第8話 即答の増長天

「あ、雨月ちゃん待って。今日雨降るみたいだから傘持っていきな」

「雪斗ー!雪斗のお弁当にお箸入れるの忘れた!」


 翌日の朝、玄関で靴を履く私と雪斗を、くもさんと真弓さんが追いかけてきた。


 私と雪斗は昨夜、くもさんの家に泊まったのである。私たちは、小学生の時から定期的にこの家に泊まっている。もともと雪斗は私よりずっと前からくもさんの家に通っていて、風花さんが仕事で夜帰ってこれない日に泊まりに来ていた。彼は、母と2人で暮らしているのだ。私がここによく泊まるようになったのは、いわゆる家庭の事情っていうやつで息がつまりそうになっていたところを、このお家に泊まりに来ることで助けてもらったのがきっかけだ。


 私も雪斗も、もうこの家に泊まる理由なんてたいして重要ではなくなってきているが、昔からの習慣だということと、何よりこの家の雰囲気が好きなので今でもよく泊まりに来る。


 もちろん部屋は別々である。この家は無駄に広いので部屋がたくさんあるのだ。ここは、くもさんとその姉である私の母、そして2人の妹である雪斗のお母さんが住んでいた家でもある。そのため私は、もともと母が使っていた「十花の部屋」を、雪斗は「風花の部屋」を自室として使っているのだ。


「「いってきます!」」


 バタバタしながらではあったが、私と雪斗は元気よく学校へ向かった。


「ん、なんだこれ」


 朝、7時45分。いつも通りの時間に雪斗と登校すると、机の上にメモ帳がおいてあった。


「『河合 登校したら教務室まで来てくれ。 波多野』…朝から呼び出しか…」


 きたな…個性的な文字と、メモ帳の最後に書かれた邪鬼の絵。これだけで誰からのメッセージなのか分かる。生徒会担当、波多野先生からのメモ帳だった。


 お察しの通り、担当科目は社会。ちなみにこの邪鬼は先生一番のお気に入り、興福寺北円堂四天王立像の下にいる子だ。今日の邪鬼は正面から見て左側に顔があって、背中側に首が曲がっているから…増長天の下にいる邪鬼だ。こんなに絵は上手なのに、どうして字はきたな…個性的なんだろう。


 先生はその日の気分で4体の邪鬼のうちどれを描くのか決めるのだが、「この邪鬼はどの四天王の下にいるやつだ」とふと聞いてくるので、答えを用意しておかなくてはならない。もちろんこの知識は受験でなんの役にも立たない。端的に言って、変わった先生なのである。


「波多野先生からの呼び出し?」


 メモ帳を覗き込んできた雪斗が私に尋ねる。


「うん。ちょっと教務室いってくるね」

「朝から頑張るねえ。いってらっしゃい」


 雪斗は軽く手を振って私を送り出してくれた。教室の扉を閉める時にちらっと彼の姿を見ると、すでに本を開いて読書の世界に浸っているようだった。彼は昔から本当に本が好きだ。

 

 図書委員長に立候補したのも、自分の好きな分野で活躍できる機会が魅力的だったのであろう。正直、人前に立つようなタイプではない彼が、図書委員長になったと聞いたときは驚いた。でも、それより嬉しい気持ちでいっぱいだった。一緒に頑張ってくれようとしたのかななんて期待してみたり。


 人前に立つタイプではない彼だが、それはリーダーに不向きというわけではないことを断っておきたい。周りをよく見れる彼は指示を出すのが上手だし、感情的にならないおだやかな性格は周りを安心させる。本に対する真摯な姿勢が認められ、司書さんからの信頼も厚い。


 さて、私はなんの用事で呼ばれたのだろう。十中八九、生徒総会のことなのであるが、教務室に呼び出されるというのは、理由がなんであれ少し緊張する。用件をメモに書いておいてくれればいいのに…


