第12話 雨の向こうの月 ー雲松桜火ー

 雨月ちゃんは、進んで雨の向こうの月になろうとする子だった。


 人の見ていないところで、雲に隠れて努力をしようとする。明るいところで努力することを極端に嫌っているようにも見えた。まるで、そうしなければいけないという義務に掻き立てられているかのような、必死で危ういその努力。


 雲の下で空を見上げると、本当にそこに月があるのか不安になるように、彼女を見ているとどこか不安になる。彼女を、あそこまで突き動かすのは一体何なのだろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 答えを知っている大人は、時々残酷なまでに理由をすっとばして結論を押し付けることがある。


 その典型的な例が「挨拶」だと僕は思う。理由も言わずに、小さいときから「挨拶はきちんとしなさい」と事あるごとに言われる。言われた通りにすれば「挨拶ができてえらいわね」とほめそやされる。


 なんで挨拶が必要なの?なんで挨拶ができると偉いの?


 そんな疑問にうまく答えられる大人はどれくらいいるのだろうか。きちんと理由まで教えられる大人がどれくらいいるのだろうか。


「今月ね、挨拶強化月間なんだって。だから挨拶運動を、生徒会だけじゃなくて他の委員会とも協力してすることになったんだけど…」


 雨月ちゃんが生徒会長になったばかりのころ、こんな話題が食卓で上がった。


「クラスの子にね、挨拶挨拶って生徒会はいつも言うけど、なんで挨拶しないといけないのって言われたの」


 雨月ちゃんが苦虫をかみつぶしたような顔をした。


「挨拶ってなんでしなきゃいけないのって…よく考えたら理由を教えてもらってないなあって思って焦った。『社会に出て役に立つからじゃない?』ってとっさに言ったけど、すごく薄っぺらいよね。だって、私社会になんて出たことないし」


 雨月ちゃんは好物ののっぺをおいしそうに頬張りながら、なんでもないようなふりをしてさらっとしゃべる。彼女はゆっくりのっぺを飲み込んだ後、よく聞こえないと分からないくらいかすかな音量でため息をついた。その様子を少し心配そうな顔で雪斗くんが見ている。


「挨拶したりされたら気持ちいいからじゃないかな?」


 雪斗くんが口を開いた。


「うーん、私もそれはあると思う。でも、そういったら『俺は気持ちよくない。挨拶めんどい』って。そんなこと言われたら何もいえないよねー」


 眉尻をさげて困ったように雨月ちゃんが笑った。あ、この顔。不安になる彼女の危うい笑顔。


「桜火はどう思う?」


 雪斗くんが僕に問いかけた。


「え、僕?うーん、僕はね、どっちも正解だと思うよ。挨拶は社会に出て役に立つし、したりされたりしたら気持ちいいものだから。だけどね、それを『体験したことのない人』に伝えるのってすごく難しい。だって、その人は社会で役に立った経験も、したりされたりして嬉しかった経験もしてないんだもん。リンゴを食べたことない人にリンゴを味をどれだけ説明したって想像の域を出ない。挨拶の有用性を体験したことのない人に、挨拶の重要性を説くのは至難の業だよ」

「百聞は一見に如かずってやつ?」


 雪斗くんが困ったように腕を組んだ。僕はこの話をしながら、大人のずるさに無性に嫌気がした。


 大人は、挨拶が礼儀の良さを示す道具になることを経験でよく知っている。したりされたりして気持ちがよかった経験も、挨拶でいい関係を築くためのスタートを切れた経験も、圧倒的に多い。だから、子供にもそれを要求する。


 だけど、その「理由」を言語化するのはとても難しい。経験に裏付けされた理由を、経験していない人に伝えるのはほとんど不可能といっても差し支えない。だから、その理由をすっとばす。すっとばして、「挨拶をすることは正しいことです。なぜらなそれが正しいことだから」なんて、全然説明になっていないことを平気で言ったりする。


 その結果、正しいことを素直に正しいと信じている人は矢面に立つことになるのだ。正しいことを正しいと言わなければならない人は、説明を求められる。ほとんど、いけにえにも近い感じがする。


「雨月ちゃん、実のところね、僕はみんなが納得できるような説明なんてきっとないと思うよ。なぜなら、君たち中学生に求められているのは『社会に出た時役に立って、したりされたりしたら気持ちのいい挨拶をする経験をするための準備』だから。ほとんど機械的、義務的に練習をして、いざって時にスムーズに挨拶ができるように仕立て上げられている途中なわけ。仕立て上げるっていう表現はあんまりよくないかな。理由はあとから付随される仕組みにもともとなってるの」

「…なるほど」


 雨月ちゃんが箸を置いた。


「私は、そのために『正しいと言われていることは正しいことだから』ってみんなの前で主張する役割を担わなきゃいけないのね」


 そういって彼女はにっこり微笑んだ。僕は中学2年生にしては大人びたその表情に、背筋が伸びる。


「理由の分からないみんなを引っ張る存在に、ならないといけないってことでしょう?」


 言葉に詰まった僕を見て、雨月ちゃんがもう一度問いかける。


「…そうだね」

「じゃあ、私はちゃんと理由を知っていないとだめだよね。真弓さんのところにお手伝いに行って、挨拶が活きる経験を積ませてもらおうかな~。どう、雪斗。名案じゃない?」


 雨月ちゃんが雪斗くんの肩をポンポン叩いた。真弓のパン屋でお手伝いできる口実を見つけて雨月ちゃんは嬉しそうだ。


「お手伝いのご褒美にメロンパンもらえるかな?」

「お手伝いなんかしなくても真弓さんはくれるよ。僕はラスクが良いなあ」

「なになに?なんの話してるの?」

「あ、真弓さん」


 噂をすればなんとやら。真弓が仕事を終えて帰ってきた。仕事帰りの彼女はいつもパンの温かい香りをまとっている。


「なんで挨拶をしないといけないのかって話」

「そんなの簡単じゃない。挨拶できる子の方が、大人は好きだからよ」

「真弓さん、現実的過ぎ…」


 真弓は流れるように上着を脱いで、あっけらかんと言い放った。そんな真弓を雪斗くんが白けた目で真弓を見る。でも、真弓のいうことはもっともだ。挨拶のできる子は、ファーストインプレッションで好かれる。


