第21話 この気持ちの正体

「樹里ちゃん、あのカレー屋ね。思い出したんだけど、タケシだったか、タケルだったか。人の名前だった気がしたよ」

「本当?」


 朱莉はそう言って、タケトだったかな、と呟く。人の名前だったと分かっただけ、だいぶ進歩だ。朱莉との距離は、あの頃よりもずっと縮まっている。今ではこうして、彼女は『樹里ちゃん』と呼ぶ。それを嫌だと思ったこともないし、同じ会社にはいるけれどほぼほぼ仕事での接点はない。もう感覚的には、朱莉は普通の友人と同じだった。

 樹里たちより先に、朱莉は店に着いていた。お疲れ、と手を挙げて近付くと、彼女も座ったままそれに応じる。いつもと同じような待ち合わせだったが、違うのは一つ。樹里の後ろにガチガチに緊張した大樹がいたこと。初めまして、と挨拶した彼の声は震えていた。きっと彼女は僕のことを知らない。ここに来るまでに、そう何度言ったか。微笑ましい自己紹介に頬を緩めてたが、それを受けた朱莉は違った。あっけらかんと言ったのだ。なんだ同期じゃん、と。その言葉に拍子抜けした大樹と、ケラケラ笑って「お疲れ」と微笑んだ朱莉。つられて樹里も、何だ知ってたの、と思わず笑った。そうして流れるように始まったのが、この飲み会である。


「そうだ、樹里ちゃん。お部屋、いいの見つかった?」

「あ、部屋? 部屋、そうねぇ」

「あれ、でも樹里さん。最近、賃貸サイト見てないですよね」


 唐揚げを頬張りながら、大樹がそう指摘する。嘘だ。毎日見ていたはずだ。ハイボールを飲みながらそう思うのに、確かに最近見た物件が思い描けない。仕事が忙しくとも、ウキウキしながら探していた。時期は、年明け。少し仕事が落ち着いたら。そう決めて、通勤のシミュレーションだってした。あんなに楽しかったはずなのに。


「何? 樹里ちゃん、まさか……恋か。あ、うん。恋だな」

「はぁ? もう何言ってんの」

「朱莉さん。僕もそう思うんです。恋なら認めてしまった方が楽ですよね。それに最近、ここに皺が寄らなくなって」


 大樹が眉間に指を当てると、朱莉も同じように指を当てる。同じポーズを取った二人の視線が、一度にこちらを向いた。樹里は気不味くなり、ジョッキを持って視線をかわす。だって、あれは恋ではない。斎藤に感じた弾む心は、ただ共感し合える喜びだ。


「何、二人して。もう。私だって、ただ穏やかに仕事ができる時があるんですよ」

「へぇ、本当。でもねぇ、私は聞く権利あると思うよ」

「それはそうだけど。まぁそんなことがあったら、朱莉には話しますよ。ちゃんと」

「本当?」

「本当。嘘ついてどうするの」


 正直に言って、朱莉だけだったら素直に話しただろう。寧ろ聞いて欲しかった。でも今は、大樹がいる。流石に直属の部下に聞かせる話ではない。「ところで、朱莉。平野くんのこと知ってたの?」と話の矛先を変えた。この話題なら、ほら、思った通り。大樹が身を乗り出して、目を輝かせた。あまりに分かりやす過ぎて、朱莉が引いてしまわないか心配なくらいである。


「あぁ、ほら。樹里ちゃん覚えてるか分かんないけどね。私、元々社内広報にいたじゃない?」

「うん。初めの配属はそうだったよね」

「そう、それで知ったの。えぇと、平野くんって将棋部でしょう?」

「え、そうなの?」

「そうです、そうです。部員も少なくて、地味なんですけど」


 大樹は恥ずかしそうに頭を掻く。部下のサークル活動は知っているつもりだったが、これは完全に抜けていた。将棋部。確かに地味だが、歴史は古いらしい。だけれども、部内に将棋部の部員がいることすら聞いたことがなかった。 


「もっと入って欲しいねぇなんて言ってるんですけどね。皆、引っ込み思案で勧誘が下手なんですよね。自分たちなりに頑張ってるんですけどねぇ。増えません」

「まぁ会社的にもね。どうしても食事系のサークルの方が活発になるもんね」

「そう。だから、珍しいなって覚えてたというか。知ってましたね。話したことはなかったですけど」


 朱莉の言葉に、ニヤニヤと嬉しさを隠せない大樹。声も掛けられない高嶺の花の朱莉が、自分を認識していたのだ。まぁ仕方がないか。樹里はちょっと引き気味だが、朱莉は何も気になっていないようなのが幸いだろう。

 大樹の恋は、とても純粋だ。大人の恋とは呼べないほどに、まだ青々しい。だから、樹里のあの気持ちは恋ではないのだ。彼のような純粋な思いとは違う。じゃあ、この気持ちの正体は何なのだろうか。樹里はちょっと知りたくなった。

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