第20話 他人の恋に誤魔化されたい

「今日は、蕎麦屋がだいぶ良かったですね」

「そうね。出汁がしっかり効いてて、おうどんに掛けてもいいよね」

「そうですね。最近は、そっち系が増えましたねぇ。もうお蕎麦屋さんのカレーで絞っても良さそうですよね」


 大樹と試食に出て、二人でタブレットと睨めっこをしている。プロジェクトは、『専門店以外のカレー』に着眼点を置き始めた。専門店は、既に色々雑誌に上げられていたりしている。隠れた名店の味を出すこの企画には、適した視点だった。

 今日の当たりは、ホームページを持たないような昔ながらの蕎麦屋。ウリは当然蕎麦なのだが、口コミには「カレー南蛮のカレーが美味い」と多く書かれていた。蕎麦を食べた後に、ご飯を投入する人もあるのだとか。レトルトにすると、どうなるか。どんなパッケージが合うか。樹里は頭の中で、色々と計算をしていた。

 

「そういえば、樹里さん。最近いいことありました?」

「え? 何もないわよ」

「そうですか。何だか明るくなったというか、コレが減ったと思って」


 大樹は人差し指を眉間に当てた。樹里もつられて、自分の眉間に触れる。まぁ確かに、顰め面は減ったかも知れない。だがそれは、プロジェクトの方向性が定まってきたからであって、彼の言うようながあったわけではない。心が躍るようなこともなければ、恋人ができたわけでもないのだ。何もない。そうバッサリ切り捨てようとして、フッと斎藤の笑顔が浮かんだ。


「何も、ない」

「え? 何ですか。その間」

「煩いな。もう。よし、もう今日は仕事はお終い」

「あ、了解っすぅ」


 ニヤニヤした口元で、大樹がそう言う。ギロッと睨んでみても、今は何も通じない。彼はもう、樹里にがあったと思っているのだ。反論する力もない。はぁ、と判りやすく肩を落とした。

 ブンタが隣室に住んでいると分かったのは、先週のこと。あの人の名前が、斎藤と知ったのも。樹里はあれから、あの時のほくほくとした温かさの正体を探していた。近しいのは、朱莉と仲良くなった時のような感情だと思う。決して、恋などではない。それは分かっているのに、何かスッと落ちて来なかった。もう一度、彼に会えれば分かるだろうか。そう思い始めて隣の扉を気にしているが、未だ彼には会えていない。 


「樹里さん。恋だって認めるのも一つですよ」

「何言ってんの」

「いや、何かその表情の変わり方。恋してる人でしたよ?」

「はぁ?」


 わざと大きな声を出して、自分の気持ちも一緒に蹴散らした。今、必死になるのは仕事だけでいい。やるからには、成果をあげたい。恋をしている場合じゃないのだ。千裕が結婚しようと何しようと、もう関係はない。確かに年齢のことを考えたら、悠長にしている場合でもないだろう。分かっている。けれど、そんなことで仕事に支障が出るのは御免だった。


「平野くん。今日は、金曜日ね。この後予定ある?」

「ないっすよ。どうせ家に帰って、両親とご飯を食べるだけです」


 そう言うと大樹が剥れた。彼が実家暮らしだと知ったのは、最近のことだ。都内なので不便はないらしいが、流石に三十近くなると、家を出ようかと考えるらしい。樹里が昼休みに部屋探しをしていれば、一緒になって探したりする。こういう部屋に住みたいとか、憧れはあるようだ。


「お母さんのご飯、キャンセルできる? 飲みに行こうか」

「いいですよ」

「朱莉、誘ってみるから」

「は、はいっ」


 分かりやすい反応の変化に、樹里は耐えられず声を上げて笑った。当然大樹はまた剥れたが、これは仕返しのようなものだ。それに、協力するといった恋のサポートを、何一つしてあげていない。それがずっと引っ掛かっていた。チャンスが訪れないならば、もう作り出すまで。最近朱莉に会えていないから、いい機会でもあった。


『お疲れ。仕事どう?』

『これから人畜無害な後輩連れて飲みに行くんだけど、朱莉も来ない?』

『最近会えてないからさぁ』


 そうササッとメッセージを送った。あれこれ付け加えると、朱莉は疑うだろう。人畜無害とまで言わなくても良かったが、酔って誘って来るような男ではないことは主張しておきたかった。少し緊張をし始めた可愛い部下のために。

 そんな大樹を見ていると、良いことをしている気になってしまう。金曜日だからと二人を誘い出し、ずっとしてあげられなかった恋の応援をする。一生懸命に頑張っている部下のために、と。だが、そんな表向きの理由に違和感を覚えないわけではない。樹里だって気付いているのだ。本当は違う、と。この間のちょっとだけ跳ねた心を、否定したい。周りがなんと言おうと、あれは恋の始まりなんかじゃない。そう思いたいのだ。仕事に集中したい今は、他人の恋に誤魔化されていたい。 

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