第2話 見事な平手打ち
今起こったことは、現実だろうか。香澄と別れ、樹里は忙しく考え続ける。来春には生まれる、と香澄は言っていた。妊娠のことは、詳しいとは言えない。友人たちのことを思い浮かべるも、知っているのはお腹が大きくなってから。今はどんな時期かも想像が付かない。
夏休み明けの一番怠い一週間を切り抜けて、心地良い酒を飲みたかったのに。到底そんな気分になれそうにない。
「千裕、何考えてるんだろ」
交際して六年。互いに三十代後半になった。このネックレスを貰った時に、ようやく一歩進んだ気がしていたのに。この夏休みだって、指輪はどんなのにしようか、と話したばかり。あれは、一体どういうつもりで言ったのか。香澄の話が本当ならば、千裕は浮気をしていることになる。そして、あの話を聞かされている。そんな素振り、あったか。樹里は疑心暗鬼に陥っていく。香澄からの電話なんて出なければ良かった。今更したって遅い後悔が、どんどんと湧いて来る。仲良くもない元同期が、連絡を寄越した。真面目に、過去の仕事の問い合わせだろう、と思ってしまった。辞めて何年も経つのだから、有り得ない話なのに。気怠さを誤魔化して、シャンとして電話を受けた。そんな数時間前の自分を、今は投げ飛ばしたい。しかし、電話に出なかったとしても、香澄の言う現実は変わらない。樹里はまた溜息を吐いた。
あの子の中に、千裕の子供がいる。考えたくもないが、考えなければいけない。頭がクラクラするような話だ。香澄も、今年で三十七歳。年齢を考えたら、産みたいと思う気持ちを理解できなくもない。夢を見ているのではない。現実がそう考えさせるのだ。樹里だって、今妊娠したら同じように考えると思う。ある程度年齢を重ねたからだろうか。怒りよりも女としての同情が、少しだけ勝っている気がしていた。
スマートウォッチが着信を知らせる。きっと千裕からだろう。バッグを覗き込む樹里は、既に気が重い。
「もしもし、千裕? お疲れ様」
「お疲れ様。樹里は今どこ? まだ仕事?」
「あ、ううん。これから帰るところ」
聞きたいこと、言ってやりたいことは沢山あった。だけれども、今じゃない。感情を剥き出しにぶつけたら、事実がどうであれ、きっと失敗する。だからまだ、何も言ったらいけない。冷静に向き合えるようになるまでは、何も言いたくない。そもそも、香澄の言うことが本当なのか。今の時点で、何の確証もないのだ。嘘である可能性だってある。心を落ち着けるように、胸に手を当て息を吐き出した。
「今日、家に来ない? 樹里の好きなプリン買って帰るよ」
「あぁ、えっと。ごめん。まだ資料整理しないといけなくて」
「えぇぇ……そっか。会いたかったのに、残念」
「ごめんね。ありがとう」
明らかにガッカリした声に聞こえた。千裕は、いい大人になっても、素直な感情を言うことに抵抗がない。初めはそれに驚いたが、段々とそれは嬉しいことへと変わった。こんな彼が浮気などするのだろうか。馬鹿正直な千裕が、それをバレずに隠し続けられるのだろうか。まずは、信じなくてどうするんだ。そも思うのに、果たして千裕の全てを知っているのだろうか。胸を張りきれずに、樹里は下を向いた。
「樹里、無理しないで。日曜日とかでいいから、落ち着いたら会いたいな」
すぐに返事ができなかった。昨日だったら、「そうだね、頑張るよ」と笑えたのに。無意識にネックレスに手が伸び、幸せを確認する。微かに震えていた手。現実が圧し掛かってくるのだ。指輪を一緒に買いに行こうって言ったよね? 今すぐにでも、そう問い質してしまいたかった。
「どうした?」
「あ、ううん。とりあえず、終わったら連絡するよ」
「うん。忙しくて大変だね。休み明けだっていうのに。俺なんてさ、何もしたくなかったもん。今日とか」
「あはは。だよね。分かる」
まるで棒読みだった。まだ千裕は何か言っているが、樹里には届かない。来年の春に生まれる命。もたもたしている場合ではないのではないか。あっという間にあの子の中で大きくなる。不穏が樹里を飲み込んでいった。
「あ、駅に着いた。また、連絡するね」
「うん。お疲れ様。本当に無理しないでね」
「ありがとう」
彼の言う優しい言葉が、何も響いてこない。もしかしたら、平然と嘘を吐いているのかも知れない。一瞬でもそう思ってしまったら、疑いしか残っていなかった。本当は、駅になど着いていない。ただズカズカと速度を上げる。信じたい。二人の六年は真実だったと思いたい。しかし、色んな感情がそれを邪魔する。
