ではなく被服室を借りてくれたのだ。


「城崎から聞いたぞ。熱だけじゃなくて、倒れたんだってな。ないぞ、普通そんなこと」


 歯に衣着せぬ言葉に、ハッとした。普通倒れたりなんかしない…言われてみればそうだ。滅多なことじゃ倒れない。熱を出すことだけでも珍しいのに、倒れるなんて相当なことだ。


「無理をすることが基本設定になっているのは重症だぞ」


 先生の言葉はすごく直接的で、耳に響いた瞬間はなんだか怒られている時みたいな胸の締め付けを感じる。でも、それが優しさだってことは百も承知で。いつもくたびれた顔をしていて、若干適当で、でも仕事のことになるとうるさくて。こういう人がまっすぐな目で心配してくると、泣きたくなる。


「…説教じゃないって言ったじゃないですか」


 少し強がって、こんな言葉を口にした。


「説教じゃねえよ。…俺も悪かったなと思って呼び出したんだ」

「え?」

「河合は、頑張ってる自分じゃないと認められない節があるだろう。期待に応えることが、何よりも大事だと思っているところもある。だから俺も仕事たくさん任せてたんだけどよ、頑張ることと無理することの境界線まで見極めてやれてなかった」


 ひゅっと、のどが鳴った気がした。この言葉は一体、どういう意味だ。「これからは期待値を下げた仕事を任せることにするよ」という宣言か。


「おいおい、そんな顔するな。はき違えるな。違う違う。失望したって意味じゃない。期待しないことにするって意味でもない。ただ、無理はしてほしくないって言いたいだけだ」


 無理をしない。幾度となく聞いてきたこの言葉。これがまた難しい。頑張ることと、無理をすることが気づいたら入れ替わっていて、気づかないうちに色々蝕んでいる。


「いや、何を言っても無理はするだろうな。河合は。いいんだよ、別に無理しても」

「何言ってるんですか先生」


 言ってることが無茶苦茶だ。無理するなって言ってみたり、してもいいって言ってみたり。


「しゃあねえだろ。人にやさしくするの久しぶりなんだ」

「フフ。先生としてどうなんですか、それ」


 先生が心底ムッとした顔で言うもんだから、思わず少し笑ってしまった。


「言いたいことはな、河合が河合らしく活躍できるようにサポートしたいと思ってるやつはたくさんいるんだから、無理してもいいけど無理する前に頼る術を覚えなさいってことだ。俺はこれからもお前に期待するし、ちょっと無茶な仕事も振る。そんで、そんな仕事もなんなくやってのけるうちの優秀な会長を、色んな先生に自慢する。俺の鼻を折るなよ?」


 なんなんだ、この先生。ずけずけ変なことをいうくせに、なんか受け入れたくなってしまう。これもこの人の生まれ持った人柄か。ならばこっちも期待に応えてやろうと、むきになりたくなる。この気持ちもきっと、先生の思惑通りだ。


「任せてください」


 手のひらで転がされている自覚をもって、転がされてやることにする。せめてもの抵抗だ。


「河合」

「はい」

「季節の変化が楽しみか?」

「は?」


 予鈴がなったので急いで立ち上がると、扉を開けつつ波多野先生が問いかけてきた。


「楽しみ…ですけど。昨日も春の終わりの匂いがしましたよ。夏は海に行きたいし、花火もしたい。半袖を着るのも楽しみだし、夏野菜を食べまくりたいです」

「よし」


 教務室の前で先生は満足そうにうなずいた。


「で、なんの話ですか?」


 時間を気にして腕時計を見ながら私が聞くと、


「季節の変化が楽しみじゃなくなってきたら、終わりだ。心に元気がない。春の終わりの香りに気づいて、夏が楽しみなお前は、これからもやっていける。さ、早く教室もどんなさい」

「ちょ、どういう…」


 先生は私を軽くあしらうように手のひらをヒラヒラさせて、教務室に消えていった。


 私は教室に向かいながら、先生の持論はよく分からないけど、なんとなく大事なことを言われたような気がして、その言葉を反芻していた。

 


 

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