 そんなことを考えながら、私は教務室の扉を3回ノックした。


「失礼します。3年3組の河合雨月です。波多野先生に用があって参りました」

「河合か。待ってたぞー」


 教務室に私が入ると、波多野先生が顔を上げた。今日も若干くたびれた顔をしている29歳の男性教諭。30歳と言うと怒られるので、注意が必要だ。


「朝から呼び出してごめんなー」


 波多野先生が、たいして悪びれてないであろう表情で私を手招きする。


「いえ。今日はなんの用件でしょう」

「まあ焦りなさんな。この椅子にでも座れ」

「…はい」


 先生が私に勧めたのは、隣の席のまだ出勤していない先生の椅子。座っていいのか、これ…。断ることもできず、とりあえず腰を下ろす。


「まずな、今日の評議員会。昨日河合が作った資料は完璧だったよ。ただなー、ちょっと他の先生が急遽足してほしいって言ってきた項目があって…」

「急ですね…」

「わりぃ。うちの河合なら対応できますよって俺が言っちまったんだ」

「またですか」


 まったく、この先生はいつもそうだ。生徒会に対する誇りと自信に満ち溢れてる。こうやってすぐ仕事を増やしてくるのだ。しかも、急に仕事を増やしたり、変更を求めたりする若干の適当さがあるのに、仕事の精度にはうるさい。「この資料ここだけフォントが違う」だとか、「文字が小さい」だとか、「マイクの高さが低すぎる」だとかいうことにすぐ気づいて、細かしいところを見逃さない。そういうところにこだわりがあるようなのだ。


 ただ厄介なことに、「うちの河合なら…」なんて言われると憎めないじゃない。


「項目書き加えた資料、印刷して生徒会室においてある。確認してくれ。次な。これ、議案書の会計ページ。事務の人にも見てもらったから印刷しておいてくれ」

「はい」

「あと体育委員会担当の神崎先生が『うちの中山、仕事が遅くてすみません。今日の昼には中山に議案書提出させます』だってよ」

「分かりました。待ってます」


 次から次へと先生は要件を話してくる。


「以上。何か疑問点は?」

「疑問点というか確認なんですけど…」


 私は言葉を紡ぎながら、スケジュール帳を開く。最近これが手放せない。


「相変わらずびっしり埋まってるなー、河合のスケジュール帳。頑張ってるなあ。すげえなあ」

「勝手に見ないでくださいよ」

「見えちまったんだよ」


 もともとノートを取ることが好きな私なので、スケジュール帳も埋まっていた方が嬉しい。それにこのスケジュール帳は去年の誕生日に雪斗が贈ってくれたものなのだ。俄然使いたくなるでしょう。


「議案書完成は今週末目処でいいですか?」

「問題ないぞ」

「配布は議案書審議2日前の来週の水曜」

「早く配りすぎてもボロボロにするやつがいるしなー。それくらいがいいだろ」

「議長たちとの打ち合わせは議案書審議が終わってからがいいと思うので、再来週の木曜日でいいですか」

「月曜じゃだめなのか」

「前の週の金曜日に審議で、集計に時間がかかります」

「なるほど。さすが先見の明があるな」

「では議長と副議長には私から声をかけておきます」

「頼んだぞー」

「以上です」


 私はパタンとスケジュール帳を閉じた。


「俺より仕事できるぜ河合。お前の仕事には時給が発生してもいいと思う」

「ありがとうございます。じゃあ今度生徒会に新しいホワイトボードペン買ってください」

「欲がないねえ」

「事務局長が困ってましたよ。ペンが出ないー!って。もう教室戻っていいですか?」

「おう、お疲れさん」


 私は立ち上がって、椅子をもとの位置に戻した。確かこの席は神崎先生だったはず。神崎先生、秀吉に倣って私が椅子温めておきましたよ。


「あ、そうだ河合」

「はい?」


 あと一歩で教務室を出る、というところで呼び止められた。振り返った勢いで、セーラー服の裾がふわっと空気を揺らす。


「今日の邪鬼はどの四天王の…」

「増長天」


 私が即座に答えると、先生は満足げににやりと笑って、


「完璧だ」


 と、親指を突き上げた。


 

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