第10話 左手の指輪
週末は、約束通り朱莉と映画を観に出掛けた。笑ったり、驚いたりと忙しそうな彼女の隣で、登場人物の名前を覚えるのに四苦八苦した樹里。実際はどうか知らないが、ヤクザの名前は難しい。敵か味方かの区別がすぐに付かず、皆同じように見えて大変だった。それを朱莉は笑い、樹里は剥れ、仕舞いに二人で腹を抱える。そんな風にカッコつけずに付き合える関係が、とても心地が良いのだ。学生時代に戻ったようで、久しぶりに自分自身を取り戻した気がしていた。
そうやってリフレッシュし仕事に打ち込んでいるが、相変わらず店か決まらない。今日は大樹を連れ、店舗巡りをしている。チームメンバーや社内のクチコミが参考に上がって来るが、やはり実際に食べてみないことには分からない。ミーティングの合間を縫って、こうしてちょこちょこ出掛けているのである。
「平野くん、どうだった?」
「そうですね。商品にしたら、トマトの酸味が強過ぎるかなと思いました」
「あぁうん。確かに。商品化したら、酸味が勝っちゃうか」
「ですね。もう少しマイルドで、塩味の立ってる物の方が良いかなと」
的確な意見だと思った。樹里は少し驚いている。大樹と試食に出たのは、今日が初めてだ。いつもの頼りない彼しか知らなかったが、評価がこんなにもしっかりしているとは思わなかった。
「平野くん、味覚センサー高いね」
「そうですか」
「うん。じゃあ、今日のミートソース。平野くんなら、何を足す?」
「そうですね。もう少しトマトの水分を飛ばして、蜂蜜ですかね。でも一番は、トマトの種類を変えたい」
「なるほど。平野くん、とっても敏感に味を察してるね」
素直に褒めると、驚いた顔見せた大樹は、嬉しそうに表情を崩した。ありがとうございます、と答える顔がニマニマしている。それが何だか可笑しくて、可愛らしい。
「あぁ映画」
「ん?」
「いや、ほら」
照れ隠しのように、彼は話を変えようとする。指差すのは、駅に貼られた映画のポスターだ。それは、週末に朱莉と観たアレである。
「樹里さん、最近何か観ました?」
「あぁ週末に、ちょうどこれ観たよ」
「へぇ、こういうの見るんですね」
「いや、私の趣味じゃないの。朱莉、あぁ一緒に行った子がね、観たいって言うからさ」
嫌いだと端から決め付けていたら、絶対に出会わなかった映画だった。初めて知る役者がいたり、曲が良かったり。ストーリー以外での楽しみも見つけることができた。良い体験だったと思っている。
「樹里さん。今、アカリって言いました?」
「え? あ、ごめん。友達」
「お友達。そうですか」
大樹には、広報部の子だと言えばよかったか。最近は、会社の後輩というよりも、ただの友人として付き合っている。そのせいか、当たり前の説明が出来なかった。樹里は首を捻って、暫し考える。彼が朱莉を知っているとも限らないし、嘘ではない。友達として付き合っているし、まぁいいか。一人、そう納得する。うんうん、と小さく頷いた時、不意に前の方から名前を呼ばれた気がした。ゆっくりと、その方向へ視線を向ける。
樹里。そうもう一度呼ぶ声は、聞き馴染みがあった。ゆっくりと合った視線。その瞬間、顔が引き攣るのが分かった。彼は、長い間隣にいた男である。ここは元の会社の最寄りだと思い出し、樹里は項垂れた。
「樹里」
「……人違いじゃないですか」
「そんな訳ないだろう。何年一緒にいたと思ってんだ」
何年一緒にいたと思ってる? 六年半ですよ。誰かのせいで終わりましたけどね。そう言ってやろうかと思ったが、大樹もいる。腹は立つが、穏便にやり過ごさねばならない。脳内のコンピュータの処理速度を上げた。
「人違いだと思います。失礼します」
「待って、待ってよ。樹里。話があるんだ」
千裕が樹里の手首を掴む。それがまた苛立たせる。別れた原因を作ったのは、千裕の方だ。こうする意味が分からない。縋るくらいなら、浮気をするな。今も彼に湧く感情は、それだけだった。
「離してください」
樹里を掴む千裕の手に目をやり、目を見開いてフリーズした。微妙な間が空いて、力一杯にその手を振り解く。それから、逃げるように駆け出していた。もうどうだっていい人なのに。明らかに、樹里は動揺している。見てしまったからだ。彼の左手の指輪を。
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