第13話 朝5時

「ど、どこ…」


 眠りから覚めて目を開けると、見慣れない天井が視界に広がっていた。木目調の重々しい天井と畳の匂い。


「和室か…」


 数秒考えて思い当たった。ここは、居間の隣の和室だ。普段あまり使わないので認識するのに少し時間がかかった。


「あ、雨月。起きた?」


 足元の方で、雪斗の声が聞こえた。


「…うん」

「あ、だめだめ。起きなくていいよ」


 私はそういいながら体を起こそうとすると、雪斗に制止された。しかし、中途半端に体を起こしてしまったので、もう一度横になる方が腹筋に負荷がかかりそうだ。そう思って私は上半身を起こす。


 雪斗と目が合った。彼は大きめのブランケットを体にまいて、壁に寄りかかりながら体育座りをしていた。少し長めの前髪の隙間から眠そうな目が見える。雪斗は軽く目をこすりながらあくびをした。


「もしかして、そこで一晩寝てたの?」


 私はサッと血の気が引いてくのを感じた。そんなところで一晩過ごしたら、体も痛いだろうし、ろくに眠れもしないだろう。


「うん。さすがに隣で寝るわけにもいかないしね。雨月を一人にしておきたくなかったし」


 雪斗はそう言いながら立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。


「そんなところで寝たら体痛いでしょ。ごめんね」

「全然!気にしないで。僕がそうしたかっただけだから。朝日が昇ってくるのを見てたんだ。なかなか見ないからね。ワクワクしたよ。…具合はどう?」


 雪斗が微笑んだ。その優しい表情がやけに胸を打つ。体が万全でない時に優しくされると、なんだか無性に泣きたくなる。ツンと鼻の奥が痛んだ。ダメダメ、泣くな。


「…雨月?」


 ふいに雪斗が私の服の袖をつかんだ。


「何?」

「…あ、いや、なんか今の雨月どっかに行っちゃいそうな顔してた」

「え?変なの。ここにいるのに」

「そうだね、ちょっとおかしかったかも」


 変に緊張した空気になって、お互い恥ずかしさをごまかすように笑いあった。彼とこういう何とも言えない雰囲気になることはあまりない。だから余計に気まずくて、何も言えなくなってしまった。


「…お水持ってこようか」

 

 一度腰を下ろした雪斗が立ち上がった。くるりと背中を向けられて、脳裏に実の父の背中がちらついた。

 

「行かないで」

「え?」


 雪斗を反射的に引き留める。彼の服をつかんだ自分の手を見て驚いた。


「あ、ごめんごめん。急に立ち上がったからびっくりして」


 すぐに手を引っ込めて、手を振る。さっきまでまどろみの中で父のことを思い出していたから、重ねてしまった。離婚の2文字を突きつけられて、正しさの指針を失った雨の日。淡い緑の夢。


「どこにもいかないよ」


 雪斗は一瞬びっくりしたように目を開いたが、すぐにまたゆっくり腰を下ろした。


「今日の雨月はやけに素直さんだね?」

「寝起きだからあんまり見ないで!」


 少し意地悪な表情を浮かべて彼が私の顔を覗きこんだ。寝起きなので恥ずかしい。


「顔色も昨日よりずいぶんいいし。熱も引いたんじゃないかな。でも、今日は学校休んでね」

「でも…」

「ダメです。僕が雨月の分も授業聞いてくるから安心して。生徒会にはリンちゃんも透もいるんだから。たまには頼りらないとダメだよ」


 雪斗はそういったあと一呼吸おいて、


「頼ってよ」


 と私の目を見てこう言った。


「雨月が…体調を崩している姿を見ると無性に怖くなる。雨月が、このまま頑張って頑張ってダメになっちゃうんじゃないかって」

「大丈夫だよ」

「ほら、すぐ大丈夫っていう。大丈夫のつもりなんだろうけどね、冷静に考えてごらん?大丈夫じゃないはずだから。僕の前では、それ、禁止」


 普段あまりおしゃべりな方ではない雪斗の、私を心配して紡いでくれる言葉の数々が心臓に悪い。いつも優しいけど、今日はやけに優しい。待って待って、あんまり優しくしないでよ。


「さて、今が朝の5時なわけだけど、僕が学校に行くまでまだまだ時間があるね」

「ん?そうだね?」

「話、聞きますよ。雨月さん。何かためているんでしょう?」


 両手を広げて雪斗が私に口を開くことを促す。少しおどけたように敬語を使って、わざと深刻な雰囲気にならないように気を使ってくれたことが分かる。


 心の内を、話していいのか分からなかった。雪斗は迷惑がらずにとことん聞いてくれる。そんなのずっと昔から知っている。でも、自分で自分の気持ちを口にしてしまったら、「音」という形にしてしまったら、現実に負けてしまうんじゃないかと怖くて、ずっと言えなかった。


