第22話 転がるのか、転がらないか
「で、本当はどうなの?」
「あ、あぁ。うん」
大樹と別れてすぐ、朱莉は樹里へそう言葉を向けた。彼がいたら話さない。あの場であれ以上突っ込まずにいたののも、それが分かっていたからだろう。チラッと樹里を覗き込み、何かはあったよね、と笑う朱莉。見透かされているな。苦笑いするしかないが、電車に乗り込みつつ、樹里は口を開いた。
「何かは、確かにあったの。本当に大した話じゃないんだけど」
「えぇ。でも恋というか、男の人と何かがあったんでしょう?」
「まぁ、そうだね。男の人、だね」
彼女には素直に話すことにした。斎藤という名の隣人の話を。ブンタという可愛い犬がいて、その子を通じて話すようになったことを。朱莉なら絶対に茶化さない。同じ目線を持った人に会った喜びだと、分かってくれる。そう思っていたから。
「分かる、分かるよ? けど、もう気になってるじゃん。好きかどうかというよりも、その手前? みたいな。だってそのおじさんのこと、つい考えちゃうんでしょう?」
「おじさんって……まぁ。うぅん、何て言うか。会いたいとか思うわけじゃなくてね。あの男と別れて、唯一淋しいなと思うことがあって。それが、そういうちょっとしたことを話せる相手がいないって気付いたことだった。だから、同じようなことに気付ける人だってことが、嬉しいなって思ってて」
「思って? ドキッとした?」
「ドキッとはしてない、けど」
ドキッとはしていない。ただ少し跳ねただけ。嬉しいって、心が喜んだだけ。ときめいてはいない。今夜も、言い訳のようだった。本当は隣の部屋の扉を、チラチラと気にしていたりする。ブンタに会えないかな、と思っていたりする。そうだ。会いたいのはブンタに、だ。
「犬には会いたいなぁって思うんだけど」
「それって飼い主も一緒にいるじゃん」
「そう、だよねぇ」
当然のことを返されて、樹里は珍しくオドオドする。駅に停まり開閉するドアを見つめて思っていた。これは恋ではない。そう思っているのは、間違いなのだろうか。
「朱莉、恋って何。どう始まるんだっけ」
「何だそれ。もう少し一緒にいたいとか。彼のことを知りたいとか。そういう感情じゃない? 胸がドキドキしたりさぁ」
「そういうものか」
「えぇ、何? 忘れた?」
「はい……忘れました」
朱莉は呆れた顔をして笑うけれど、樹里は当然だと思っている。千裕と六年も一緒にいて、そのまま結婚をするのだと思っていた。始まりの気持ちなど、もう必要ないはずだったのだ。どんな感情で、斎藤を見ていただろうか。月が綺麗だと言われただけで、そんな恋愛のような感情を抱いただろうか。
「樹里ちゃんが犬飼ったらさ」
「え? うん」
「私、同じマンションに引っ越すわ」
「何それ」
急に変な提案をした朱莉は、ケラケラッと笑った。彼女ならやるだろう。思い切りの良さは、憧れてしまうほどだ。樹里にそこまでの行動力はない。
「犬の名前はねぇ、ハナコね」
「あ、メスなんだ」
「そりゃそうよ。ブンタと仲良くする言い訳なんだから」
「そんな不純な動機じゃ飼いませんよ」
「だよね。分かってるって」
朱莉が窓の外に目をやると、電車は彼女の降りる駅へ入るところだった。ハナコの話は何なのか。聞いたところで、きっと意味などない気がした。ドアが開くと、うぅん、と朱莉が唸る。
「じゃあね。落ち着いて、考えてみてね。話なら、いつでも聞くから。ただ、自分にだけは嘘を吐かないように」
「はいはい。分かりました」
「じゃあ、おやすみ」
おやすみ、と言って手をヒラヒラさせる。朱莉もホームで同じようにして見せた。
「でもね、樹里ちゃん。それは恋の始まりだと思う」
ドアが閉まりかけた時、朱莉が笑ってそう言った。それから彼女は、忙しく携帯を弄る。まだ驚いている樹里のところに、ブルッとメッセージが届く。
『恋に転がるのか、転がらないかは、次に会った時で分かるんじゃない?』
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