今は、何も考えない。考えない。考えない。心は何度もそう唱え、重い重い息を吐いた。冷静に判断をしなければいけない。そう思えば思うほどに、焦り始めた気がしている。誰かに話を聞いて欲しい。でも、こんなことを誰に話せるのか。子供という事実ができたのなら、あなたが身を引けと言われてしまう。樹里はわざと靴音を鳴らした。周りの陽気な声に耳を塞ぎ、酔っ払いの大きな声もシャットダウンした。何も見ない。何も聞かない。とにかく一人になりたい。下を向いたまま、現実から逃げるように歩いた。周りの陽気な声に耳を塞ぎ、酔っ払いの大きな声もシャットダウンする。何も見ない。何も聞かない。とにかく一人になりたい。下を向いたまま、歩くスピードが上がる。現実から逃げるようだった。そして、先に出来ていた大きな人だかりを避けようとした時――
「あんた馬鹿なの?」
急に飛び込んできた苛立つ女の声に驚き、樹里が顔を上げると同時に、髪の綺麗な女が目の前の男を平手打ちした。それは躊躇うこともなく、実に見事だった。
「何すんだよ」
「アンタ、馬鹿なの?」
「馬鹿って……ふざけんな」
「あのさ、まず私にそう怒る前に、自分が最低だって自覚ある? 気付かれなけりゃいいとでも思ってんの? 妊娠中の奥さんを放って、自分は若い女と遊ぼうだなんて甘いわよ。奥さん、気付いてるんじゃない。どうする? 連絡しようか。そうだ、そうしようよ。私も知らなかったとは言え、他人様の夫に手を出してしまったのは胸糞悪いもの。携帯貸して」
彼女は、ズイッと右手を男へ差し出した。呆気に取られているのは、樹里だけではない。聴衆の目が二人だけに向けられる。それを気にしない女と、その視線に狼狽えダラダラと汗を流す男。形勢は明らかだった。叩かれた怒りで、真っ赤に染まっていた男の顔。それはもう、恥ずかしさの色に変わったのだろう。チラチラと視線を周りにやり、もういい、と言い捨て走り去って行く。それは、酷く情けない後ろ姿だった。れに対し、とても清々しい女の横顔。ひと仕事終え、スッキリとしたようにも見えた。
「あ……え?」
徐々に向きを変えたその顔を目にし、樹里は驚き息を呑んだ。それから思わず二度見する後ろで、野次馬がそそくさと散っていくのを感じる。だけれども、樹里は一歩も動けなかった。
「あ、やだ。樹里さん。恥ずかしいところ、見られちゃいましたねぇ」
てへへ、と頭を掻いて、恥ずかしそうにする彼女――
「いやぁ。まったく嫌になっちゃいますよね。最悪な男に捕まるところでした。あんな男、寝る前で良かったです」
「ね、寝る前……ね。それは良かった」
ハハハ、と笑って誤魔化した。野次馬はもうだいぶ捌けているが、公衆の面前でそんなことを堂々と言うなんて。朱莉はまだ二十代後半。若い感覚なのだろうか。
朱莉はとても人懐こく、ハッキリとモノを言う性格である。可愛らしい微笑みで、誰にでも意見するのだ。そういえばサークルに入って来た時も、そうだった。
酒に酔ってニヤニヤしながら、彼女に言い寄った男がいた。周りには頃合いを見て助けようとした者も、どうしようと狼狽えた者もあって、一瞬で女達がピリッとしたのは言うまでもない。それはサークル活動であって、合コンではないからだ。だが彼女は、女達の心配の上を行った。セクハラで訴えましょうか、とあの可愛らしい微笑みでバッサリ切り捨てたのである。あまりの見事さに、女達は呆気に取られた。勿論、樹里もそこに含まれる。そして彼女が凄いと思ったのは、その後だった。今起こったことを気にすることもなく、朱莉は赤ワインをグビッと飲んだ。それから、「わぁ、これ美味しいですね」と樹里たちにキャッキャと笑い掛けたのだ。その時には、あまりの清々しさに拍手が起こったくらいである。
彼女はきっと、ルールを守らない人間が嫌いなのだ。樹里はそう理解している。
「樹里さん、帰るところですか」
「うん、そう」
「でも、樹里さん。駅、通り過ぎてますよ」
「え?」
そう言われて、ようやく辺りを見渡す。確かに、乗ろうとしていた駅を通り過ぎているではないか。樹里は、大きく項垂れた。
「じゃあ東銀座まで散歩しません? 私もどうせ浅草線だもん」
「あ、う……うん。そうね。気晴らしに」
「そうですね。気晴らしに」
何だか含みのある言い方だった。朱莉がそうしたいだけなのかもしれないのに、ついビクビクしてしまう。樹里は急いで、スッと仕事の表情を乗せる。こちらのことには触れないで欲しい。その一心で。
そんな樹里に、彼女は笑った。見事な平手打ちだったでしょう、と。
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