「言いたくないなら言わなくていいよ。言いたいけど言葉にするのが怖いんだったら、別に今話さなくてもいい」


 雪斗はそう言いながら体育座りから姿勢を変えて、あぐらをかいた。


「頑張ってる雨月はもちろん好きだけど、それは頑張ってない雨月は好きじゃないってことじゃない」


 雪斗はそう言ってうつむいた。私は早く次の言葉が聞きたくて、うずうずする。


「僕はね、雨月にもう少し楽してもいいんじゃないのとは言わないよ。ちょっとくらい正しくなくてもいいんじゃないのとも言わない。ただ、一緒に正しくありたいと思うよ。頑張りたいと思う。…それだけ」


 ふと我に返ったかのように、雪斗が恥ずかしそうにした。これ以上ないくらいの、救いの言葉。


 ちょっとくらいいいじゃんという言葉が、嫌いだった。ちょっと正しさから外れただけで、それは不純物を含んで正しさからかけ離れたものになるのに、みんな『ちょっと正しくないこと』は、正しさに限りなく近いところにあると勘違いしている。


 ちょっとも正しさから外れられない自分が、嫌だった。ちょっと外れられたら、もっと楽に生きていけることなんて、ずっと前から分かっている。でも一度正しくなくなってしまったら、その楽さを味わってしまったら、もう二度と正しさを好きになんてなれなくなる気がして、ちょっとも外れられなかった。


 そんな私を見透かしたような、雪斗の言葉。楽をしろとか、ちょっとくらいとかそんなことは言わないで、一緒に頑張ってくれようとする雪斗の本質的な優しさ。ただ耳障りのいい慰めの言葉をかけたのではなく、『私』に向かって発せられたその言葉が、胸に響いて鳴りやまない。


「…正しさが、好きなの」


 ぽつり。自然と言葉が流れ落ちた。


「お父さんが、好きだったの。前のお父さん。正しい人だったの。憧れだったの。お父さんみたいになりたくて、正しくありたかったの。でも、いなくなったの」

「うん」

「最近、正しいことが分からないの。ただ、頑張ることしかできなくて…少なくとも頑張ることは正しくないことじゃないから…でも、少し、疲れちゃった」


 ぽつり。自然と涙が流れ落ちた。


 涙が流れた後の、肌が少し乾いていくような感覚がこの上なく苦手。だから私は、涙をこらえるために上を向くのではなく、涙が頬を伝わらないようにうつむく。


「啓斗のことが嫌いなわけじゃないの」


 ああ、きっと、雪斗は私が何を言っているのか分からないだろう。脈絡なく紡がれていく言葉を前にして、彼がどんな顔をしているのか私は分からなかった。


「啓斗を見てると自分が正しくない気がしてならないの」


 すっと、雪斗の手が私の頬を撫でた。


「雨月は、こんなに正しいのに」


 独り言のような声だった。


「何が正しいかなんてさ、たぶん誰も分かんないよ。雨月の実のお父さんもきっと。でも、自分が正しいと思ってきたことに忠実で、正しいと思う方に進んできた雨月は、きっと雨月にとって『一番正しい自分』だ。僕はね、そんな雨月が好きだし、雨月にもそんな自分を好きでいてもらいたいなって思う」


 瞬きをしたら、たまっていた涙がこぼれて視界がクリアになった。そのままゆっくり雪斗の方を向く。


「泣いてる雨月、久しぶりに見た」


 そこにはどこか嬉しそうに微笑む雪斗。その顔が優しくて、安心して、ドキドキして、もう何が何だか分からなくなる。


「好きって言ったああー-----」

「わ、なになに、急に感情高ぶってきたね⁉」


 声をあげて涙を流す。ああ、もう、どうとでもなってしまえ。


「…好きって言ったよ」


 私の背中をさすりながら、雪斗がつぶやく。


「私も好きー-----ありがとうー----」

「はいはい、落ち着いて。あんまり激しく泣くと過呼吸になるから。ゆっくりゆっくり」


 朝、5時30分。この一連の流れを、ふすまの向こうで真弓さんとくもさんが聞いていたことは言うまでもない。





※更新遅くなりました!次の話も遅くなるかもしれませんが、また読んでくださると嬉しいです。


 

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