「えー、本当のことじゃない。そうね、まあ今のは『世間一般』のお話。私は、朝起きて桜火が『おはよう』って言ってくれたら元気が出るし、雨月と雪斗が『いってきます』って笑顔で家を出て言ったら私も頑張ろうって思う。『ただいま』ってちゃんと帰ってきてくれたら、私も『おかえり』って頭をぐしゃぐしゃにしたくなる。大好きな人が、自分を認識して声をかけてくれたら嬉しい。それだけじゃ、ダメなのかしら。あ、私ただいまって言ってなかった。ただいま!」

「おかえり!」


 真弓の声につられて雨月ちゃんも大きな声を出す。そんな雨月ちゃんを見て、真弓は愛おしさを隠し切れない様子でニヤニヤしている。隠すつもりもないな、真弓は。


「雨月、あんまり根詰めちゃだめよ。大人のいうことなんて適度に聞き流していいの。大人はね、いっちょ前な顔してそれっぽいこというのが得意なんだから」


 雨月ちゃんは、真弓の言葉に少し微笑んで首肯した。のどの奥に何かが引っかかったような表情の彼女の中には、何か越えられない壁のようなものがある気がした。


「桜火、雨月のあの発言、とても危ういわ」


 雪斗くんと雨月ちゃんが寝た後、僕と真弓は居間で温かいお茶を飲んでいた。


「え、なんの話?」

「雨月、『正しいと言われていることは正しいことだから』ってみんなの前で主張する役割を担わなきゃいけないのねって言ってたでしょう」

「…聞いてたの?」

「まあね」


 湯気の立つほうじ茶を見つめながら、真弓が真剣な顔をする。雨月ちゃんの発言の真意を考えているような、自分の身の振り方を考えているような表情。彼女が真剣に何かを考えている時の表情は、少し怖い。普段彼女が優しければ優しいほど、その表情が冷たく映る。雨月ちゃんを追い詰めている『何か』に対して腹を立てているような顔だった。


「雨月は賢い子だから、大人のいうことが正しいとは限らないことにもうずっと前から気づいている。それでも彼女が『いい子』で先生の都合のいいように振舞うのはなんでだと思う?」


 真弓は一瞬僕と目を合わせて、またすぐに視線をほうじ茶に移した。


「そう振舞うことが『正しいこと』だと思っているからだろうね」

「雨月は、別に間違ってなんかいないわ。ただ、ちょっと…」

「妥協ができないんだ、彼女」


 真弓の言葉に半分かぶせるようにして言葉を紡いだ。


「…まったく、信さんそっくりだよ雨月ちゃんは。よっぽど好きだったんだろうね。一時期、もう乗り越えたみたいに見えたこともあったんだけど、最近ちらつくよね」

「何が?」

「雨月ちゃんが初めてうちに来た日のこと」


 あの、雨の日のこと。淡い緑に目を輝かせて彼女が泣いた。頬を伝う涙の不快感から逃げるようにうつむく彼女の表情が、なぜか最近頭をよぎる。


「心配だわ」

「僕たちは、ちゃんと『傘』でいようね」


 心底不安そうな顔を見せる真弓の頭に手をのせて、柔らかい髪の感触を確かめる。手のひらから伝わる心配の温度に揺さぶられて、僕も心がざわついて仕方がなかった。



 そして今、倒れた雨月ちゃんの肩を抱いている。頭を守るために添えた左手に、雨月ちゃんの柔らかい髪の感触と温かい温度を感じる。ざわつきを思い出す、ツーロック。


「桜火、雨月、熱がある。僕、氷枕とか、色々、作ってくる」


 雪斗くんが落ち着いた声で言った。努めて冷静になろうとするように、言葉をゆっくり紡いだ彼の、目に浮かぶ動揺の色と自責の念。何かあった時自分を責める癖があるのは、雨月ちゃんと一緒だ。


「啓斗くん、お母さん呼んできてくれる?玄関にいるでしょう?大丈夫、大丈夫だよ。お姉ちゃん、ちょっと疲れちゃったみたいなんだ」

「わ、わか、わかった。お母さん…呼んで…」


 驚いたまま置いてけぼりをくらっていた啓斗くんに声をかける。彼は扉に向かって前進したあと、すぐに振り返って雨月ちゃんに駆け寄った。


「お姉ちゃん、大丈夫だよ。お母さん呼んでくるからね」


 どんな感情から来る涙なのか。彼は瞳一杯に涙をためて、力強く言った。そしてすぐに立ち上がり、玄関にいる十花を探して走っていった。


「だってさ、雨月ちゃん」


 弟の声が聞こえていたのか、彼女は静かに涙を流した。


 健気な彼の背中が愛おしくて、頼もしくて、雨月ちゃんの心の内を知っている僕には暴力的に見えて仕方がなかった。




 


 


 

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